2022年5月8日 『今も生きておられるイエス』(ヨハネの福音書21章1-14節) | 説教      

2022年5月8日 『今も生きておられるイエス』(ヨハネの福音書21章1-14節)

 先週、お話ししたように、ヨハネの福音書21章は後から付け加えられたような印象を与えます。ヨハネは、トマスが復活のイエスと出会ってすばらしい信仰告白をしたという劇的な場面を描いた後、30,31節で、自分がこの福音書を書いた目的を記しています。それは、この福音書を読んだ人がイエスが神の子キリストであることを信じるためであり、またイエスの名によっていのちを得るためでした。なぜ、ヨハネは21章を書き加えたのでしょうか。ヨハネは、イエスの弟子たちが、なかなか信仰の確信に至らず、何度も失敗したり、疑ったりしていましたが、最後の最後になって、ようやく、主の弟子として生きることの意味の深さを理解し始めたことを読者に伝えたかったのだと思います。その典型的な例として、ヨハネはペテロの信仰が主イエスによって回復された出来事を選びました。それは、ペテロの名誉を回復するためでした。12弟子の中でもペテロとヨハネは特に親しかったようで、よく二人が一緒に行動する場面が出て来ます。ヨハネは、自分の親友のペテロが、主イエスを3回否定したという大失敗のままで終わってしまうことを裂けたかったのです。ヨハネは、福音書を読む人に、ペテロが主イエスによって信仰を回復してもらい、弟子として新たに大切な任命を委ねられたことを知らせなければならないと感じたのだと思います。そうでないと、使徒の働きを読む人々は、なぜ、1章から12章まで、イエスを知らないと3度も否定したペテロが初代教会のリーダーとして大きく活躍していたのか不思議に思うはずです。ヨハネは21章でも、主イエスを生ける神の子キリストだと信じる信仰の大切さを教えています。

  • 人間の弱さ

21章は「その後」という言葉で始まっていますが、これは21章に記された出来事が、20章の終わりに記されているトマスの信仰告白の時から少し時間が過ぎた時のものであることを示しています。イエスの弟子たちは、エルサレムを離れて、自分たちの故郷であるガリラヤに戻っていました。それは、復活された主イエスがガリラヤに行くように彼らに命じておられたからです。ただ、この時は、11人の弟子たちが全員一緒にガリラヤに行かなかったようです。2節にガリラヤで主イエスと出会った弟子たちの名前が記されていますが7人しかいません。彼らはティベリア湖畔にいたと書かれていますが、ティベリア湖とは、ガリラヤ湖の別名です。湖の西側に、ティベリアという大きな町があったので、そのように呼ばれていました。そこに集まっていた7人とは、ペテロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たちとは、ヨハネとヤコブ、そして、その他二人の弟子がいました。この二人は恐らくアンデレとピリポだと思われます。アンデレはペテロの兄弟ですし、ピリポはよくアンデレと一緒に登場するからです。この時、弟子たちの信仰が、ふたたび、揺れ動いていたようです。というのは、マタイの福音書によると(28章16節)主イエスは、弟子たちに、ガリラヤの山に行くように指示していました。ところが、彼らは湖のそばにいました。もしかすると、弟子たちは、主イエスが山で会おうと言われた時間になっても来られないので、不安を感じていたのかも知れません。ペテロは、長い間じっとしていられない性格の持ち主であり、これ以上イエスをじっと待つことができなくなり、ペテロは他の弟子たちに「私は漁に行く」と言いました。彼は「魚を釣りに行こう」とは言わずに、「漁に行こう」と言いました。これは、「暇つぶしに湖で魚つりでもしよう」という意味ではありません。ペテロは、イエスの弟子になる前にやっていた仕事に戻ろうとしていたのです。主イエスは、16章32節で、弟子たちについて次のように預言しておられました。「見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたし一人を残します。」この預言は、主イエスが十字架に掛けられる直前、イスカリオテのユダに導かれてきたユダヤ教の指導者たちとローマの兵隊がイエスを逮捕すると、弟子たちは、誰もイエスのいのちを守ろうとせず、皆、イエスをその場に残して逃げて行きました。先ほどの預言はその時に成就しましたが、それだけなく、21章の出来事にも関連する預言でした。日本語では、16章32節の中で、「弟たちは散らされて自分のところに帰る」と訳されていますが、ギリシャ語の文章には「ところ」という言葉はありません。ですから、ここで主イエスが言おうとしておられることは、ただ単に、彼らは自分の家に帰ろうとしていたという意味ではありません。彼らは自分の持ち物、自分の才能、自分の仕事に、つまり、昔の生活に戻ろうとしていたのです。ペテロは、イエスの弟子を辞めて昔の仕事、昔の生活に戻ろうとしていました。ペテロの言葉を聞いて、他の弟子たちも「私たちも一緒に行く。」と言いました。他の弟子たちも、以前の生活に戻ろうとしました。トマスは20章の終わりのところで立派な信仰を告白したのですが、本当に信仰の確信を持つまでには、まだいくつか乗り越える壁があったようです。彼らは、主イエスが目の前にいないと、やはり不安を感じて、世界を敵に回してでもイエスのために生きるという覚悟ができていませんでした。彼らは、以前やっていた仕事であれば、生きて行くことができると思っていました。彼らは小さな舟にのって漁に出かけました。彼らの多くは元々漁師ですから、漁については専門家です。どの時間にどこに行けば魚が獲れるかということはよく分かっていました。しかし、その夜は、魚一匹獲れませんでした。それは、主イエスが特別な力を働かせて、魚を彼らの船から遠ざけていたのかも知れません。7人の弟子たちは、自分が慣れている昔の生活に戻るとうまく行くと思っていたのですが、そうではないことを、この経験をとおして学ばなければなりませんでした。彼らは、ひどく落胆したはずです。漁師の仕事は立派な仕事ですから、仕事そのものに問題はありません。ただ、彼らは、魚ではなく人間を獲る漁師になりなさいと主イエスから召されていた者たちです。彼らは、ふたたび漁師の仕事をするべきではなかったのです。

  • 主イエスの力

 弟子たちは、夜通し働いて、何も獲れないまま岸辺に戻って来ました。彼らが岸辺に近づくと、主イエスがそこに立って彼らを待っていました。ところが、舟に乗っていた弟子たちには、岸辺に立っているのが主イエスだと気づきませんでした。主イエスは、彼らが夜通し働いても一匹も魚が獲れなかったことを知っておられました。主は彼らが昔の仕事に戻っていたことをやさしく叱責するような感じで言われました。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは、漁師としてのプライドがありましたが、正直に、何も獲れなかったことを告白しました。すると、主が思いがけないことを言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば獲れます。」弟子たちは、夜通し働いていたので疲れ切っていました。しかも、魚が一匹も獲れなかったので、彼らは最悪の気分でした。そんな時、見知らぬ者、しかも、漁師でもない者が漁師である彼らに向かって、舟の反対側に網を降ろせば魚が獲れると断言したのです。きっと、弟子たちは「冗談じゃない。お前はどこの何者だ」と聞き返したかったと思います。彼らは思ったことでしょう。「魚に舟の右側と左側の違いなんか分かるのか?」ただ、その人の声には不思議な権威があったので、弟子たちは誰一人、イエスに反論することができませんでした。彼らは、主イエスの言う通りに、舟の右側に網を降ろしてみました。」すると、驚いたことに、おびただしい数の魚がかかって、彼らは網を持ち上げることができないほどでした。弟子たちは、これと似たようなことを以前経験していました。それは、ペテロやヨハネ、ヤコブが主イエスの弟子になるきっかけとなる出来事でした。その時も、彼らは前の晩、夜通し働いたのですが、魚が一匹も獲れませんでした。主イエスがペテロに「少し舟を沖に漕ぎ出し、網を下ろして魚を獲りなさい。」と言われました。ペテロは、主イエスに「私たちは夜通し働きましたが何一つ獲れませんでした。でも、おことばですので網を下ろしてみましょう。」と言って、網を降ろしました。すると、ものすごい数の魚が獲れて2艘の舟が沈みそうになりました。ペテロも彼と一緒にいた他の者たちも恐ろしくなって「主よ離れてください」と言いました。すると、主イエスは彼らに「今から後、あなたがたは人間を獲るようになるのです。」と言われました。その時、ペテロもヨハネもヤコブもすべてを捨てて主イエスに従い、正式にイエスの弟子になりました。ヨハネはそのことをよく覚えていました。それで、7節に記されているように、ヨハネは、岸辺に立っているのが主イエスだと分かったので、ペテロに「あれは、主だ。」と言いました。ペテロはそれを聞くと、漁をするためにほとんど裸だったので、主イエスに会うためにふさわしい格好をしなければと思い、上着をまとって海に飛び込みました。彼は一刻も早く主に会いたかったので、舟が岸辺に着くのを待つことができなかったのです。普通は、上着を脱いで水に飛び込みますが、主イエスに会いたい一心で、彼は後先考えず、上着を着て飛び込みました。上着を着たままで泳ぐのは大変だったでしょうが、ペテロはそんなことまったく気にせず、必死に岸に向かって泳ぎました。一方、他の弟子たちは、魚がいっぱい入った網を引っ張りながら、舟を漕ぎながら岸に戻りました。ペテロと他の弟子たちとどちらが先に岸に着いたのか分かりませんが、彼らは多くの魚を獲って岸に戻って来ました。

 これらの出来事にはどういう意味があるのでしょうか。弟子たちは、主イエスから離れて、自分が以前行っていた働きに戻ろうとしました。自分の過去の経験や知恵をもって働けばうまく行くと思っていましたが、実際には、夜通し働いても一匹の魚も獲れませんでした。しかし、彼らが主イエスの言葉に従った時、大きな収穫がありました。私たちは、日々忙しい生活を送っています。仕事で忙しい人もいますし、勉強で忙しい人もいます。しかし、今も生きておられる主イエスに従うことから離れて、人間の知恵や力だけに頼る生活をすると、この時の弟子たちのように、成果のない生活になってしまうことを、この出来事は教えていると思います。しかし、主に従って私たちが生活をするならば、自分たちの思いを超えた成果が与えられるのです。彼らは、自分たちの経験では普通はありえない収穫を得ました。しかも、彼らの網は破れなかったと記されています。これは、主に従う者の生活の細かいところにまで神様の祝福と守りがあることを示すものです。詩篇127篇1節に次のような言葉があります。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。」神様は、人間が努力することを喜ばれます。しかし、その努力が、神から離れたものであり、自分の力だけに頼る自分のためだけの努力であれば、神様の祝福はありません。人間的にいくら成功しても、神様の祝福がなければ、むなしいのです。私たちは、自分の人生を毎日作り上げています。その時に、神様の御心を第一にして、神様の言葉に従って生きるなら、神様は、私たちの想像を超える祝福を与えてくださいます。

(3)主イエスの恵み

 今日の出来事は、そこで終わっていません。弟子たちが岸に上がってみると、主イエスが、岸辺に炭火をおこして魚とパンを焼いておられました。そして、主イエスは弟子たちに「今獲った魚を何匹か持って来なさい。」と言われました。主イエスは、弟子たちのために食事を準備しておられました。主イエスは、弟子たちが夜通し働いたために疲れ切っており、お腹をすかしていることをちゃんと知っておられました。そんな弟子たちを励まし、弟子たちの疲れを癒し空腹を満たすために、主は弟子たちのために朝ご飯を準備しておられたのです。主イエスは、「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来たのです。」と言われました。また、最後の晩餐の時には、主は弟子たちの足を洗われましたが、神としての栄光と力を持って死から復活された後も、主は弟子たちに仕えておられるのです。12節で、主イエスは「さあ、朝の食事をしなさい。」と言われましたが、これは、主が、弟子たちに、主との交わりに入りなさいと招いておられる言葉です。弟子たちは、自分たちが、主イエスの言葉に従わずに、昔の仕事に戻ろうとしたことで、気まずい思いをしていたはずです。しかし、主は、そんな弟子たちに、交わりに戻るように招かれました。彼らがイエスから離れて自分の力でしようとしたことは失敗に終わりましたが、主イエスは、弟子たちに、主の言葉に従う時に、主がおどろくべき祝福を与えるもう一度教えてくださいました。復活の主は、今も生きておられます。そして、私たちにも、み言葉に従う時に、大きな祝福を与えることのできるお方です。私たちは、一人一人、歩んでいる道は違いますが、ともに、主の導きに従って歩み続けて、主から大いなる祝福を受ける者でありたいと思います。

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