2022年5月15日 『あなたはわたしを愛しますか』(ヨハネ21章15-19節) | 説教      

2022年5月15日 『あなたはわたしを愛しますか』(ヨハネ21章15-19節)

 前回も言いましたが、ヨハネの福音書の21章は、あとがきとして付け加えられたものと思われます。20章を書き終えた時点で、ヨハネには解決しなければならない問題が2つあったようです。一つは、主イエスが天に戻られた後も、自分たちが生きて行くために必要なものが与えられるだろうかという疑問でした。21章では、主イエスの言葉に従った時に、大量の魚が獲れたことと、その日の朝ごはんを主が弟子たちのために用意してくださったという出来事を通して、弟子たちは、主イエスが天に戻られた後も、自分たちの必要を主が満たしてくださることを確信したので、一つ目の問題は解決しました。もう一つの問題は、ペテロの名誉を回復することでした。ヨハネは、ペテロが自分たちのリーダーであることを確信していました。後の時代の人々が初代教会のリーダーとして大きな働きをしたペテロが、大きな失敗をした後に、主イエスによって信仰と名誉を回復してもらっったこと、そして、主イエスご自身が初代教会のリーダーに改めてペテロを任命したことを知らなければならないと、ヨハネは思ったのでした。

 主イエスが復活された日曜日、復活された主は、マグダラのマリヤに姿を現わされた後、個人的にペテロに姿を現わされたことは分かっています。主は、ペテロが3回イエスを知らないと否定した後、一生消すことのできないほどの自己嫌悪に陥っていることをよく分かっていました。ペテロは、十字架の前の木曜日の夜以降、悔いても悔いても悔やみきれないほど落ち込んでいました。そのため、主イエスは、他の弟子たちに姿を表す前に、ペテロ一人に姿を現わされたのです。その時、主イエスとペテロの間にどんな話がなされたのか、どんなことがあったのか、聖書には一切記されていないので、分かりませんが、恐らく、ペテロは、自分が犯した大きな罪を告白し主の前で悔い改めたと思います。主イエスは、ペテロの罪を赦されて、ペテロの信仰を回復してくださったと思います。この最初の出会いによって、ペテロの気持ちも信仰もずいぶん回復したことは明らかです。ただ、ペテロが主イエスを知らないと3回否定したことは他の弟子たちも知っていたようなので、主イエスは、他の弟子たちの前で正式に、ペテロのリーダーとしての立場を回復させる必要がありました。主は、ペテロを弟子の一人として選んだ時から、イエスをリーダーとして立たせようとされました。だからこそ、主は、彼にペテロという新しい名前を与えられたのです。彼の本名はシモンというのですが、主が彼にギリシャ語のペテロという名前を与えられました。ギリシャ語で岩のことをペテロと言うのです。ペテロは英語ではピーターになりますが、フランス語では「ピエール」です。ピエール・カルダンなど。そしてフランス語では岩、石のことをピエールと言います。ペテロはもともとガリラヤ湖で働く普通の漁師でした。彼は、深く考えることよりもすぐに行動するほうが得意でした。彼は、主イエスの弟子になって、すぐに、主イエスから与えられた名前のように、しっかりとして岩のような弟子になった訳ではありません。福音書の中には、彼が失敗した出来事や発言が何度も記されています。しかし、主イエスが復活して、40日目に天に上げられた後、初代教会のリーダーになったのはペテロでした。主イエスが新しい名前を与えられるという出来事は、単に名前を与えるだけでなく、その人を新しい人に造りかえることができることを意味しています。しかし、それは簡単な道ではありませんでした。ペテロは何度も、自分の考えで突っ走ってしまって失敗しました。最後には、主イエスを見捨ててしまいました。しかし、主イエスがペテロを見捨てることは一度もなく、忍耐の限りを尽くして、ペテロの信仰を回復させ続けてくださいました。主イエスは、私たちに対しても同じように接してくださいます。私たちは失敗の多い人間です。しかし、主は私たちを見捨てることはありません。あらゆる方法で、私たちの信仰を回復してくださいます。ただし、私たちの信仰が回復するためには、私たちの主イエスに対する愛がなければなりません。私たちの信仰の土台は、私たちの罪を赦し、私たちに永遠のいのちを与えるために、私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださった主イエスに対する愛と感謝の心です。

 7人の弟子たちが主イエスと一緒にガリラヤ湖のほとりで朝ご飯を食べ終えた時、主イエスが他の弟子たちのいる前でペテロに尋ねられました。「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ここで、主はペテロに向かって、ペテロとは呼ばずに、わざわざ本名である「ヨハネの子、シモン」と呼ばれました。そこには意味があります。主がペテロをシモンと呼ぶときは、彼の考え方を改める時、あるいは彼の失敗を指摘するときです。主が、彼を昔の名前で呼ぶのは、ペテロが、弟子になる前のような人間として行動や発言をしたから、そのように呼ばれたのかも知れません。イエスの質問はペテロにはとってきつい質問でした。「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ただ、この質問の解釈は2つあります。大切なのは「この人たちが愛する以上に」と訳されている部分です。原語のギリシャ語では、シンプルに「これら以上に」としか書かれていません。「これら」という言葉は、「これらの人」と解釈するか、「これらのこと」と解釈するかで意味が変わって来ます。日本語の聖書には「愛する」という言葉がありますが、それは、「これら」という言葉を「これらの人」すなわち、ペテロの目の前にいる他の弟子たちと解釈しているからです。実は、最後の晩餐の後、主イエスと弟子たちがお祈りのために町の外のオリーブ山に向かっていたとき、主が預言の言葉を言われました。「あなたがはみな、今夜わたしにつまずきます。」すると、ペテロは「たとえ皆がつまずいても、私は決してつまずきません。」と強い口調で言い返したのです。その時、ペテロは本気でそう思っていました。彼は自分はたとえ殺されることがあっても主イエスに仕えるのだと確信していたのです。彼はまだ自分の弱さを知りませんでした。結果的に、彼は、自分の身の危険を感じて「主イエスなんか知らない」と3回も言ってしまったのです。ペテロにとって、「この人たち以上に私を愛するか」という質問は、自分がイエスに言った言葉が頭に浮かんで、彼の心を突き刺しました。しかし、この個所はもう一つの解釈があります。イエスの言葉の「これら以上に」の「これら」は、今、二人が話している場所の目の前にあるいろいろなものだとも解釈できます。彼らの目の前にあったのは、漁をするための舟、漁のための網、その他さまざまな魚を獲るための道具や装置です。この解釈でも、イエスの質問はペテロの胸を刺しました。というのは、先週の箇所ですが、復活された主イエスがガリラヤの山で弟子たちと会うと言われたので、弟子たちは主イエスと会うために待っていたました。しかし、イエスが現れるのが遅れたとき、ペテロは待ちきれなくなりました。彼は、自分がイエスを3回も知らないと言ってしまった大失敗がずっとトラウマになっていたために、自分はやっぱり弟子の資格はないと思ったのか、衝動的に、昔の仕事である漁師に戻ろうと思って、前の晩、一晩中漁をしていたのです。漁師ならこれからも生きて生けるとペテロは思いましたが、その晩は一匹の魚も獲れませんでした。従って、この解釈では、イエスの質問は、ペテロの前の晩の行動を責めていることになります。主イエスは、ペテロに対して、「あなたは、ペテロだ。これからは人間をとる漁師になりなさいとわたしが言った時のことを覚えているか。あなたはこれからもわたしに従って来るのだ。」そのような意味を込めて言われた言葉なのです。イエスは、ペテロに、「昔の仕事は完全に捨てなさい。わたしを愛しているのなら、ただ、わたしのためだけに生きる者になりなさい。」とチャレンジされました。

 以前のペテロであれば、間髪を入れずに「もちろん、これらの人以上に、あるいは、これらのものよりも、あなたを愛します。」と答えたでしょうが、大失敗を経験したペテロは、そのように答えることはできませんでした。もう一つイエスの質問で注目する点があるのですが、それは「愛する」という言葉です。ギリシャ語には愛を表すことばがたくさんあります。兄弟愛あるいは、同じ信念を持つ仲間の愛を表すのはフィリアという言葉を使います。親子の情愛を表すのはストルゲーという言葉です。男女の愛はエロスと言います。しかし、ギリシャ語にはもう一つ愛を意味する言葉としてアガペーという言葉があります。これは最も崇高な愛で、相手に対してすべてをささげる愛です。第一コリント13章の言葉は、よく結婚式で読まれますが、アガペーの愛が説明されています。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。」アガペーの愛とは、すなわち、私たちのために十字架で自分のいのちを捨ててくださったイエス・キリストの愛です。ペテロは、イエスの質問を聞いて、自分の多くの失敗を思い返して、自分の中にそんな愛はないことを痛感しました。それで、ペテロはアガペーという言葉を使うことができず、フィリアという言葉を使って答えました。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」

 主イエスは、ペテロの心をよく知っておられました。彼が、以前と違って、自分のことをよく知り、謙遜な姿勢で答えたことを認めてくださいました。そしてペテロに言われました。「わたしの子羊を飼いなさい。」聖書の中には、神様と人間の関係を羊飼いと羊に例えている教えが繰り返し記されています。羊は、当時のイスラエルの民にとって大切な動物でしたし、同時に、羊が生きて行くためには羊飼いの存在が必要不可欠です。羊飼いは、自分のいのちをかけて羊を守りますが、神様は、神を信じる民を「わたしの羊」と呼ばれるのです。神様は私たちを「私のもの」と呼んでくださるのです。そして主イエスは、ペテロに、神を信じる人々のために働く人になりなさいと改めて、任命されました。しかも、「飼う」という動詞は、一回だけ飼うという意味ではなく、いつまでもずっと「飼い続けなさい」という形で言われています。主イエスは、ふたたび、ペテロに尋ねられました。「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛していますか。」主イエスがペテロの愛について尋ねておられるのは、神に仕える者に一番大切なことは、その人が心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして神を愛しているだからです。神を信じる信仰の土台は、神様に対する私たちの愛です。この時も、主イエスが「アガペー」という言葉を使われました。そのため、この時もペテロは、自分の心には「アガペー」の愛がないことが分かっていましたので、最初の時と同じように「フィリア」という言葉で答えています。「主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」すると、主イエスも繰り返して言われました。「わたしの羊を牧しなさい。」主イエスの質問はさらに続きました。主イエスは三度目に言われました。「ヨハネの子、シモン。あなたはわたしを愛していますか。」この質問を聞いて、ペテロは心を痛めたと書かれています。なぜ、ペテロは心を痛めたのでしょうか。一つは、主が同じ質問を3回繰り返されたからです。ペテロの頭に、すぐに、自分が大祭司カヤパの家の中庭で、イエスを知らないと人々に言った場面が思い浮かびました。そして、3回目の質問では、主イエスは「愛しますか」と尋ねた時に、これまでのように「アガペー」を使わずに、ペテロが答える時に使った「フィリア」という言葉を使われました。そのことによって、ペテロは、いっそう、自分の心の中に神様が期待しているようなレベルの愛がないことを痛感しました。ペテロは、自分がイエスの期待に答えられないことを本当に悔しく思いました。彼ができることは、ただ、イエスの憐みと愛に訴えることでした。彼は、訴えるようにして答えました。「主よ。あなたはすべてをご存知です。あなたは私があなたを愛していることを知っておられます。」すると、主イエスも3回繰り返して言われました。「わたしの羊を飼いなさい。」 主イエスにとって、自分を信じる人々は最も大切な存在です。羊飼いが羊を飼うときには、羊のために自分のいのちをも捧げます。主イエスは、この大切な働きにペテロを他の弟子たちの前で任命しました。主がペテロを初代教会のリーダとして任命するために彼に尋ねられたことが「あなたはわたしを愛しますか」という質問でした。この質問が意味するところは、神のために働くのに、信仰や知識も必要ですが、何よりも必要なものは主イエス対する愛だということです。もちろん、信仰も知識も大切なのですが、たとえ少し足らないところがあっても、主の働きをしていくことは可能です。しかし、主イエスに対する愛がなければ、主のための働きはできません。大きな失敗を犯したペテロには、失敗をとおして初めて持つことができたフィリアの愛がありました。それを主イエスは確認されました。主イエスは18節で、将来、ペテロが殉教することを預言しておられますが、彼は、事実、殉教の死を遂げました。主イエスは、大きな失敗をしたペテロを立ち直らせて、二度とつまずくことのない働き人に造りかえられました。しかし、これはペテロだけでなく、主イエスを信じるすべての者にしてくださることです。ただ、私たちがつまずくことのない信仰を持つためには、心から主イエスを愛する者でなければなりません。信仰につまずく人は、主イエスを第一としているのではなく、自分の思い、自分の願いを第一にしているからです。私たちも、自分自身に問いかけてみましょう。わたしは本当に主イエスを愛しているだろうかと。

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