2021年8月29日 「わたしはまことのぶどうの木」(ヨハネ15章1-11節) | 説教      

2021年8月29日 「わたしはまことのぶどうの木」(ヨハネ15章1-11節)

 今日の個所は、主イエスの「わたしはまことのぶどうの木」という言葉で始まっていますが、ヨハネの福音書の中で、イエスは「わたしは~である」とご自分をいろいろなものに例えて教えておられる個所が全部で7つあります。今日の個所はその最後のものです。14章の最後で、主は弟子たちに「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」と言われているので、主イエスと弟子たちは、ここで、最後の晩餐を行った部屋を出て、次に行く場所に向かったかも知れません。それは、エルサレムの街の東にあったオリーブ山のふもとにあるオリーブ畑でゲッセマネと呼ばれていました。。主イエスと弟子たちは、よく、このオリーブ畑で祈りの時を持っていました。おそらく人気のない静かな場所だったので祈る場所には相応しい所だったのでしょう。主イエスと弟子たちはエルサレムの街の外に出て、谷を通ってオリーブ畑に行ったのですが、その途中、ぶどう畑の前を通ったのかも知れません。

(1)まことのぶどうの木
 主イエスはご自分のことを「わたしはまことのぶどうの木」と言われました。主がご自分のことを「まことのぶどうの木」と言われたのは、ぶどうの木に本物のと偽物があって、自分は本物のぶどうの木だと言われたという意味ではありません。実は、旧約聖書の中で、ぶどうの木やぶどう畑はイスラエルの民を表すシンボルとして繰り返し用いられています。今でも、イスラエル観光局のシンボルは2人の人が大きなぶどうを房を担いでるイラストです。イスラエルには、昔から豊かなぶどうを実らせるぶどう畑がありました。ただ、旧約聖書では、イスラエルの民をぶどう畑やぶどうの木に例えているのですが、その内容は、イスラエルの民は、本当はすばらしいぶどうのはずなのに、神様の教えに従わなかったために、悪いぶどうになってしまったというイスラエルの民の信仰の堕落を示す例えとして用いられています。代表的なものがエレミヤ書の2章21節です。「わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったしまったのか。」良いぶどうはそれだけの価値があるすばらしいものです。スーパーに行くとぶどうを売ってますが、おいしそうなぶどうはみなとても高いです。一房で2000円くらいします。イスラエルの民は、元々すばらしいぶどうの木として神様によって植えられたのに、彼らは良い実を結ぶことができず、非常に質の悪いぶどうしか実らせることができませんでした。従って、主イエスがここで、「わたしはまことのぶどうの木」と言われたのは、イスラエルの民が神様への信仰において堕落したのとは違って、主イエスはいつも父なる神に忠実に仕えて、良い実を実らせる、本来の働きをするぶどうの木であるという意味で、「まことのぶどうの木」と言われたのです。

(2)わたしの父は農夫です 
 主イエスは、2節で父なる神を農夫に例えています。農夫とはぶどうの木の世話をする農夫のことですが、主イエスは、父なる神である農夫は2つの仕事をすると言われました。一つは、ぶどうの枝で実を結ばない枝を取り除くことであり、もう一つは、実を結ぶ枝がもっと多くの実を結ぶように刈り込みをすることです。父なる神がぶどう畑の農夫として最も願っていることは、ぶどうの枝が多くの実を結ぶことであり、そのために、この二つの働きをされるのです。ここで、最初の仕事として実を結ばない枝を取り除くという部分ですが、「取り除く」と訳されたギリシャ語は「エイロー」という言葉です。確かに、この言葉には「取り除く」「切り落とす」という意味もあるのですが、最も多く使われるのは「持ち上げる」「高くする」という意味です。イエスが言われた「実を結ばない枝」とは、地面に垂れ下がっている枝のことを指している野だと思います。スイカやカボチャは、つるが地面をはっていても、そこで立派な実を結ぶことができます。しかし、ぶどうは、ぶどう棚を作って栽培するように、空気の中で上から垂れ下がる必要があります。ぶどうの枝が何らかの理由で地面をはっていると、実を結ぶことができません。しかし、その枝に支え棒を入れて枝を持ち上げると、空気に触れて十分な太陽の光を受けることができるので実を結ぶようになります。農夫は、地面を這うぶどうの枝は実を結ばないので、実を結ぶようになるために、その枝を地面から持ち上げるという意味だと思います。というのは、主イエスが2節で強調しておられることは、農夫である父なる神は、何とかして、枝が多くの実を結ぶようにと、いろいろと働かれるということだからです。これまで一生懸命にぶどうの木を育てて来た農夫が、枝が実を十分に結んでいないのを見て、すぐに切り捨てるのは、不自然です。農夫が枝が実を結ぶようにいろいろ工夫をして実を結ぶようにさせるほうが自然ではないでしょうか。もちろん、そのように工夫をしても実を結ばない枝は、やがて切り捨てられることになります。神様は、私たちに対しても同じように扱われます。実を結ばないクリスチャンをすぐに切り捨てるのではなく、忍耐して私たちをご自身により近い所まで持ち上げて、私たちが神様から必要な霊的栄養や祝福を受けられるようにしてくださいます。神様は、私たちが十分な信仰の実を結んでいないのを見られたら、まず、私たちが実を結ぶ者になるように私たち持ち上げてくださるのです。
 農夫が行うもう一つの仕事は「刈り込み」です。2節の後半にこう書かれています。「実を結ぶものはすべて、もっと多くの実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」新改訳聖書では「刈り込み」と訳されていますが、脚注に直訳すると「きよくする」という意味だと書かれています。このギリシャ語は「カタリゾー」という言葉ですが、第一の意味は「きれいにする」「きよくする」です。それは、あるものから、きれいではないもの、役に立たないものを取り除くという意味を持つので、ここでは「刈り込み」という訳がつけられています。ぶどうの枝についている不必要なのものとは、枝にいる虫や、枝についたコケなどでしょう。それを取り除くと枝はより多くの実を結ぶようになるのです。このことを私たちの信仰にあてはめて考えるならば、神様は、クリスチャンの生活の中で、神様への信仰の妨げになるものを取り除かれるということを意味します。それは、私たちの悪い生活習慣を断ち切ることや、何を一番大切にしているのかについて私たちが持っている間違った価値観を正しいものにすることなどがあります。
 そして、ここでは、その順番が大切です。私たちの信仰が、地面に垂れ下がった枝のようであるならば、最初に、神様に高く引き上げられることが必要です。私たちが、神様の近くに引き寄せられて、神様との関係がより近くなると、自然に私たちの信仰生活は実りのあるものに変えられます。すると、神様は、私たちの中に信仰成長の妨げになるようなものが残っているなら、それを取り除いて、私たちの信仰をより純粋なものにしようと働かれるのです。今、神様が私たちを清くする、純粋なものにするために用いられるのは、聖書の言葉と聖霊の働きです。私たちは、神様の基準に従ってきよめられなければなりません。私たちのうちにも、清さに関する考えはありますが、それは人間の考えであって、神様の考えではありません。神様の考えや基準を示しているのがみ言葉です。主イエスは3節で「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」私たちが、聖書の言葉を注意深く読んだり聞いたりして、それを実際に自分の生活の中で実践しようとして行く時に、聖霊が働いて、私たちの内側が、少しずつ、キリストに似たものに変えられて行くのです。み言葉には私たちの魂の奥底まで刺し通す鋭い刃物のような力があります。
(3)わたしにとどまりなさい
主は5節でこう言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れてはあなたがたは何もすることができないのです。」ここで、主は、ぶどうの木の枝が多くの実を結ぶための秘訣について語っておられます。それは枝がぶどうの木であるイエスにとどまることです。どんな木の枝も、木の幹から離れてしまったら実を結ぶことはできず、枯れてしまいます。枝は、幹から離れると命を失うのです。クリスチャンも、主イエスから離れてしまうと、クリスチャンとして実を結ばないだけではなく、霊的ないのちを失ってしまいます。クリスチャンとして実を結ぶ秘訣はただ一つ、主イエスのうちにとどまるということです。木の枝が実を結ぶのは、その枝が、一生懸命頑張って栄養を受け取り、その栄養を力にかえて実を結ぶのではありません。枝は実を結ぶために努力をする必要がありません。幹にしっかりと結びついているなら、幹が枝に、ぶどうの実を結ぶために必要な水分や栄養を運んでくれるからです。クリスチャンも、実を結ぶために必要なことは、実を結ぼうと努力することではなく、幹であるキリストにしっかりと繋がっていることです。枝には、幹に繋がっていれば自然に実を結ぶ能力が与えられているのです。
 では、神様は、私たちがどのような実を結ぶことを期待しておられるのでしょうか。神様が願っておられるのは聖霊の働きによって私たちの内側に与えられる新しい性質です。ガラテヤ書の5章に御霊の実として9つの性質が記されています。ガラテヤ書の5章22,23節を読みましょう。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」これらは、主イエスが持っておられる性質です。私たちは、主イエスを救い主と信じる時に、主イエスと堅く結びつけられました。信じる前は、私たちの霊的ないのちは死んでいたのですが、主とつながったことによって新しい霊的ないのちが与えられました。私たちは以前は枯れ枝のような存在だったのです。しかし、そのような死んだ枝であった私たちが、主イエスを信じた時に、主というぶどうの木に接ぎ木されたようなものなのです。主イエスに接ぎ木されると、不思議なことに、ぶどうの木から新しいいのちと新しい性質が接ぎ木された枝に流れ込むようになるのです。私たちがしなければならないことは、実を結ぼうと頑張ることではなく、しっかりとイエスに繋がり続けることです。私たちは、主イエスを信じて罪の滅びから救われた後、するべきことは、主イエスと結び合わされた状態を保ち続けることです。具体的に言えば、み言葉を読み、その言葉に教えられ、主に向かって祈りを捧げることです。このようにして主イエスとの交わりを持ち続けることです。私たちは特別なことをする必要もないし、特別な能力も必要ありません。ただ、主イエスといつもみ言葉と祈りでつながっていることだけです。外側の形だけ御霊の実があるように見せるのではありません。主イエスにつながっていれば、主イエスが持っておられる性質が、自然に私たちの中に流れてくるようになるのです。私たちは、クリスマスツリーに飾りをつけるように、これらの性質を自分の上にはりつけるのではありません。それは偽物です。いのちのない飾りです。本当の実は内側から現れて来るのです。神様は、私たちの枝に御霊の実が実ることを期待しておられます。しかし、6節に警告のことばが記されています。「わたしにとどまっていなければ、その人はえだのように投げ捨てられて枯れます。」ぶどうの枝は柔らかくて、ぶどうの実を実らせる以外に、用いることができません。ぶどうの枝で何かを作ることはできないのです。従って、実を結ばない枝は、投げ捨てられて燃やされてしまうのです。実を結ばないぶどうの枝は、塩気を失った塩のように、まったく役に立たないものになってしまいます。私たちは、他の人を見るのではなく、自分自身を吟味してみましょう。自分が本当に御霊の実を結んでいるかどうかを調べてみましょう。もし、実を結んでいないなら何をすればよいのでしょうか。イエス様は言われました。わたしにとどまりなさい。
 20世紀初頭アラブ民族がトルコに支配されていた時代に、アラブ民族の独立に尽力したアラビアのロレンスと呼ばれたイギリスの軍人がいました。ある時ロレンスがアラブ人の友人を連れてパリに旅行し、凱旋門やルーブル美術館などを見せて回りましたが、何を見てもアラビア人たちは感動した様子がありませんでした。彼らが一番興味を見せたのは洗面所の水道の蛇口でした。彼らは何度も蛇口を回して水を出したりとめたりしていました。砂漠の国に住む彼らにとって蛇口を回すと水が出ることが不思議だったのです。パリを出発する日、アラブ人たちは道具を使って蛇口を外そうとしていました。彼らは言いました。「砂漠の国に必要なのはこの蛇口だ。これがあればいつでも水が飲める。」ロレンスは彼らに説明しました。「この蛇口が水を出すのではないんだよ。この蛇口は、大きな水ためにつながっているんだ。これを回すと、大きな水ための水がここから出て来るんだ。これだけを持って帰っても水を得ることはできないんだよ。」私たちは、ある意味でこの蛇口のようなものです。私たちは、イエスに繋がっていれば、主イエスの中にある性質が私たちを通って流れ出るようになるのです。

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