2022年6月19日 『イエスを信じる者の生き方』(ヨハネ手紙第一2章1-6節) | 説教      

2022年6月19日 『イエスを信じる者の生き方』(ヨハネ手紙第一2章1-6節)

 ヨハネの手紙第一は紀元80年ごろに書かれたと言われています。ヨハネはイエスの12弟子の中で一番年が若く、一番長生きをしました。今日の個所にも、ヨハネがこの手紙を書いた理由が記されていますが、彼は、当時のクリスチャンたちが自分の信仰に確信を持って、クリスチャンとしてしっかり歩んで欲しいと願って、この手紙を書きました。すでに、ペンテコステの時に教会が誕生してから50年近くが経っていました。その間いろいろな出来事があり、クリスチャンたちは厳しい迫害を受けていました。紀元60年に、ローマで起きた大火事がきっかけとなって、皇帝ネロによるクリスチャンの迫害が起こり、多くのクリスチャンとともに使徒ペテロと使徒パウロが殉教しました。紀元70年には、ローマ軍がエルサレムを滅ぼし、この時からユダヤ人は自分の国を失い世界中に散らばって行きました。そのような状況の中で、クリスチャンの信仰は、第一世代から、第二世代、第三世代へと引き継がれて行くのですが、実際に主イエスを見た人たちが多くいた第一世代と比べると、第二、第三世代のクリスチャンは、キリストに対する情熱が薄れ、キリストのためにいのちをかけて戦うという気力が薄れて、この世と妥協して生きるクリスチャンが少しずつ増えていました。そこで、エペソ教会の長老になっていたヨハネは、当時のクリスチャンたちが、キリストによる救いの素晴らしさを思い出し、キリスト者として、正しい方向に向かって歩き続けなければならないと確信していました。また、当時の教会には、すでに、間違った福音を教える偽教師たちの働きが広がっていて、多くのクリスチャンたちがその影響を受けていました。クリスチャンの信仰生活は、イエスを信じる信仰告白をした日が、いわば、霊的な誕生日であり、そこで終わるのではありません。イエスを信じることを決断した日は、これから始まるクリスチャン人生のスタートラインなのです。そこから、クリスチャンは一歩一歩前進していくのですが、彼らは正しい方向に向かって信仰の歩みを続けていかなければなりません。ヨハネは、このようなクリスチャンたちを正しい方向に導くため、この手紙を書きました。

 元々、聖書の書物や手紙には章や節はついていなかったのですが、読みやすくするために、ある時、章や節が決められたのですが、時々、内容とうまく合っていない場合があります。ヨハネの第一の手紙も、2章の最初の3節は1章の続きであると考えられています。1節に、繰り返して、ヨハネは、この手紙を書いた目的を記しています。それは、教会の人々が罪を犯さないようになることでした。ただ、1章でヨハネが書いているように、私たちは、クリスチャンになった後も、罪をまったく犯さないようになることはできません。罪を犯してしまった時は、それを正直に告白すれば、神様は、その罪を赦し、私たちを少しずつ、清い生活へと導いてくださるのです。偽教師の人たちは、自分には罪がないとか、罪を犯したことはないと主張していましたが、それは偽りであり、その生き方は神様に受け入れられることはありません。ただ、そのように教えると、ヨハネの手紙を受け取った人々の中には、主イエスが罪を赦してくれるのであれば、罪を犯し続けていてもいいのではないかと、自分勝手なことを考える人が現れる危険がありました。そこで、ヨハネはそれは間違いであることを引き続き語っています。

 私たちは、良い生き方をしたから神様に受け入れられることはありません。すべての人は、神様が求める正しさの基準に達することはできないからです。私たちは自分が罪人であることを認めて、悔い改めることによって罪を赦されて、神のこどもとなります。しかし、神のこどもとなってからは、クリスチャンの信仰生活の目標は、できるだけ主イエスの生き方に近づくことです。私たちの生き方を変えるものは何でしょうか。それは、私たちを罪から救い出してくださった神様に対する感謝と愛の心です。自分が救われるために主イエスがどのような働きをしてくださったのか、それを本当に理解するときに、私たちは主イエスがいのちの恩人であることが分かります。自分のいのちの恩人に対して、私たちは、努力することなく、恩人のために生きようとします。それで、ヨハネは、主イエスが、私たちを罪から救い出すためにどのような働きをされたのか、そのことを人々に伝えています。

(1)イエスの働き

 主イエスは、私たちが罪を赦されて神の子どもになれるようにと働いてくださいましたが、ヨハネは、この主イエスについて3つの呼び方をしています。一つ目は「とりなしてくださる方」という言葉です。このことばは「弁護してくださる方」とも訳されます。これらの言葉は、裁判に関係する言葉です。日本語では、主イエスが私たちのためにとりなしをする方と訳されていますが、実際の言葉は、受け身の形の言葉で、「そばに来るように呼ばれた方」という意味です。主イエスは、私たちを助けるために、そばに来るように呼ばれた方であるという意味です。ヨハネが主イエスをこのように呼んだのは、主イエスは、私たちが死んだ後、神様の裁きの場に立たされた時に、私たちのすぐ隣に来て私たちを助けてくださる方だからです。もう一つの主イエスの名は「義なる方」です。私たちのために弁護してくださる方は「義なる方」です。神様のご性質は、「義なる方」ですから、私たちを弁護してくださる時に、義なる方にふさわしく、私たちのために正しい裁判してくださるという意味です。この世の弁護士の中には、自分の利益のために、あるいは自分の評判だけを考えて弁護する人もいるでしょう。しかし、主イエスは違います。どんな時も、100%私たちのために正しい弁護をしてくださる方です。そして、3番目は「なだめのささげもの」です。ユダヤ人に限らず、古代のオリエントでは、神の怒りを鎮めるために、人々はいけにえを捧げていました。当時の人々は、恐ろしい自然現象が起きた時に、神の怒りが原因でそのようなことが起きると考えていました。人々は、神の怒りを鎮めるために、動物を犠牲にして殺して神へのささげものにしたり、ひどい場合は、自分の子どもを捧げたりしていました。人々は、そのようにして、自分の努力によって、神の怒りを鎮めようとしていたのです。しかし、「宥めのささげもの」は、まったく違うささげ物を意味します。聖書に記されている「なだめのささげもの」は人間が捧げるものではありません。捧げるのは神様の側です。私たち人間が罪を犯した時、聖なる神、義なる神様は、その罪を裁かなければなりません。しかし、私たち人間を心から愛しておられる神様は、そのさばきをしなくても済む方法を考え出してくださいました。それは、人間の罪の罰を人間ではなく自分自身に負わせることにしたのです。そして、父なる神様は、人間の身代わりとして罪のないひとり子イエスを捧げられました。イエス・キリストの十字架の死は、主イエスが、私たちのために、宥めのささげものになってくださったことを現わしています。キリスト教の根底にあるのは、罪人に対する神様の無限の愛です。ヨハネは、教会のクリスチャンたちに、私たちが救われたのは、主イエスのこのような大きな愛の働きがあったからだということを伝えているのです。主イエスの働きがなかったら、私たちには救われる希望はまったくありませんでした。

(2)信仰のテスト

 私たちは、誰からから特別に愛されると、その人のために何かできることはないかと考え、その人が喜ぶようなことを行います。それと同じように、私たちが神様からこれほどまでに愛されていることを知るならば、神様のために何かをしたいと思うのは自然のことです。神様が私たちに求めておられるのは、このような神様の愛に答えたいと願う心です。私たちの神様に対する心はどのようなかたちで現れるかと言うと、それは、神様の命令に私たちが喜んで従うかどうかという点で明らかになります。誰かの命令に従う時、3つの従い方があります。従わなければ何をされるか分からず怖いので従う場合、従うことが立場上必要だし、従わないと損を被るから従う場合、そして、自発的に従いたいという思いから従う場合の3つです。第一に、奴隷は、主人に従います。それは、主人の命令に従わなければ自分にどんな罰が与えられるか分からないので、罰を恐れて主人に従います。第二に、会社で働いている人は、上司の命令に従います。上司の命令が自分がやりたくないことであっても、立場上従わなければなりませんし、従ないと、給料に響くので、家族のことを考えると上司に従わない訳にはいきません。しかし、クリスチャンが神様に従う場合はこれらの従い方とは違います。神様にいのちをかけて愛されていることを知って、神様に何か恩返しをしたい気持ちから神様の命令に従うのです。この手紙の5章3節に「神の命令を守ること、それが神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」と書かれています。人が恋をしているとき、恋する人から「~してほしい」と言われたら、全力を尽くして恋人の願いをかなえようとするでしょう。自分が好きな人のために全力を尽くすことが喜びであり、決して重荷にはなりません。神様は、私たちに、このような心を求めておられるのです。

 私たちの信仰を試すテストが4節と5節に書かれています。ここで、ヨハネは、信仰のテストをはっきりさせるために、2つのタイプの人を描いています。第一のタイプの人は、4節に記されています。「神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。」ヨハネはかなり厳しい言葉でその人を「偽り者」と呼んでいます。この人は、本当は「神を知っている」と言えるような人ではないのに、他の人々にそう言っているからです。その人のうちには真理はありません。主イエスは、「わたしは道であり真理でありいのちなのです」と言われましたから、その人のうちに主イエスはおられません。当時の教会を惑わしていた偽教師たちこそ、偽り者でした。このような人々のうちに真理はないので、彼らからは真理を学ぶこともできません。

 一方、5節には別の人が描かれています。「だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。」ここに、神の愛が全うされていると訳されていますが、「神の愛」という部分は、神様が私たちに対して持っている愛という解釈と、私たちが神様に対して持っている愛という解釈ができるのですが、ここは私たちが神様に対して抱いている愛と解釈するほうが良いと思います。クリスチャンが神様に対して抱いている愛は、どのようなかたちで完全に現れるのかと言うと、神様の命令を守るというかたちで現れるのだということです。神様への愛と感謝を強く感じれば感じるほど、私たちは、いやいやながらではなく、進んで神様の言葉に従いたいと言う気持ちになります。それは感情的な経験とか神秘的な経験ではありません。それは、神を愛する人の自然の行動パターンなのです。

 ヨハネの結論は6節に記されています。「神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。」イエスが歩まれたように歩むというのは、ルールにしばられて生きることではありません。いつも、主イエスが生きられた生き方を模範として生きるということです。それが、イエスの弟子となるという意味です。ある人は、罪を犯さないために、修道院のような所に入ったり、ひとりで黙想にふけったりしましたが、それも神様が求めているものではありません。主イエスは、神の子として働かれた3年間、毎日、大勢の人に説教をし、病を癒し、奇跡の業を行われました。イエスが歩まれたように歩むためには、私たちも、神様の栄光のために、また隣人のために積極的に生きることが大切です。また、キリストが歩むように歩むことは、簡単なことではありません。犠牲を払わなければならないこともあります。主イエスは十字架の道を進まれましたが、それはイエスにとって大きな犠牲を払うことでした。罪をまったく持たない方が罪の塊のようになられたのです。しかし、主イエスはその犠牲を払うことをむしろ喜んでおられました。へブル人への手紙12章2節にこう書かれています。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」主イエスは、十字架がどういうものか、自分にとって大きな辱めであることは良く知っておられましたが、その先にある喜びのために、つまり、主イエスの十字架によって人々が罪から解放される道が開かれることが主イエスにとって非常に大きな喜びだったので、十字架の辱めを何とも思われなかったのです。私たちにとっても、主イエスに従って生きることはいつも簡単なことではありません。しかし、その先に、私たちにも素晴らしい将来が約束されているのですから、主イエスが歩まれたように、私たちも日々歩んで行きたいと思います。

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