2022年6月5日 『人となられたイエス』(1ヨハネ1章1-4節) | 説教      

2022年6月5日 『人となられたイエス』(1ヨハネ1章1-4節)

 今日は、教会のカレンダーでは「ペンテコステ」と呼ばれる日です。ペンテコステとはギリシャ語で50を意味しますが、この日は、ユダヤ教最大の祭り、過越しの祭りから数えて50日目にあたります。もともと、ユダヤ教では、この日、始まったばかりの小麦の収穫の恵みを神に感謝するために、エルサレムの神殿では、祭司が新しい小麦の初穂で作ったパンを捧げて、神様に祈りを捧げました。主イエスは、この日の10日前に天に帰られたのですが、その時、主は弟子たちに言われました。「エルサレムを離れないで、父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマが授けられるからです。」その頃、イエスを信じた人々の数は120人ほどでしたが、彼らは、イエスの言葉に従って、毎日集まり祈っていました。そして、ペンテコステの日も、彼らは集まって祈っていたのですが、その時、聖霊が、私たちが神様から受け継ぐべき最初のものとして天から降りました。突然、エルサレムの街中に激しい風が吹くような音が響きました。そして、集まっていた120人の人たちは、突然、ひとりひとりの上に炎の舌のようなものがとどまったのを見ました。それは、集まっていた人たちが聖霊に満たされたことを示すものでした。彼らは聖霊の働きによって、突然、いろいろな外国の言葉で話し始めました。この時、120人の人たちは、心の中で、自分が強く主イエスに引き寄せられていること、栄光を受けられた主イエスに会いたい気持ちが強くなっていること、そして、霊的な力と喜びに強められていることを感じていました。大勢の群衆が、突然の大きな音の訳を知ろうとして120人が集まっていた場所にやってきました。群衆は過越しの祭に参加するために、イスラエル国内だけでなく、周辺の外国からも集まっていたのですが、彼らは、120人の人たちが自分の国の言葉で神様の力や素晴らしさについて話しているのを聞いてびっくりしました。このようにして、120人は、これから世の中の人々に福音を宣べ伝える働きのための準備が整いました。この日、ペテロももはや以前のペテロではありませんでした。自分たちの場所に集まっていた人々の多くは、キリストに反対していた人々でしたが、彼は大胆に説教を語りました。そして、その日一日で3000人の人が救われ、初めての教会が誕生しました。主イエスは、信じるすべての人に助け主としての聖霊を送ると約束されました。私たちがこの世でクリスチャンとして生きるためには、いつも聖霊に満たされていることが必要です。聖霊は、求めれば与えられると約束されています。日々、私たちは霊的な戦いがありますから、毎日、聖霊に満たされることを祈り続けなければなりません。

 今日から、しばらく、イエスの弟子ヨハネが書いた3つの手紙を読みます。イエスが天に戻られた後、ヨハネがどのような生き方をしたのか、新約聖書の使徒の働きの最初の部分にはペンテコステの後、ペテロとヨハネがエルサレムでいろいろな働きをしたことが記されていますが、その後のことは何も記されていません。使徒の働きの12章1-2節に次のような記事があります。「そのころヘロデ王は、教会の中のある人たちを苦しめようとしてその手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」新約聖書にヘロデ王と呼ばれる人が3人登場しますので、混乱しないように注意しなければなりません。登場する順番で言うと、主イエスが生まれた時、ユダヤを支配していたのはヘロデ大王です。この人はユダヤの王として一番大きな力を持っていた人ですが、主イエスが生まれた直ぐ後に死にました。ヘロデ王を恐れてエジプトに避難していたヨセフとマリヤと赤ちゃんイエスは、ヘロデ大王が死んだ知らせを受けて、ナザレに戻りました。次に登場するのはヘロデ大王の息子の一人ヘロデ・アンテパスです。ヘロデ大王が死んだ後、ユダヤは4つに分けられ、ガリラヤ地方の支配を任されたのがヘロデ・アンテパスです。この人は、バプテスマのヨハネの首をはねた人物であり、主イエスが十字架に掛けられる前の裁判の時に、主イエスと出会っています。そして、3番目が今回登場するヘロデ・アグリッパです。この人は、ヘロデ大王の孫です。使徒の働きの時代、ユダヤを支配していました。彼は、ここに記されているように、ヨハネの兄弟のヤコブを殺しました。また、12章に記されているように、ペテロを捕らえて牢獄に入れました。このヘロデ・アグリッパがクリスチャンの迫害を行ったのはAD40年ごろだと言われています。この迫害によって、イエスの弟子たちやクリスチャンたちは、ローマ帝国中に散らばって行きました。ヨハネは、言い伝えによると、イエスの母マリヤとともに、エペソの教会へ行き、パウロが開拓した教会の指導者として働きました。ヨハネは、エペソで福音書と3つの手紙を書きました。その後、ヨハネはローマ帝国の迫害によってギリシャのパトモス島へ追放されましたが、彼がパトモスに滞在している時に、神様がヨハネに世の終わりに関する特別なまぼろしをお与えになったので、ヨハネは、パトモス島でヨハネの黙示録を書き上げることになります。その後、ヨハネはエペソに戻り、イエスの中で一番長生きして、紀元98年ごろにエペソで死んだと思われています。

 この手紙は、紀元85年から90年の間にヨハネがエペソで書いたものだと思われています。この手紙には、挨拶の言葉も別れの言葉もなく、個人の名前も出てこないので、一つの特定の教会に書き送られた手紙ではなく、エペソの近くにあったいくつかの教会で、回覧板のように回し読みするために書かれた手紙だと言われています。この手紙が書かれた目的が、5章の13節に記されています。「神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」この言葉の背景として、当時、これらの教会に間違った教えが入りこんで、教会のメンバーたちが影響を受けていました。ヨハネは、彼らが、主イエスに対する信仰に堅く立つように、彼らを励ますためにこの手紙を書きました。ヨハネが神様について好んで使う表現が、「現れました」という言葉です。聖書の神様の特徴は、ご自身を私たちに現わされるということです。神様は、どのようにしてご自身を私たちに現わされるのでしょうか。第一に、神様は、ご自身が造られた自然界を通してご自身を現わしておられます。私たちは満天の星を見たとき、圧倒的な姿でそびえる山を見たとき、不思議な神々しさを感じます。神様が造られたものはどこかに神様を現わしているからです。しかし、自然界を見るだけでは、神様のことはぼんやりとしか分かりません。そこで、神様は、神の言葉、すなわち聖書の言葉を通してご自身を現わされました。聖書を読むことによって、私たちは自分について、また神様について、多くのことを知ることができます。また、神様と人間の関係や、神様が私たちに何を願っておられるのか、そのようなことについて、聖書は私たちに教えてくれます。しかし、旧約聖書の歴史を見ると、聖書の言葉や預言者の言葉では、神様の御心が十分に伝わらない部分がありました。そこで、最後に現れたのが、人の姿を取られた神、イエス・キリストなのです。そこで、ヨハネはこの手紙の1章1節で、イエスを「いのちのことば」と呼びました。紙に書かれたみ言葉ではなく、神をそのまま表す存在として、人間の世界に来て人間の間で生きながら神の教えを語り、実践されたので、イエス・キリストは「いのちのことば」なのです。

 そのイエスについて、ヨハネは1節で、変わったことを書いています。それは「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの」という言葉です。彼がこのようなことを書いたのは、1世紀の教会の中に、イエス・キリストについて間違った教えが広まっていたからです。そして、当時の多くのクリスチャンが、その間違った教えに惑わされていました。それは、「グノーシス主義」と呼ばれる教えです。これは、異教の神秘的な考え方とギリシャ哲学が結びついた教えですが、この教えでは、形のあるものはすべて悪であり、形のないものはすべて善であると考えました。したがって肉体は悪であり、たましいは善ということになります。グノーシス主義に惑わされたクリスチャンは2つの極端な生き方に分かれました。ある人たちは、悪である肉体の働きをなくしてしまおうとする生き方を追及しました。禁欲主義と言われるものです。 もう一方の人々は、快楽主義と呼ばれる生き方を求めました。彼らは、「肉体はどうせ悪なのだから、肉体の欲望のままに生きればよいのだ。どのように生きたとしても、魂は善だから、それでよいのだ。」 そのように考えたのです。また、グノーシス主義は、イエス・キリストについても間違った教えをもたらしました。それは仮現説というものです。これは、もし肉体が悪であるなら、聖なる神が肉体を持つはずがないという前提に基づくもので、イエス・キリストが本当の肉体を持つ本当の人間であるはずがないという考えです。彼らは、イエスの霊は神からのものであるが、イエスが地上で生きていた時は、本当の人間になったのではなく、そのように見える姿で現れたのだと主張しました。つまりイエスは幽霊のような存在だったということです。これは、主イエスの十字架の死も、復活も否定することになります。神であるイエスが実際に人間の歴史に入ってこられたという事実を否定するものです。しかし、ヨハネは1章の1節で、主イエスについて、「私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの」と表現しています。主イエスは、1節に書かれているように、初めからあったもの、すなわち、神として永遠に存在しておられる方です。しかし、2節に書かれているように、永遠の神であるお方が、今から2000年前という歴史の一つの時間において、私たちと同じ人間になって、私たちの間で働かれたのです。主イエスは歴史に存在した実在の人間になられました。主イエスは私たちとまったく同じ人間になられたので、私たちの身代わりになることができました。主イエスは、十字架の上で、本当は私たちが受けなければならない苦しみを代わりに受けてくださったのです。ヨハネは、このイエスについて自分と他の弟子たちは3つのことを行ったと書いています。彼らは、イエスを自分の目で見ました。そして、目で見たイエスについて証しをしました。そして、そのイエスが誰であるか、何をしたお方なのかを人々に伝えました。ここで、ヨハネは主イエスのことを「永遠のいのち」と呼んでいますが、これは、イエスがどういうお方であるかを現わしています。永遠のいのちとは、たんに時間の長さを言うのではありません。聖書は、主イエスを信じない人の魂も永遠に生きると教えています。ただし、イエスを信じない人々は神から離れて苦しみの中で永遠に生きることになります。聖書が教える永遠のいのちとは、私たちが自分の罪を赦されて、神と共に生きる者となる時に与えられるいのちのことです。確かに、そのいのちは時間的にも永遠に続くものではありますが、もっと大切なことは、そのいのちは、神様とともに祝福と喜びと平安の中で生きるいのちであるということです。そのいのちは主イエスを信じた時に与えられるいのちであり、私たちのうちに神様がともにおられることをもたらすいのちです。人間にとって最も大きな問題は罪の問題であり、罪が私たちにもたらす永遠の滅びこそが最大の問題です。永遠の滅びから救い出されて、永遠に神とともに生きるようになることを聖書は「救い」と言います。そして、ヨハネがここで強調していることは、救いはイエス・キリストをとおして与えらえるということなのです。

 3節で、ヨハネは、彼や他の弟子たちがイエスを見たこと、イエスの教えを聞いたことを、人々に伝える目的について書いています。それは、「あなたがたも私たちと交わりを持つため」でした。「交わり」という言葉を聞くと、私たちは、友だちとおしゃべりしながらコーヒーを飲んだり、食事をしたりすることを思い浮かべます。確かにそれも交わりではありますが、ここで、ヨハネが言っている「交わり」にはもっと深い意味があります。それは、すべてのクリスチャンが共通して持っているものを共に喜び、分かち合うことを意味します。すべてのクリスチャンが共通に持っているものは何かというと、イエス・キリストであり、イエス・キリストによる救いです。イエス・キリストを信じる信仰が私たちを罪の裁きから解放する救いをもたらしました。クリスチャンは、世界のどこに行っても、同じ救い主を信じる者としての霊的な交わりを持つことができます。ガラテヤ人への手紙3章27,28節にパウロは次のような言葉を書いています。「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」

ユダヤ人の男性は毎朝、「わたしが異邦人でなく、奴隷でなく、女でないことを感謝します。」と祈っていたそうですが、キリストは人間が造ろうとするあらゆる壁を打ち壊しました。主イエスを救い主と信じる者は皆、神の子どもになりました。だから、主イエスを信じる者は、みな同じ立場にあるのです。しかし、「交わり」はただ、他のクリスチャンとの交わりだけを意味するのではありません。3節でヨハネが書いているように「私たちの交わりとは、御父、また御子イエス・キリストとの交わりです。」私たち人間は、神様によって造られた作品です。神様にとっては非常に大切な一人一人なのですが、人間の心の中にある自己中心という罪が人間と神様を引き離してしまいました。歴史の始まりの時から、神とともに生きるために造られた人間が神から離れて生きているために、人間は心の中に漠然とした不安を感じながら生きています。「自分はどこから来たのだろうか。」「自分は何のために生きているのだろうか。」「自分はいったい誰なのか」そのような疑問に対する答えがこの世の中には見つかりません。だから、人々は神を求めるのです。どんなに文明が遅れている民族であっても宗教を持っています。人は無意識に神を求めているのです。しかし、今、御子イエス・キリストが、神様の側から私たちに近づいて下さいました。主イエスは、十字架と復活によって、神と人間との間にあった隔ての壁を打ち壊してくださいました。主イエスを信じることによって、私たちは、いわば、迷子の状態から、本当の親のもとへ戻ったような状況になったのです。4世紀の神学者アウグスチヌスは言いました。「人の心には、神と出会って初めて埋めることができる穴が開いている。」聖書は、人間は、神と出会って神を信じる時に、はじめて、本当の平安を得ることができると教えています。

 最後にヨハネは4節で、この手紙を書いたもう一つの目的を記しています。「「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。」喜びは、幸せとは違います。喜びは自分で創り出すものでもありません。喜びは、神様との交わりを経験する時に与えられる副産物です。ダビデは、この喜びを知っていましたので、彼は詩篇の中で、「満ち足りた喜びがあなたの御前にあります。」と言いました。カール・マルクスは「人が幸せになるために最初に必要なことは宗教をなくすことだ。」と言いました。しかし、共産主義は人々の信仰を奪うことはできませんでした。ヨハネは、イエスキリストを信じることによって、私たちは、この世のものからは得ることのできない喜びを持つのだと主張しています。そして、ヨハネは、「自分自身がその喜びを実際に経験したので、それをあなた方に伝えているのだ。」と述べているのです。あなたは喜びに満ちあふれた人生を生きておられますか。聖書は、イエスを救い主と信じる時に、本当に喜びに満ちあふれた人生を生きることができると教えています。

2022年6月
« 5月   7月 »
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

CATEGORIES

  • 礼拝説教