2022年6月12日 『私たちの罪を赦す神』(1ヨハネ1章5-10節) | 説教      

2022年6月12日 『私たちの罪を赦す神』(1ヨハネ1章5-10節)

 ヨハネは、この手紙をいくつかの教会で回し読みができるような形で書いていますが、ヨハネは、当時の教会のクリスチャンたちの生き方に、危機感を感じていました。彼らの中に、神様が望まないような生き方をしている人たちがいたからです。ヨハネは、そのようなクリスチャンたちに警告するようにこの手紙を書いています。クリスチャンを含め、人間にとって一番大きな問題は、罪の問題です。今日読んだ箇所にも罪や、罪に関連する言葉が何度も出て来ます。ある人は、「主イエスの十字架によって私たちの罪は赦されたのだから、それで良いじゃないか」と言いますが、その考えは間違っています。私たちが、自分の罪を悔い改め、主イエスを救い主と信じる時、私たちの罪は赦されます。それは間違いありません。しかし、主イエスを信じて罪を赦された時というのは、クリスチャン生活のスタートラインなのです。そこから、神様の助けを受けながら生きる新しい人生が続いて行くのです。ヨハネは、クリスチャンが生きることを、「歩む」という言葉で表現しています。私たちは、主イエスを信じた時に、新しい人生の第一歩を踏み出しましたが、そこから、私たちは、天に召される日まで、毎日、クリスチャンとして歩き続けなければなりません。私たちが歩く場合、普通はどこかに向かって歩きます。ゴールを目指して歩くのです。クリスチャンの歩みも、ゴールを目指します。それは、キリストに似た歩みをするというゴール、言い換えれば、クリスチャンとして成長を目指して歩くのです。

  • 神は光です(5節)

 ヨハネは、まず5節で、自分がこの手紙に書いているメッセージは、自分の意見ではなく、主イエスから教えられたことだと記しています。ペンテコステの後、教会が次々と生まれて行きますが、主イエスに直接選ばれた12使徒たちは大きな権威を持っていました。その権威は、彼ら自身の権威ではなく、彼らが主イエスから直接教えを受けているという事実によって与えられた権威でした。ヨハネは5節で「あなたがたに伝える」と言っていますが、「伝える」と訳されている言葉は特別な言葉です。昔、王様が国民に大切なことを知らせる時に、「伝令官」と呼ばれた人を町に遣わして、人々の王様の言葉を伝えていました。伝令官が伝えるメッセージは非常に大切なものでしたので、人々は、地面にひれ伏してその知らせを聞いていました。今日の例に例えれば、テレビで時々ニュース速報が流れます。ほとんどの人はニュース速報が流れると、「何の知らせだろう」とその知らせを注意して聞きます。王様が伝令官を遣わして伝えた知らせも、そのように民にとって重要なものでした。ヨハネは、今自分が述べているメッセージは、イエスから教えられたもので、非常に重要なものであることを、この言葉を使うことによって現わしています。ヨハネは、6節から10節までで、クリスチャンが罪に対してどのように行動するべきかを教えているのですが、その前に、彼は、5節で、そもそも、その神様とはどういうお方なのかということを人々に知らせています。ヨハネは「神は光であり、神には闇がまったくない」と記しています。私たちは、罪赦されて救われた時に、闇から光へと移されました。罪を行っている人は、光よりも闇を好みます。自分が行ったことを知られたくないからです。アダムとエバも、神様の命令を破って食べてはならない木の実を食べたとき、神様の前から姿を隠しました。光はいのちを造り、いのちを養い、いのちに美しさを与えますが、闇はその反対です。光と闇が同時に存在することは不可能です。したがって、私たちが光の中を歩くためには、闇は消えなければなりません。もし、私たちが、罪を犯し続けるなら、光は消えてしまいます。罪に関する限り、中間ゾーン、グレーゾーンは存在しません。ところが、人間は、他人の罪に対しては厳しいのですが、自分の罪に対しては非常に基準が甘くなります。したがって、罪を罪、黒は黒とはっきりと言う聖書の神様は、今日の多くの人には嫌われています。クリスチャンであっても、もともとこの傾向を持っているので注意しなければなりません。私たちは、いろいろな言い訳を考え出します。「神様は憐み深い神様だから、赦してくれるでしょう。」「神様は人間の弱さを知っているから、私たちがいつも清く生きることなんかできないってことも知っているはずだ。」私たちは、このように考えて、神様の教えを自分勝手に薄めてみたり、神様と交渉すれば何とかなるなどと考えています。最初の人間のエバもそのような考えを持っていました。神様は、エデンの園の中央にある木の実について、「その木からは食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と言われました。しかし、エバが蛇から尋ねられた時に、「食べると死ぬといけないからだ。」と答えています。しかし、ヨハネははっきりと言っています。「神は光であり、神には闇がまったくありません。」神様のご性質、神様のあり方は、私たちの考えや願いによって変わることはありません。

  • 光の中を歩みなさい

 パウロはいろいろな教会に書き送った手紙の中で、繰り返して、「歩みなさい」という命令をしています。最初に言いましたように、「歩む」というのはクリスチャンがどのような生き方をするのかということを表す表現です。例えばエペソ人への手紙の4章1節にはこう書かれています。「あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。」パウロが「歩みなさい」と命令をする時は、必ず「たえず歩みなさい」「歩み続けなさい」という意味で命令しています。クリスチャンは、主イエスを信じて救われた時に、神の子どもとされました。したがって、私たちは、皆、神の子どもに相応しい生き方をしなければなりません。ヨハネが書いた手紙はクリスチャンに宛てて書かれた手紙です。私たちは、神様が光である方ですから、光の中を歩まなければなりません。6節でヨハネはこう言いました。「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」ヨハネが6節でこのように述べているのには理由がありました。というのは、当時の教会に間違った教えを語る偽教師たちがいたからです。先週もお話ししましたが、偽教師たちは、聖書の教えにギリシャ哲学の考えを混ぜていたのです。ギリシャ哲学では、目に見えるものはすべて悪、目に見えないものはすべて善だと考えていました。ギリシャ哲学では、体は悪いものになります。すると、ここから2つの考え方が生まれます。一つは、自分の体の中にある悪を自分の力で消そうとすることです。これは「禁欲主義」という考え方です。もう一つは、体は悪いものであるし、いつかは朽ち果てるものだから、肉体の欲望のままに生きていても、体は悪いが目に見えない魂は良いものだから、問題ないと考える生き方で、これは「快楽主義」と言います。どちらの考え方が人々に受け入れられたかと言えば、もちろん、快楽主義です。この影響は初代教会のクリスチャンにまで及んでいました。彼らの中に、自分はクリスチャンであると言いながら、自分勝手な生き方をしていた人が少なからずいたようです。そのような人々に対して、ヨハネは、「神と交わりがあると言いながら闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」と言っています。私たちは、神を愛することと罪を愛することとを同時に行うことはできないのです。

 7節で、ヨハネは「もし私たちが光の中を歩んでいるなら」と言っていますが、私たちはどのようにして、光の中を歩むことができるのでしょうか。詩篇の119篇105節に次のような言葉があります。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」聖書は、私たちに、毎日、どのように生きることが神様に喜ばれる生き方であるかを教えてくれます。聖書は、いつも自分の生活に当てはめて読まなければなりません。聖書を読みながら、自分の生き方と聖書の教える生き方が合っているのか違っているのかを調べることが必要です。もし、自分の生活の中に聖書の教えに反するものがあれば、その生き方を変えなければなりません。そのようにして、私たちは自分がまっすぐに進むように軌道修正をしていくのです。そして、私たちは神に召された者として、なぜ、聖書の言葉に従うのかと言うと、それは、私たちが自分のためにいのちを捨ててくださった主イエスを愛しているからです。主イエスは最後の晩餐の時に、弟子たちに言われました。「もしあなたがたがわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」主イエスを愛するとは、主イエスの言葉に喜んで従うということです。このように生きる時に、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」とヨハネは7節の後半で述べています。主イエスの血は、どのようにして私たちをすべての罪からきよめるのでしょうか。旧約聖書の時代は、イスラエルの民は自分の罪を赦してもらうために、エルサレムの神殿に行って、動物のいけにえを捧げて、祭司に祈ってもらっていました。その時、祭司は動物に手を置いて祈りを捧げるのですが、それは、私たちの罪が動物に移されたことを示すものでした。動物が、人々の身代わりとなって死んだので、人々は神の前で生き続けることが許されたのです。神様は、イスラエルの民が神を信じる信仰を持っており、彼らがいけにえに関する命令に従ったので、彼らの罪を赦してくださいました。もちろん、これらの動物のいけにえは、将来の主イエスの十字架を暗示するものでした。イエス・キリストは罪がまったくない神でしたが、私たちの身代わりのいけにえとなって、私たちのために死んでくださいました。私たちが主イエスを救い主と信じる時、私たちは、いわば、キリストに一つとなって、キリストの十字架の死は私たちの罪を赦し、私たちは新しい人間として人生を再スタートします。主イエスによって、私たちはきよめられたからです。

  • 罪を否定しないで、告白しなさい。(8-10)

 8節で、ヨハネは、当時教会を惑わせていた偽教師のもう一つの主張に対して反論しています。8節にはこう記されています。「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」偽教師たちは、人間には生まれつき罪を犯すような性質は持っていないと主張していました。彼らは、罪の問題を真剣に考えていませんでした。彼らは、自分はクリスチャンだと思っていましたが、自分の罪を認めたり、告白したりする必要はないと考えていました。彼らは、自分たちには深刻な罪も罪のさばきもないと考えていましたので、彼らにとって主イエスの十字架は大切なものではありませんでした。そして、彼らは、他のクリスチャンたちに、罪のことを気にする必要はないと教えていました。それだけではありません。10節を見ると、偽教師たちは、自分たちは罪を犯したことはないと主張していました。これも、聖書の教えとはまったく相反する教えでした。聖書は、すべての人は罪の性質を持っており、また、罪の行いを行っていると教えています。例えば、ローマ書3章23節には、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」と書かれています。私たちは、主イエスを救い主と信じた時に、私たちの罪は過去に犯した罪も、現在犯している罪も、将来犯す罪も、すべて赦されました。ただ、私たちは、救われた後も、主イエスと同じように完全にされてはいないので、罪を犯します。従って、私たちは、罪を犯したときは、その都度、その罪を告白して神様からの赦しを受けなければなりません。私たちクリスチャンが罪を犯した時、その都度、私たちと神様の交わりが切れてしまう訳ではありません。私たちは、主イエスを信じた時に、神様の子どもとなる特権が与えられていますので、その関係が切れることはありません。ただ、私たちが罪を犯すと、私たちと神様との間に交わりを妨げるものを置くことになってしまいます。私たちが、自分の罪を認めて神様の前で告白するのは、私たちと神様との間に置かれた障害物を取り除くためなのです。誰にとっても、自分の罪を認めて神様に告白することは簡単なことではありません。しかし、私たちが、神様の前に心を頑なにして告白しなければ、私たちと神様との交わりを妨げるものがどんどん大きくなってしまいます。詩篇32篇はダビデがバテシェバとの不倫を犯して、彼女を妊娠させるという大きな罪を犯したことに関連して書かれた詩篇です。ダビデは不倫を犯しただけでなく、その不倫を隠すために、結果的に、バテシェバの夫のウリヤを戦争で死なせてしまいます。彼は、預言者ナタンから指摘されるまで、約1年間、自分が犯した罪を隠していました。すると彼の生活はどうなったでしょう。32篇の3節を読みましょう。「私が黙っていた時、私の骨は疲れ切り、私は一日中うめきました。」ダビデは1年間、罪を隠していた間、大きな苦しみを味わっていたのです。神様は、罪は憎まれますが、罪人である私たちを赦したいという願いを持っておられます。神様が、モーセに自分の心を伝えられたことがありました。(申命記34章)神様はモーセに次のように言われました。「主は、憐れみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きを赦す。」と言われました。私たちが、神様の前に謙遜になって、自分の罪を認めて告白するならば、神様は、喜んで私たちの罪を赦してくださいます。それだけでなく、神様は、私たちが気づかないでいる悪いものを、きよめてくださると約束されています。そして、私たちとの交わりをより親しいものにしてくださいます。

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