2022年5月1日 『福音書が書かれた目的』(ヨハネの福音書20章30-31節) | 説教      

2022年5月1日 『福音書が書かれた目的』(ヨハネの福音書20章30-31節)

 昨年から、ヨハネの福音書を読み続けて来ましたが、いよいよ終わりが近づいて来ました。福音書は、主イエス・キリストの生涯を描いた書物ですが、人間の生涯を描く普通の伝記とはまったく内容が異なっています。それは、書かれた目的が違うからです。イエスの生涯を伝記として書くのであれば、クリスマスの物語に続いて、主イエスの少年時代、青年時代のことが書かれているでしょうし、大人になったイエスの背丈や髪の毛の色、どんな顔つきであったか、など、イエスについての細かい描写があるはずですが、そのようなものはいっさいありません。福音書とは、神でありながら、私たちを自己中心の性質から来る束縛や裁きから解放するために、私たちと同じ人の姿を取ってこの世に来られたイエス・キリストを知らせる書物であり、そのイエス・キリストに対して人がどのように応答するのかをチャンレンジする書物なのです。福音書を読んだ人は、そのメッセージに対して自分はどう応答するか態度を決めることが求められています。新約聖書には主イエスの働きを描いた福音書が4つあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが書いた4つの福音書です。それぞれに特徴がありますが、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書には共通点が数多くあります。しかし、ヨハネの福音書だけは、他の3つと全く違った雰囲気を持っています。4つの福音書のうち、マタイとルカは、キリストの誕生であるクリスマスから書き始めています。マルコは、イエスが神の子としての働きを始めた所から書き始めています。しかし、ヨハネの福音書は、「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」という文章で始まります。ここでヨハネがことばと呼んでいるものはイエス・キリストを表すのですが、ヨハネは、地上の歴史的な時間から書き始めているのではなく、この世界が始まる前、すなわち、天地創造が始まった時から書き始めているのです。ヨハネの福音書は人間の視点から書かれているのではなく、神の視点から見て書かれていると言われます。

 ヨハネは、12弟子の一人として、この福音書を書きましたが、彼が最も注意していたことは、福音書の中に自分の姿を出さないことでした。福音書の記事の中には当然ヨハネ自身も登場するのですが、彼は、いつも、自分の名前を出さずに、常に、自分のことを「イエスが愛された弟子」と呼んでいます。また、主イエスが直接選ばれた弟子は12人でしたが、その12人の中でも、ペテロとヨハネとヤコブの3人はリーダー的な存在で、いくつかの出来事の中で、主イエスがその3人だけを連れて行かれることがありました。ある時、ヤイロという人の娘が死にかけていたので、ヤイロは主イエスに助けを求めました。イエスと弟子たちがヤイロの家について、主は彼の娘を癒されたのですが、その時、主はペテロとヨハネとヤコブの3人だけを連れて家の中に入られました。また、主が十字架に掛けられる直前に、ゲッセマネの園という場所でお祈りをされたのですが、その時も、この3人だけをそばに呼んで主イエスは祈られました。主イエスからリーダーとして選ばれることは大変名誉なことですが、あえてヨハネは、自分の栄誉になることについては一言も語っていません。それは、福音書を読む人たちが、福音書を読んで自分に注目するのではなく、主イエスに注目することを願っているからです。

 ヨハネは31節で、ヨハネは次のように記しています。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」ヨハネには、ここに述べられているように、福音書を書くためのはっきりとした目的がありました。従って、ヨハネは、イエスが3年間どのように働いたのかを書き記す時に、彼が主イエスについて持っている知識や情報をすべて書きだすのではなく、福音書の目的に沿ったものだけを選び出して書いているのです。主イエスは、弟子たちや群衆の前で数多くの奇跡を行われましたが、ヨハネは、復活を除いて、イエスの奇跡を2章から12章の中に7つだけを記しています。それらの奇跡には一つ一つ異なっていますが、すべて、主イエスが神であり救い主であることを証明するものです。しかし、主イエスの奇跡を信じることが信仰なのではありません。主イエスが救い主であることを信じなければならないのです。イエスが行くところにはいつも大勢の群衆が集まっていました。彼らの多くは主イエスの奇跡は確かに起こったことだと信じました。しかし、主イエスを救い主だと信じなかったため、彼らの多くは、途中で、主イエスについて行くことを辞めてしまい、また、その中の多くの人は、主イエスが十字架に掛けられる時に、ユダヤ教の指導者たちと一緒に「イエスを十字架につけろ」と叫んだ群衆の一人になってしまいました。

 聖書は、なぜ、私たちに主イエスを信じなければならないと教えているのでしょうか。人間は、生まれつき自己中心という罪の性質を持って生まれているので、そのままでは、その罪の裁きを受けなければならないからです。聖書によれば、人間はもともと神に似せて、神と交われる唯一の生き物として造られました。人間には、正しいことを求める心、永遠を思う心が与えられています。人間は、本来、神によって神とともに生きるべき存在として造られました。進化論が教えるように、人間は、たまたま偶然の細胞分裂の結果この世に生きているのではありません。一人一人は神によっていのちが与えられた存在です。すべて造られたものには目的があるように、私たちは、一人一人、神様によって造られた特別な価値を持つ大切な存在なのです。ただ、最初の人間が神様に逆らい、神の命令に背いて、自分の欲望に従って行動したために、人間の心に自己中心の罪という性質が刻み込まれてしまいました。そのために、その後に生まれて来る人間は、赤ちゃんの時から自己中心の性質を持って生まれるようになりました。赤ちゃんはかわいいですが、必ず「いやいや」と言い続ける時が来ます。別に親は子どもに親の言うことに逆らう方法など教えていないのに、そのような態度を見せるのは、人間の心にそのような性質があるからです。結局、人間は、この罪の性質があるために、いろいろな問題にぶつかったり、問題を引き起こしたり、悩んだり苦しんだりするのです。聖書は、罪の性質を持つ人間は罪の裁きを受けなければならないと教えています。それはたましいが滅びることです。誰でも、体は、いつか死を迎えますが、私たちは体の中に、目に見えないいのち、魂を持っています。罪の性質を持ったままだと、目に見えないいのちが滅んでしまうのです。多くの人は、神様を知らないために、自分がどこから来たのか、自分はどこに向かっているのか知らずに生きています。人は、場合によっては、突然、死を宣告される場合があります。そんな時、人はどのように生きればよいのでしょうか。聖書は、そのような人間の根本的な問題に解決を与えています。ヨハネがこの福音書を書いたのは、人々に、そのような人間の根本的な問題の解決を人々に伝えるためでした。

 主イエスは、なぜ救い主と言われるのでしょうか。聖書は、旧約聖書と新約聖書の二つに分かれています。旧約聖書と新約聖書の間には、およそ400年のギャップがあります。しかし、不思議なことに、旧約聖書と新約聖書は繋がっています。40人以上の人々が約1600年という長い期間に、お互いに連絡し合うことなく聖書の66の書物を書いているのですが、それらの書物は、すべて救い主イエスがテーマになって書かれています。旧約聖書を流れるテーマは、救い主(ヘブル語ではメシアと言います)がやがて来られるという預言です。そして、新約聖書は、旧約聖書の預言の成就として、救い主イエスについて記しています。イエス・キリストは、私たちと同じ人間になられた神です。それは、私たちと同じ人間になって、私たち人間が受けなければならない罪の罰を身代わりに受けるためでした。イエス・キリストは神ですから罪はまったくありませんので、罰を受ける必要はありません。そのイエスが、私たちの罪の罰を、十字架の上で受けてくださいました。十字架は、ローマ帝国時代のもっとも残酷な死刑の方法でした。その呪いの塊のような十字架を教会が誇らしげに掲げるのは、私たちが受けるべき呪いをキリストが身代わりとなって受けてくださったことによって、私たちが罪の罰をうけなくても良くなったことを感謝しているからです。主イエスは言われました。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」神であるキリストは、私たちを愛しておられて、私たちが罪の罰を受けて永遠の滅びに入るようなことにならないように、自分が身代わりになってその罰を十字架の上で受けてくださったのです。私たちは、イエス・キリストを、自分を罪の裁きから救うために身代わりになってくださった救い主だと信じる時、私たちの罪の罰は主イエスが受けておられますから、私たちの魂のいのちは滅びることなく永遠のいのちが与えられるのです。

 イエスの弟子ヨハネがこの福音書を書いた目的を記した31節をもう一度読みましょう。「これらのことが書かれたのは、イエスが神のキリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」イエス・キリストは、もし、ご自身が主張されたように神でなければ、変人か狂った人に違いありません。主イエスは、自分についてこう言われました。「私は道であり、真理であり、いのちです。」イエス・キリストは「私は道を見つけました、真理をみつけました。いのちを見つけました。」と言われたのではありません。「私が道そのもの、私が真理そのもの、私がいのちそのものだ。」と言われたのです。もし、誰かが「私は真理だ。」と言ったとしたら、誰もが「あの人は頭が変になっている」と思うでしょう。聖書を見ると、多くの人が、主イエスと出会って、人生を良い方向に変えられています。病気の人は癒され、悪霊に憑かれていた人が解放されて正気に戻りました。長年罪に苦しんでいた人が、罪の習慣から解放されました。変人や狂人と出会って、人生が良い方向に変えられることはありません。ヨハネは、自分が書いた福音書を読む人々がイエス・キリストと出会って、自分の罪が赦されて永遠のいのちを持つことを願って、この福音書を書きました。永遠のいのちとは、永遠の時間の長さのことを意味するのではありません。もちろん、そのいのちは永遠に生きるのですが、もっと大切なことは、キリストを信じて生きることをとおして、自分が生きている目的を知り、生きることに喜びを感じ、そして、将来に対して揺るぐことのない平安を持つことを意味します。永遠のいのちは、イエス・キリストを信じた時から、この地上から始まります。主イエスの弟子たちは、イエスが十字架にかけられるまで3年間、主イエスの弟子として訓練や教えを受けていましたが、主イエスを信じるところまで行っていませんでした。復活の主イエスと出会って、彼らもようやく本当に主イエスを神として信じることができました。主イエスを信じる信仰が彼らの生き方を変えました。それまではユダヤ人を恐れて隠れていましたが、その後、彼らは、いのちをかけて多くの人々に主イエスについて語り続けました。主イエスは、あなたのためにも十字架の上でいのちを捨てられました。主イエスはあなたを最高の友と見ておられます。あなたは、そのイエスにどのように応答しますか。

 一つのお話をして終わります。ずっと前のアメリカの出来事です。二人の青年が堕落した生活をしていました。二人は毎晩のように酒を飲みに行っていました。ある夜、二人がいつものように町へ出かけると、途中に教会があり、夜の礼拝が行われていました。説教題が書かれた看板が立ててありました。「罪から来る報酬は死である。」という題でした。その説教題を見て、一人が「今日は遊びに行くのを辞める。家に帰る。」と言いました。もう一人は腹を立てて喧嘩になりました。園夜、二人は分かれました。一人は遊びに行き、もう一人は家に帰らず教会に入りました。その夜、その青年は説教を聞いてイエス・キリストを信じました。それから、30年が過ぎました。彼は苦学の末、市長から州知事になり、ついにはアメリカの大統領に選ばれました。大統領就任の日、ラジオが一日中そのニュースを流していました。その日、ある悪名高い刑務所で、一人の囚人が涙を流しながら看守に言いました。「今度、大統領になった男は、自分と一緒に悪いことをしていた友だちだ。ある晩、俺とあいつは教会の前で喧嘩をして別れた。その後俺たちは別々の人生を歩んできたが、あいつは大統領になり、俺はこんなみじめなところにいる。」この青年は、第24代アメリカ大統領クリーブランドでした。一つの決断が、二人の人生に大きな違いをもたらしました。最後にヨハネの福音書3章36節を読みます。「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがそのうえにとどまる。」

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