2022年2月27日 『人のためにいのちを捨てる愛』(ヨハネ19章1-16節) | 説教      

2022年2月27日 『人のためにいのちを捨てる愛』(ヨハネ19章1-16節)

 今日の個所の中心人物は、ローマ総督のピラトです。ローマ帝国は広大な地域を支配していたので、それぞれの地域に総督を送って、その地域を支配させていました。パレスチナ地区は唯一の神を信じ、自分たちが神に選ばれた特別な民族だというプライドを持つユダヤ人を支配することが難しかったため、そこに遣わされる総督はローマ皇帝に対して直接の責任を負わされていました。ただ、同時に、この地区を支配する総督には最高の法的な権力が与えられていました。ピラトは紀元26年から36年までパレスチナ地区の総督を務めましたが、彼は強権を使ってユダヤ人を抑え込んでいました。ルカの福音書13章1節に「ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人がささげるいけにえに混ぜたそのため、たびたびユダヤ人は」と書かれていますが、これはローマの兵士が聖所でいけにえをささげていたガリラヤ人を殺害したことを現わしています。その他、彼は神殿のための献金を水道の建設につかったり、神殿の中にローマの神の偶像を持ち込んだりして、ユダヤ人から非常に強い反発を受けていました。そのため、ユダヤ人がわざわざローマまで行って自分たちの苦情を直接ローマ皇帝に訴えていました。

 ピラトは主イエスが十字架刑に価するような犯罪人には見えないため、何度もイエスの無罪を宣言し、何とかイエスを釈放する方法を考えたのですが、ユダヤ人たちはますます強硬にイエスを十字架にかけることを要求していきました。彼らは「イエスを十字架につけろ」と大声で叫び続けました。ピラトは、ローマ皇帝から最高の法的権力を与えられていましたが、正義に基づいて正しい行動を取ることができず、結局、ユダヤ人の憎しみに満ちた自分勝手な要求に流されて行きました。ピラトは、ユダヤ人たちが少しは憐みの心を持っていることを期待して、イエスにむち打ちをすれば、それで納得するのではないかと思いました。それで、ピラトはイエスをむち打ちにしました。これは矛盾した行為でした。ピラトは、自分で無罪を宣告したイエスにむちを打ったのです。イエスは服を脱がされて、柱にくくりつけられて、ローマの兵士たちによってむちを打たれました。主イエスは、ここに来る前に、ユダヤ教大祭司カヤパのところで、すでにユダヤ人たちから顔につばをかけられ、棒でなぐられ、顔を平手で殴られていました。そして、今、異邦人からもムチを打たれましたが、ローマ帝国で使われていたムチの先には骨や金属がついていたので、ムチを打たれた背中は骨がむき出しになるほどに引き裂かれて、多くの人は途中で死にました。ローマの兵士はむち打ちだけで満足しませんでした。ピラトがイエスを「ユダヤ人の王」と呼んでいたことを思い出して、イエスを王様に仕立ててあざけりました。いばらの鋭いとげがイエスのひたいを突き刺し、額から血が滴り落ちました。彼らはイエスに自分たちの上着であった紫の服を記せ、また、マタイの福音書によると、手には葦の葉を持たせて、王様が持っている笏に見立てました。そして、「ユダヤ人の王様、万歳」と大げさに叫んだり、イエスの顔を平手でたたいたりして、彼らはイエスをあざけりました。天においても地においてもすべての権威を持っておられらる方が、このようなひどい仕打ちを受けられたのです。しかし、主イエスは預言者イザヤが預言していたように、一言も口を開かず、屠り場に連れて行かれる子羊のようにされるままにしておられました。ピラトは、このようなイエスのみじめな姿を見れば、ユダヤ人もそれで満足するだろうと思い、官邸の外で待っているユダヤ人たちのところへ出て行って彼らに言いました。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちにも分かるだろう。」

 主イエスは官邸から連れだされてきました。いばらの冠と紫の衣を着た主イエスは、額から血を流し、顔は殴られて膨れ上がっていて、王様と呼ぶにはあまりにもひどい姿をしていました。このことも預言者イザヤは預言していました。「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(53章2-3節)主イエスは、私たちが受けるべき罪の罰を受けるために、これほどの苦しみにも、無言を貫かれました。ここに主イエスの私たちに対する大きな愛が現わされています。ピラトは大げさにユダヤ人たちに向かって言いました。「見よ。この人だ。」ピラトは、顔をそむけたくなるようなみじめなイエスの姿を見れば、さすがのユダヤ人たちも、イエスをかわいそうに思って、満足するだろうと思ったのです。ここで、ピラトが、「この王を見よ」とは言わずに、「この人を見よ」と言ったのは、「この人はローマ帝国を脅かすような 王ではない」という意味が込められていたと思います。

 ところが、ピラトの思惑は見事に外れました。主イエスの醜い姿は彼らのイエスに対する妬みと憎しみをさらに強めるだけでした。祭司長や下役たちは、イエスを見ると「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。ピラトは、ユダヤ人たちの頑なな心にうんざりして、これ以上イエスとかかわりを持ちたくないと思いました。それで、ピラトは、イエスをユダヤ人に引き渡すために彼らに向かって「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見いだせない。」と言いました。ピラトにとってもはや正義はどうでも良い事でした。彼が望んでいたことは、ただユダヤ人たちが騒動を起こさないことでした。そのために、彼は、何とかユダヤ人たちが満足する方法を捜していました。彼はローマ総督としてイエスを無罪だと宣言していますから、それを翻してイエスを有罪とすることは彼のプライドが許しませんでした。そのため、ユダヤ人を満足させるために、自分が無罪だと認めている人に残酷なむち打ちの刑を与えるという矛盾することをしていたのです。ピラトが困り果てているのを見抜いていたユダヤ人たちは自分たちの主張を強くして行きます。彼らは、ユダヤの律法では、自分を神の子だと言う者は死刑に値するのだとピラトに言いました。彼らは、イエスをローマ帝国にとって危険な反逆者であると訴えて死刑にさせようとしましたが、ピラトを納得させることができませんでした。それで、彼らは、また、考えを変えて、今度は自分たちの律法に従ってイエスを死刑にするように迫りました。

 このユダヤ人たちの言葉を聞いたピラトはますますおそれを覚えました。彼らの言葉の中で、特に、「イエスは自分を神の子とした」という言葉に恐れを覚えました。実は、ローマの人間はローマ神話の影響からか、迷信を信じる人が多かったのです。ピラトはここでイエスに「あなたはどこから来たのか」と尋ねていますが、この質問は裁判官が被告人に尋ねるような意味の質問ではありません。ピラトは、イエスがガリラヤの出身であることは知っていました。ピラトは、イエスがローマ神話の中に出てくるような人の世界に降りて来た人の姿をした神なのかどうか知りたかったのです。もし、イエスがそのような神なら、ピラトは彼にむち打ちの刑を行っていますので、イエスから復讐されることを恐れたのです。また、マタイの福音書によると、ピラトの妻が夢でイエスを見てひどく苦しんだので、ピラトのところに人を送って、イエスには関わらないようにとメッセージを送っていたことも、彼をさらに恐れさせていました。ピラトがイエスにどこから来たのかと尋ねても、イエスが何も答えないので、ピラトはイライラしました。そこで、自分がローマ総督というイスラエルで一番高い権威を持っていることを示そうとしてイエスに言いました。「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを知らないのか。」しかし、天においても地においてもすべての権威を持っておられるイエスにとって、ピラトの権威は何の意味もありません。イエスはピラトに本当の権威について語られました。「上から与えられていなければ、あなたには私に対して何の権威もありません。」人間がいくら自分の権威を主張しても、神様から与えられていなければ本当の権威ではないということです。イエスの死に関しても、これは父なる神の御心と権威の中で行われることであって、ピラトの権威はまったく無関係なのです。ピラトは、自分が無罪だと知っているイエスを最終的に十字架にかけることを許可するという罪を犯しましたが、主イエスはピラト以上の罪をユダヤ教指導者たちが犯していることをピラトに言われました。11節の後半にこのように書かれています。「わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」ピラトよりも大きな罪を犯した中心人物は大祭司カヤパです。彼は、旧約聖書の専門家ですから、主イエスを見たときに、旧約聖書が預言しているメシアであることに気がつくべきでした。しかし、カヤパはそのことを調べようともせず、逆に、イエスを自分の立場を脅かす危険な存在と見なしました。そして、彼は、他の指導者たちとともに、イエスを死刑にするための方法を探したのです。ピラトは、イエスを釈放する方法を探っていました。その様子を見たユダヤ人たちは、ピラトがイエスを釈放することを恐れて、強行作戦に出ました。彼らは大声で叫び始めました。特に、彼らはピラトが反論できないような言葉を叫びました。「この人を釈放するなら、あなたはカエサルの友ではありません。」ここにもユダヤ人たちの偽善があります。彼らは、ローマ帝国の支配を憎み、ローマ皇帝を憎んでいました。彼らは決してローマ皇帝カエサルの友ではありません。しかし、いかにも自分たちがカエサルの友であるかのように、ピラトを脅迫しました。これはピラトにとってはどうすることもできない脅しでした。ユダヤ人たちがローマに行って、ピラトがローマ帝国にとって危険な男を釈放したとローマ皇帝に訴えた場合、自分がローマ皇帝からどのような仕打ちを受けるか分かっていました。その時のローマ皇帝ティベリウスは、非常に疑い深い人間で、自分の部下を容赦なく処刑する人物でした。彼は自分が総督の地位を失い、財産を失い、もしかするといのちも失うかも知れないと恐れました。

 ピラトはユダヤ人たちの叫ぶ声を総督官邸の中で聞いていました。ユダヤ人たちは、異邦人の家の中に入ると宗教的に汚れて、過越しのお祭りの食事ができないので、総督官邸の中に入ろうとしなかったのです。ピラトはイエスをふたたび官邸の外に連れ出して裁判の席につきました。ピラトは、イエスは無罪だと宣言したにも関わらず、ユダヤ人のために裁判をするというのもおかしなことです。14節に、「その日は、過越しの備え日で、時はおよそ第六の時であった」と書かれていますが、これが少し解釈が難しい言葉です。ヨハネは他の福音書の記者とは、時間の表し方が違っていて、夜が明ける朝の6時から時間を数え始めるので、第六の時とはお昼の12時になります。ところが、マルコの福音書15章25節には、イエスが十字架につけられたのは午前9時であったと書かれています。これは、聖書学者によると、当時は時計がないので、人々は1日の時間を3時間を一つの区切りとして考えていました。朝の6時から9時まで、9時から12時までのように、3時間が一つの時間の区切りになっていました。恐らく主イエスは9時から12時の間のどこかの時間に十字架に掛けられたようで、マルコはそれを、区切りの最初の時間で表現し、ヨハネはその区切りの終わりの時間で表現したのだと考えられています。いずれにせよ、彼らの時代の時間の数え方は今よりもずっと大雑把でしたので、このような表現の違いが生じたとようです。すでに、ピラトにはユダヤ人たちをコントロールすることはできませんでした。彼は、むち打たれてぼろぼろの体になっていた主イエスの姿を彼らに見せて、精い一杯の皮肉を込めて言いました。「見よ。おまえたちの王だ。」ところが、ピラトの言葉はユダヤ人をさらに刺激しました。怒った彼らは大声で叫び始めました。「除け、除け、十字架につけろ。」彼らを説得することができないことを知ったピラトはユダヤ人たちに「おまえたちの王を私が十字架にかけるのか」と尋ねると、いつもは異邦人の国であるローマ帝国とローマ皇帝に対して強い憎しみを抱いていたユダヤ教指導者たちは、イエスを殺すことに必死になっていたので、いつもの憎しみなどすっかり忘れて、「ローマ皇帝カエサルの他に王はありません。」と答えました。救い主メシアに関する旧約聖書の預言を知っているユダヤ教指導者たちが、約束の救い主メシアを捨てて、異邦人のローマ皇帝に忠誠を誓っているのは、どうみてもおかしなことです。あらゆる手を尽くしてイエスを釈放しようとしたピラトでしたが、もう他にできることはありませんでした。彼は、自分の負けを認めて、イエスを十字架につけるためにユダヤ人たちに引き渡しました。人間の罪と悪が全面的に現れた出来事でした。その間、主イエスは、口を開くことがありませんでした。イエスが十字架にかけられる800年も前にイザヤが預言していたように、主イエスは不当な裁判を受け、その中で、さんざん罵られあざけられましたが、主は、自分から口を開くことはなく、すべてのことを堪え忍んでおられました。それは、主イエスは、十字架で死ぬことが自分の使命であり、そのために、神の栄光を捨ててこの世に来たことをよく知っておられたからです。主イエスは、罪深い人間たちによって、罪深い考えのもとで、不当な裁判を受けて、十字架にかけられたことは事実であり、十字架に関わった人々は、誰もが、その行為に対して責任を負わなければなりません。しかし、主イエスは、私たちを愛するその愛のゆえに、私たちのために、自分から進んで自分のいのちを捨ててくださったのです。主イエスはヨハネの福音書15章13節でこういわれました。「人が自分のとものためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません。」主イエスは、この愛を私たちに示すために、目の前でどのような不正が行われようと、どのようなあざけりや憎しみの仕打ちを受けようと、まっすぐに十字架の道を進んでくださいました。私たちは、自分のいのちを犠牲にするほどの愛によって主イエスに愛されているのです。私たちは、その主イエスの愛にどのように応答するでしょうか。

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