2021年10月10日 『奥底からの祈り』(ヨナ書2章) | 説教      

2021年10月10日 『奥底からの祈り』(ヨナ書2章)

 先週からヨナ書を読んでいます。ヨナは主イエスよりも800年ほど前に、北イスラエル王国で活躍した預言者ですが、神様からとんでもない任務を受けました。それは、イスラエルの長年の敵であるアッシリアの都ニネベに行って、そこに住む人々に叫びなさいというのです。神様は預言者ヨナに、ニネベに行って、人々に神の前で自分の罪を悔い改めを叫ぶという任務をお与えになりました。ニネベの人々は、これまでさんざんイスラエルを苦しめ、多くの人を残酷な方法で殺していました。そんな人々のために悔い改めを勧めて、もし、彼らが自分の罪を悔い改めたら、神様は、きっと彼らの恐ろしい罪をも赦されるはずです。ヨナにはそれが我慢できませんでした。そのため、彼は、神様の命令に逆らって、ニネベとは反対の西側で、当時、地中海の西の果てと見なされていた。「タルシシュ」という街へ出かけて行きました。彼は、神様を捨てました。預言者として生きることを辞めて、神様の任務をも捨て去りました。神様から無茶な命令に従えなかったからです。」彼がタルシシュに行くためにヨッファの港行って見ると、ちょうど、タルシシュ行きの船が出発するところでした。それを見て、ヨナは心の中で思ったでしょう。「これこそ、私が行くべき場所だ。自分の考えは正しかったのだ。」と安心したことでしょう。しかし、自分を取り巻く状況や都合だけで物事を判断するのは危険です。そこにタルシシュ行きの船があったのは、神様の働きによって起きたことです。神様は、自分から逃げようとしているヨナを連れ戻すために、すでに、すべての計画を決めておられたのです。ヨナは、神様がニネベの人間の罪を赦すかもしれない、そのことを受け入れることができなくて、預言者であることを止めて、神様から離れようとしました。しかし、神様は、ヨナ一人のために大嵐を起こし、大きな魚をあらかじめ用意して、彼を本来のいるべき場所に連れ戻そうと働いておられたのです。ヨナは神様を見捨てました。そして、自分は神様に見捨てられても構わないと思っていました。しかし、神様がヨナを見捨てることはありませんでした。

(1)大きな魚
 1章の17節にこう書かれています。「主は大きな魚を備えて、ヨナを吞み込ませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」ヨナ書と言えば、誰もが、ヨナが魚に吞み込まれて、三日後に吐き出されて助かった物語と考えます。ある聖書学者は、「人々がクジラのお腹の中で起きた出来事ばかりに注目をして、ヨナの心の中で起きたことにはまったく無関心なのはとても残念なことだ。」と言っているのですが、確かに、ヨナ書で大きな魚について語っているのは1章の17章でヨナを呑み込んだことと、2章の10節で、「主は魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させた。」の2か所だけです。2章全体には、ヨナの祈りが書かれていて、この出来事によってヨナの心の中がどのように変わったのかが記されているのです。ヨナ書が伝えたかったメッセージは、実は、このヨナの祈りなのです。
 ただ、この出来事について、聖書は一つのたとえ話として書いているのか、歴史的な事実として書いているのかを考えなければなりません。実は、主イエスが、この出来事について語っておられます。マタイの福音書の12章39,40節です。こう書かれています。「しかし、イエスは答えられた。『悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、預言者ヨナのしるしは別です。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。』」ここで、主イエスは、ご自分が十字架に掛けられて死に、墓の中に葬られて、三日目に死から復活することを示すしるしとして、ヨナのしるしについて語っておられます。しるしとは常識では考えられない不思議な出来事ですので、主イエスは、ヨナの物語を、たとえ話としてではなく実際の出来事として語っておられることが分かります。主イエスは真実な方ですから、ヨナの出来事は単なる物語ではなく、実際の出来事と考えなければなりません。
 ただ、実際に、そのようなことが可能なのでしょうか。イギリスの百科事典ブリタニカには、一つのサービスがあって、人が何かについて調べていて、それに関する情報がブリタニカには載っていない場合、ブリタニカにそれに関する資料を求めると、ブリタニカ側で調査をして返事をくれるというサービスです。ある人が「ヨナを飲み込んだクジラ」に関する情報を求めたところ、4ページの報告が送られてきたそうです。その内容の大部分は、1927年に出されたアメリカのプリンストン神学校の論文記事から取られていたようです。この論文は今でもインターネットで見ることができます。私もざっと目を通しました。二つのことが中心となっていました。(1)くじらは人間を呑み込めるのか?クジラにはいろいろ種類があり、歯が生えているもの、歯がないもの、食道が小さいもの、大きいものがあります。マッコウクジラの大きなものの場合、口も食道も大きく、人を十分に呑み込めます。マッコウクジラはダイオウイカのような巨大なイカをそのままよく呑み込むそうです。もう一つは、クジラのお腹の中で人は生きれるのかという問題ですが、これについて、その記事によると、クジラのお腹には大きな体を浮かせるために空気が入っているとのことです。ただ、その温度は40度近いので決して快適な状況ではありません。クジラの胃液は皮膚に炎症を起こすであろうが、その胃液は胃の壁を溶かさないように、生きているものを溶かさないと書かれています。つい最近、クジラに呑み込まれた人がしばらくして吐き出されて助かったという話がありましたが、その記事によると、1891年。フォークランド諸島の近くで、捕鯨船の船員が誤って海に落ち、クジラに呑み込まれるという事件が起こりました。船員を呑み込んだクジラが殺されて船の上で解剖したところ、クジラの中から、意識を失ってはいたが生きている状態で、その船員が見つかったという出来事がありました。いずれにせよ、神様は、主イエスを死んで三日目に復活させる力を持っているお方です。何よりも、無からこの世界を創り出された天地創造の神、全知全能の神ですから、神様が働けば、ヨナを魚の中で守ることは難しいことではありません。

(2)ヨナの祈り
 最初に言いましたように、ヨナが大きな魚の中でどうなっていたのか、そのことばかりを考えていると、ヨナ書が私たちに伝えようとしているメッセージを見失うことになります。つまり、ヨナが、魚のお腹の中で、海の奥底で祈った祈りには何を表しているのかということを見なければなりません。ヨナが大きな魚の中でどんな状態であったのかということ以上に大切なのは、その状態の中で、ヨナの心はどのように変わったのかということです。ヨナは、魚に吐き出されて肉体のいのちが救われる前に、魚の中で、ヨナは信仰の回復を経験していたのです。ヨナ書の2章は1節から10節までですが、10節以外はヨナの祈りについて書かれています。ヨナ書は4章しかありません。その中で2章全体がヨナの祈りであるということは、ヨナの祈りがヨナ書の中で非常に重要な意味を持っていることを教えています。今日は、このヨナの祈りについて考えたいと思います。ヨナが神の命令に背いてニネベとは反対の方向に進んで行った時、ヨナは、ある意味で、神様を見捨てました。そして、同時に、自分も神様に見捨てられたと思っていました。彼は、それでも構わない友っていたでしょう。ヨナは心の中で、自分は神様から離れ、神様に頼らず、自分の考えたように生きるのだと考えていたことでしょう。ヨナは、もう二度と神様に祈ることはないと思っていました。しかし、彼の計画は、神様が起こした嵐によってすべて狂いました。彼が海の底に沈んだ時に、彼が最初にしたことは神様の方を向いたことです。ヨナは神様に向かって祈りました。

 ヨナは、苦しみの中で助けを求めて神に祈りました。ヨナは苦しみの中で、神に祈ることしかできませんでした。もう二度と神様には祈らないと思っていたヨナでしたが、苦しみの中で、彼は神様に助けを求めて祈りました。その姿勢は、ヨナが神の前で悔い改めたことを表しています。2節で、ヨナは「苦しみの中から、私は主に叫びました。すると主は、私に答えてくださいました。」と書かれています。神様は自分の命令に従わずに、自分勝手な方向に走ったヨナの祈りを聞いてくださいました。祈り自体、私たちにとって、奇跡のようなものです。何億という人々が同じ時間に祈りを捧げているのですが、神様はその祈りを一つ一つ聞いてくださるのです。しかも、神様は、自分に背を向けるような人であっても、神様の方を向いて祈る時、神様はその祈りを聞いてくださいます。神様の方に向きを変えること、それが悔い改めです。神様の方を向いて祈る祈りには神様はつねに耳を傾けてくださいます。私たちが祈る祈りはすべて神様のところに届いています。神様が私たちの祈りを無視することは絶対にないのです。
 第二に、ヨナは祈りの中で、自分が置かれた状況を受け入れています。彼は、自分が行ったことをちゃんと理解しています。彼は、実際には、船に乗っていた船乗りたちによって海に投げ込まれました。しかし、ヨナは、実際には、自分を海に投げ込んだのは神様であることを認めています。3節で、ヨナは「あなたは私を深いところに、海の真ん中に投げ込まれました。」と言っています。ヨナは自分の責任を認めています。自分は、自分が神に逆らったために、神様からのさばきとして海に投げ込まれたことを認めています。それについて、ヨナは神様に文句を言っていません。それは自分が巻いた種であることを知っていたからです。私たちは、信仰を持っていても、試練を経験することがあります。苦しみを味わうこともあります。その経験は辛いものではありますが、決して悪いものではありません。なぜなら、試練を経験することによってしか身に着けることのできないものが数多くあるからです。試練を経験すると、元気を失う人もいれば、より強く反発する人もいます。しかし、試練を通して神様への信仰をより強くする人もいます。ヨナは、この時、苦しみは神様から来ているものであることを確信して、その苦しみを受け入れました。へブル書の12章に記されている言葉ですが、神様が私たちに試練を与えるのは、神様が私たちを本当の子どもとして扱っておられるからです。親は、他人の子どもをしつけることをしません。自分の子どもをしつけます。ヨナは神様を見捨てましたが、神様がヨナを見捨てることは決してありません。
 第三に、ヨナは神様をもう一度信頼することにしました。彼は、神様から離れようとして逃げ出してから、ずっと下へ下へと下り続けました。港町へ下って行き、船に乗ったら船底にまで下って行き、今は海の底にまで落ちていました。しかし、苦しみの中で神様の方を見て、神様の愛と力を信頼することにしました。7節で彼はこう祈っています。「私のたましいが私のうちで衰え果てた時、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたにあなたの聖なる宮に届きました。」ここで、聖なる宮と言われているのはエルサレムにある神殿のことですが、この神殿を建てたソロモン王は、神殿が完成した時に、次のような祈りを捧げていました。第一列王記8章の38,39節を読みましょう。「だれでもあなたの民イスラエルが、それぞれ自分の心の痛みを知って、この宮に向かって両手を伸べ広げて祈るなら、どのような祈り、どのような願いであっても、あなたご自身が、御座が据えられた場所である天で聞いて、赦し、また、かなえてください。一人一人に、そのすべての生き方に従って報いてください。あなたはその心をご存知です。あなただけが、すべての人の子の心をご存知だからです。」ヨナは、このソロモンの祈りを知っていたので、その約束を頼りにして神様に祈りを捧げました。そして、確かに、このヨナの祈りは神の宮に届いたのです。
 第四に、ヨナは祈りの中で、神様の御心に従う決心をしました。8,9節でヨナはこう祈っています。「空しい偶像に心を留める者は自分への恵みを捨て去ります。しかし、私は感謝の声をあげて、あなたにいけにえを献げ、私の誓いを果たします。救いは主のものです。」8節で、ヨナは、自分の生活の中に神様以上に大切にしていた偶像があったことを認めています。そして、そのような者には神様からの恵みがないことを認めています。この時、ヨナにとっての偶像は、自分の国への愛でした。自分の国への愛が余りにも強かったので、それがアッシリアやニネベの人々に対する強烈な憎しみになっていました。彼は、神様がニネベの人々を愛することが許せなかったのです。しかし、ヨナは、神様の前で悔い改めたことによって、神様に新しい誓いをすることができました。
ヨナは、誓いの言葉で祈りを締めくくりました。ヨナは、神殿に行って、神様を礼拝し、感謝の心をもっていけにえの動物を捧げることを誓いました。神に背を向けていたヨナが神様の命令に従う事を決意したのです。彼のこの誓いこそ、奇跡です。神様は、人の頑なな心をも変える力があります。ヨナが悔い改めて神様の命令に従う者に変わったことは、大きな魚の中で生き延びたことよりも大きく、大切な奇跡なのです。神様は、ヨナの祈りを聞いて、大きな魚に命じて、彼を地上に吐き出させました。神様は、ヨナを不信仰から信仰へと導き、彼を助けてくださいました。神様は、どんな人であっても、神に向かって正直に祈る人の祈りを聞き、救ってくださいます。「わたしは神様から離れてしまっていて、私はだめだ。」と思っている人はいませんか。このヨナの姿を見ましょう。そして、ヨナと同じように、神様を見上げて、神様に祈る者になりましょう。
 神様は、このように、一人のひとをも見逃すことなく、神から離れようとする者を見捨てることなく追いかけてくださり、信仰へと導いてくださいます。古代キリスト教の時代に最も偉大な神学者はアウグスティヌスです。彼は敬虔なクリスチャンの母親モニカに育てられましたが、10代の頃から自分の情欲におぼれた生活をしていました。彼は学者として名声を得ていましたが、心の中に満足がなく、また自分の罪の生活を断ち切ることができずに悩んでいました。そんなある日、彼の家の外から子どもたちが遊んでいる声が聞こえてきました。子どもたちが、「手に取って読め」「手に取って読め」と遊びの中で歌っていました。その言葉を聞いて、アウグスチヌスは、心に強く迫るものを感じて、聖書を取って読み始めました。彼がその時に開いた言葉がローマ人への手紙13章の言葉でした。「あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。夜は深まり、昼が近づいて来ました。ですから私たちは闇のわざを脱ぎ捨て、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。」この言葉が彼の心を突き刺しました。彼はこの言葉によってまったく目が覚め、これまでの生活を悔い改めました。彼は自分の意志の弱さを感じていましたが、悔い改めてキリストにゆだねる時に、キリストが罪から離れる力を与えてくださることを経験したのです。ヨナに働いてくださった神様、アウグスチヌスに働いてくださった神様は、私たちにも働いてくださいます。

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