2021年9月5日「友のために命を捨てる愛」 (ヨハネ15章12-17節) | 説教      

2021年9月5日「友のために命を捨てる愛」 (ヨハネ15章12-17節)

 今日の説教のタイトルは「友のために命を捨てる愛」ですが、私たちは、「友だち」とか「友情」という言葉に大きな魅力を感じます。なぜかと言うと、私たちは、友だちとの親しい関係を持ちたいと言う願いが心の中にあるからです。聖書は、私たちは、神のかたちに造られたと教えていますが、その意味は、私たち人間は、外見だけではなく、能力、性質、感情といった目に見えない部分で神に似ている者として造られていることを表しています。聖書の神は三位一体の神です。神様は唯一、つまりお一人の神ですが、一人の神の中に父と子と聖霊という3つのパートがあり、その3つのパートが完全に一つなって存在するほどそれぞれが親しい関係で結ばれています。聖書は、神は愛です。と教えていますが、愛が成り立つためには、どうしても3つの要素が必要です。愛を与える者、愛を受ける者、そして愛という感情です。聖書の神は、ご自身が愛として存在するために、3つのパートを必要としているのです。そのような愛の関係の中に存在する神に似たものとして、私たちは造られているので、私たちは、本能的に、愛したいという願いと愛されたいという願いを持っています。だから、私たちは、友だちのような親しい関係を持ちたいと願うのです。しかし、実際には、本当の友だちを持つことは少ないです。学校や仕事場の仲間でよく話をする人は多くいると思いますが、本当の友と言える人は少ないのではないでしょうか。

 聖書の中で「神の友」と呼ばれたのはアブラハムです。旧約聖書のイザヤ書や新約聖書のヤコブの手紙の中にアブラハムが神の友と呼ばれたことが記されています。神様にとって「友」とはどんな存在でしょうか。旧約聖書の時代に、「王の友」と呼ばれた人がいました。ダビデ王にはフシャイという王の友がいました。王の友とはどんな立場の人かと言うと、王様にとって最も近い存在で、王が一番信頼を置いていた人物でした。国の王様は権力を持っていますが、同時に敵も多く、命を狙われることがよくあります。旧約聖書の列王記を見ても、王様が反乱によって殺される出来事が繰り返し出て来ます。実は、王様というのは非常に孤独な存在だったのです。そんな王様が最も信頼し、一番心を開いて話をする人物が「王の友」でした。「王の友」は、王様にとってプライベートな場所である寝室にまで入ることが許されたほどです。そして、王様は王の友に自分の考えていることや感じていることを何でも親しく話をしていました。それほどに、「友」は王様にとっては大切で、近い存在だったのです。私たちが考えるよりも、はるかに重要な関係であることが分かります。

 15節で、主イエスはこう言われました。「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」私たちは、もともと神を知らずに生きていました。神を信じることなく神に逆らって生きていたので、私たちは神の敵として生きていました。しかし、主イエスは、私たちの罪の罰をご自分が身代わりとなって十字架の上で受けてくださいました。そのおかげで、本当は私たちが自分の罪の罰を受けなければならないのですが、受ける必要がなくなり、私たちは自分の罪で裁かれることがなくなりました。神様の前では犯罪人であったのが、主イエスを信じることによって完全に無罪となったのです。これを「贖い」と言います。私たちは主イエスによって罪の裁きから贖いだされました。もともと、この「贖い」という言葉は、奴隷について使われていた言葉です。Aという主人の奴隷をBという主人が自分の奴隷として欲しいと思った時に、相手と交渉をしてお金を払うことで自分のものにすることができました。すると、この奴隷は元々はAの奴隷だったのですが、贖い金が支払われたことによって、Bの奴隷になりました。私たちは、主イエスを信じる前は、自分の罪に支配されていた罪の奴隷でした。しかし、主イエスが、お金ではなく、自分のいのちを差し出すことによって、私たちを罪の奴隷から解放し、そしてご自身の奴隷にしてくださいました。ただ、私たちの身分は、買い取られた者ですから、本来は、私たちは神の奴隷なのです。「奴隷」という言葉にはあまり良いイメージはありません。主人の支配下に置かれているからであり、人間の主人は悪い人も多かったからです。奴隷は、主人の家で働いていますが、奴隷は主人と親しい関係にあるのではありません。普通は、奴隷は、主人が何をしているのか、どんなことを計画しているのか知りません。主人は奴隷にそのようなことを話しません。主人は、ただ奴隷に、自分がしてほしいと思うことを命令するだけです。そして、奴隷は、好む好まないに関係なく、それをしなければなりません。私たちは、主イエスの十字架の犠牲によって、罪に裁きから解放されて、主イエスの奴隷となりました。私たちは、主イエスの奴隷なのです。したがって、私たちは、主人である主イエスの命令にはすべて従わなければなりません。この世の多くの奴隷は幸せではありません。悪い主人が多く、奴隷を人間とは考えずに、自分の道具のようにこき使うことが多いからです。しかし、主イエスは、私たちにとっては、すばらしい主人です。主イエスの命令には悪意のこもった命令はありません。主イエスの命令は、すべて、私たちにとって最善なこと、プラスになること、私たちが悪の道に陥ることを防いでくれる命令です。だからこそ、私たちは主イエスの命令に従わなければならないのです。

 しかし、主イエスは、そんな私たちを「しもべ」や「奴隷」ではなく、「友」と呼んでくださるのです。何と光栄なことでしょうか。私たちには、主から「友」と呼ばれる資格は何もありません。主イエスは王の王、主の主と呼ばれる方です。そのような主イエスが私たちを「友」と呼んでくださるのです。15節で言われているように、「主イエスは父なる神から聞いたことをすべて、わたしたちに知らせてくださる」のです。ある時、主イエスが群衆に向かってたとえ話を話された後に、12弟子だけを集めて、そのたとえ話の意味を説明したことがありました。その時、主イエスは弟子たちに、「あなたがたには、天のみ国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。」と言われました。奥義とは、キリストがこの世に来るまでは人間には隠されていた神に関する教えのことです。主イエスは、弟子たちに、神の国について、教会について、聖霊について、また世の終わりについて数多くの奥義を教えてくださいました。私たちも主イエスの弟子です。このように、主イエスは、ご自分を信じる者たちを「友」と呼び、私たちに神のメッセージをすべて伝えてくださるのです。だから、私たちは、自分自身についても、この世についても、また、自分やこの世の終わりのことについても、主イエスから教えられているので、どのような状況に置かれていても、私たちには王である主イエスが共におられことを知って、平安を感じることができるのです。

 ただ、私たちが主イエスの友になるのには条件があります。それは、14節で主イエスが「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。」と言われていますから、その条件とは、「わたしたちが主イエスの命令に従う」ことが条件になります。では、主の命令とはどんな命令なのでしょうか。それは、12節の主イエスの言葉の中で言われています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」しかし、主イエスは、ただ私たちに命令を与えただけではありません。私たちが主の命令に従うことができるようにご自分が模範を示してくださいました。13節の言葉を読みましょう。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」主ご自身がこのことを実行してくださいました。主イエスは、命令をするだけではなく、自分からまず実行しておられるのです。このように、愛する者のためには、私たちも犠牲を払うことができます。私たちは、主イエスにいくら感謝しても感謝しすぎることはありません。主が十字架にかかってくださらなかったら、私たちは、未だに、自分の罪の支配下に置かれて、永遠の滅びに向かって進んでいました。しかし、主イエスは、自分から進んで、本当は私たちが受けなければならない罪の罰を受けてくださいました。私たちには、私たちのためにいのちさえも惜しまずに犠牲を払ってくださるほど私たちを愛してくださる友、イエスがおられます。これが私たちにとって、喜びであり、また生きる支えになります。たとえ、私たちがこの世の人々からは無視されたり、正しい評価をされなかったり、ひどい扱いを受けたとしても、私たちには、最高の友人イエスがいるのです。それは私たちがこの世で生きる時に、大きな力になります。

 16世紀のドイツの画家デュ―ラーが描いた「祈りの手」という有名な絵がありますが、この絵は二人の人の素晴らしい友情によって生まれた作品でした。ドイツの田舎にデューラーとハンスという二人の若者がいました。二人とも貧しい家庭の出身でしたが、画家になりたいという夢を持っていました。二人は版画を掘る親方のもとで見習いとして働いていましたが、貧しい生活は変わらず、いつ画家になれるのかまったく分かりませんでした。そんな時に、ハンスがデューラーに一つの提案をしました。「このままでは二人とも画家になることはできない。僕にいい考えがある。二人で一緒に勉強することはできないので、一人ずつ交替で勉強しよう。一人が働いてもう一人のためにお金を稼いで、絵の勉強を助けるのだ。それで、一人が絵の勉強を終えたら、今度は、もう一人のほうが絵の勉強をし、もう一人が働いて彼を助ければ良い。」そして、ハンスはデューラー「自分が仕事をするから先に勉強に行ってこい」と言いました。ハンスはイタリアに行って絵の勉強をしているデューラーを支えるために鉄工所で懸命に働きました。デューラーは、ハンスの助けを受けながら絵の勉強を続け、イタリアで高い評判を得るようになったので、故郷のドイツに戻りました。彼はハンスとの再会を喜びましたが、ハンスの手を見て唖然としました。ハンスの両手は長年の力仕事ためにごつごつになりもはや絵筆を持つことはできなくなっていたのです。デューラ―は自分が成功するためにハンスが犠牲を払ったことに罪悪感を感じました。ある日、彼はハンスに何か償いをしようと思って、ハンスの家に行きました。ドアをノックしましたが応答がありません。しかし、中から声が聞こえてきます。彼はそっとハンスの家の中に入ると、ハンスは神様に祈っていました。「デューラーは私のことで罪悪感を感じています。どうか、彼がこれ以上苦しまないようにしてあげてください。私が果たせなかった夢を彼が果たせるように彼を守り祝福してください。」デューラーは、ハンスの祈りを聞いて胸を打たれました。彼はハンスが自分の成功を妬んでいると思っていました。ハンスが祈り終わった時、デューラーがハンスに言いました。「お願いだ。君の絵を描かせてくれ。君のこの手で僕は生かされたんだから。」このようにして1508年に、デューラーの友情と感謝のこもった絵「祈りの手」が完成したのです。

 本当の友は、相手のために犠牲を払うことを嫌だとは思いません。主イエスは、私たちがイエスの友となって喜びと感謝の心で生きることができるようにと、ご自分から十字架にかかるという犠牲を払ってくださいました。いやいやながらの犠牲ではありません。主は、自分からすすんで十字架にかかってくださったのです。さらに主は16節でこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがを選び、あなたがたを任命したのです。それはあなたがたが言って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」私たちと主イエスの関係は、もともと主人と奴隷の関係でした。奴隷は主人を友として選ぶことはできません。できるとすれば主人だけです。主人である主イエスが私たちを友に選んでくださいました。私たちが友を選ぶとき、自分が好きな人、相性が良い人、何らかの意味で自分にプラスになる人を選びます。主イエスは私たちを友に選んでくださいました。イエスの友に選ばれることは本当に光栄なことです。そして、主が私たちを選んでくださったことには目的がありました。それは、私たちがこの世に出て行って、多くの実を結ぶことです。主は私たちが多くの実を結ぶブドウの枝になってほしいと願っておられます。この場合の実は、私たちを通して主イエスを信じる人々のことを表しています。私たちが主イエスの友に選ばれたのは、私たちがこの世に出て行って多くの人々を救いに導くためなのです。その尊い働きのために私たちを選び、私たちをその働きに任命してくださいました。私たちが生きる目的は何でしょうか。主イエスのために多くの実を結ぶブドウの枝になることです。また、主イエスが私たちを選ばれたことについて、一つの約束についても語られています。。それは、主イエスの名によって私たちが父なる神に祈り祈りに、、父なる神が必ず答えてくださるという約束です。ただし、忘れてはならないことがあります。それは、この約束が実現するために、私たちは主イエスの命令を実行しなければなりません。どんな命令だったでしょうか。それは、「私たちが主イエスに愛されたように、互いに愛し合うことです。」私たち、北本福音キリスト教会に属する私たちは、一人一人、互いに愛し合う群れでなければなりません。その時に、この教会は多くの実を結ぶ教会になります。主イエスは、そのような教会を見る時に、自分の十字架の死が無駄ではなかったことを知って喜ばれるでしょう。

2021年9月
« 8月   10月 »
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

CATEGORIES

  • 礼拝説教