2022年6月26日 『私たちに必要なものは愛です』(1ヨハネ2章7-11節) | 説教      

2022年6月26日 『私たちに必要なものは愛です』(1ヨハネ2章7-11節)

 今、ヨハネの手紙第一を読んでいますが、この手紙を書いたイエスの12使徒の一人ヨハネは、「愛の使徒ヨハネ」と呼ばれています。それは、彼が書いた福音書の中でも、彼の手紙の中でも、ヨハネは繰り返して愛について語っているからです。彼は、もともとは「雷の子」とあだ名がつけられるほど怒りっぽい性格の持ち主でしたが、主イエスの弟子になって彼は「愛の人」へと造り変えられました。今日の箇所でも、ヨハネは手紙の読者に対して「愛する者たち」と呼び掛けています。

  • 古い命令としての愛

 ヨハネは7節で「わたしがあなたがに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがた初めから持っていた古い命令です。その古い命令とはあなたがたがすでに聞いているみことばです。」と書いています。この時代には、まだ新約聖書はできていませんから、人々が持っていた聖書は旧約聖書です。旧約聖書は、新約聖書と教えが全然違うと考えている人が多くいますが、それぞれの教えの根本は同じです。聖書は、愛をもっとも大切なものとして見なしています。ある時、一人のパリサイ人がイエスに「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と質問しました。すると、主イエスは旧約聖書の、申命記とレビ記の言葉を引用して、「もっとも大切な命令は全力を尽くして神を愛することであり、次に大切な命令は、隣人を自分自身を愛するように愛することである。」と言われました。聖書は、最初から、人間と神との関係においても、人間同士の関係においても、もっとも大切なものは愛であることをずっと語り続けて来たのです。従って、ヨハネの手紙を受け取ったクリスチャンたちも、旧約聖書の教えとして、この命令をどこかで聞いていたはずです。ヨハネは、「あなたがた初めから持っていた古い命令です。」と書いていますが、「初めから」というのは、この世の初めからとか、律法がモーセを通して初めて人間に与えられた時を意味するのではなく、彼らクリスチャンが信仰を持った初めの時からという意味です。彼らは、信仰を持つようになった時に、旧約聖書の言葉を教えられていたはずです。そして、彼らは、主イエスを信じる決心をした時に、聖書の教え、あるいは、イエスが教えられた言葉や命令に従うことを決心したはずです。また、ヨハネたちから主イエスの言葉や働きについて教えられた時も、彼らは、イエスの教えに従い、イエスが働かれたのと同じように生きることを決意したはずなのです。

  • 新しい命令としての愛

 続いて8節で、ヨハネは「私はそれを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。」と記しています。ここで、ヨハネは新しい命令と言っていますが、ギリシャ語には「新しい」を意味する言葉が2つあります。一つは時間的に新しいという意味を持つ言葉で、例えば、魚がまだ新しい、古くなっていないという意味の新しさです。もう一つは、今までとは違う性質のものを意味する言葉があります。例えば、よく聞きなれたショパンのピアノ曲でも、素晴らしいピアニストが演奏すると、聞きなれた曲であっても、まったく別の新しい曲のように聞こえることがあります。ここで、ヨハネが新しいと言っているのはそのような意味なのです。旧約聖書に記されている命令をまったく新しい命令として受け取ることができます。主イエスご自身が最後の晩餐の時に弟子たちに新しい命令について語っておられます。恐らくヨハネはそのことを考えていたと思います。主イエスは弟子たちに言われました。ヨハネの福音書の13章34-35節です。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」主イエスは言われました。世の中の人々が私たちを見て本当のクリスチャンであるかどうかを見極めるのは、私たちがどのような教理を信じているかということを見てではなく、私たちのうちに愛があるかどうかによって決めるということです。ヨハネが戦っていた、偽教師たちは、ギリシャ哲学の影響を受けて、真理についての知識を持つことこそが大切だと考えていたので、神を愛することや隣人を愛することを軽んじていました。パウロがコリント人への手紙の中で言っていますが、知識は人を高ぶらせます。当時の教会を悩ませていた偽教師たちは、自分たちには特別な知識が与えられていることを自慢して、一般の信徒たちを軽蔑していました。しかし、世の中の人々は、私たちがどれだけ多くのことを知っているかとうことよりも、私たちが本当に愛に生きているかということを見ているのです。

 そのことを、主イエスは弟子たちの前で模範を示されました。最後の晩餐の時に、主イエスは、弟子たちのために、一番身分の低い召使いが行う仕事である、客の足を洗うという働きを行われました。相手のために、自分を低くして仕えることを通して、主イエスは弟子たちに対するご自身の愛を現わされました。主イエスの行いは、現代の私たちにはよく理解できないことかもしれませんが、当時の人々にとって、主であるイエスが弟子の足を洗うということはまったく想像することもできないほど、ありえないことでした。主イエスは、その行動を通して、私たちに、新しい命令としての愛することがどういうことであるかを示されました。ヨハネは、この新しい愛の命令が主イエスによって模範として示されたので、今度は、信者たちに対して、この新しい愛の生き方を見習いなさいと命令しているのです。それが新しい命令という意味です。キリストの私たちに対する愛は、謙遜の限りをつくした愛と言うことができます。この愛は、古い自分のうちにはありません。しかし、感謝なことに、私たちが主イエスを救い主と信じる瞬間に、聖霊が私たちのうちに宿ってくださいます。聖霊は、私たちのうちに働いて、もともとの自分には到底できないようなことを実行する力を与えてくださいます。

 8節の後半に、「闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。」と書かれていますが、まことの光とは主イエスのことです。主イエスはこの世に2000年前に来てくださり、私たちが罪から赦される道を開いてくださいました。その時から、新しい愛を教え、新しい愛を実践された主イエスがずっと輝いておられます。現在は、光と闇とがともに存在していますが、将来、その光であるキリストによって闇が完全に消し去られて、キリストの光だけが永遠に輝き続ける時代がやって来ると聖書は約束しています。私たちは、主イエスを信じることによって、罪が赦されるだけではなく、この壮大な永遠の栄光に満ちた世界に招き入れられる者となっていることを私たちは忘れてはなりません。私たちには、これほどに栄光に輝く将来が約束されているのですから、今、闇も存在する時代を生きていますが、将来をしっかり見据えて希望をもって歩み続けたいと思います。

  • 私たちたちの生き方としての愛

 9節から11節は、今日の箇所の結論となっている部分ですが、ヨハネは、「私はクリスチャンです」と公言している人に対して、信仰のテストを与えています。そのテストの内容は、クリスチャンと言う人の生活の中に、キリストの愛があるかどうかということです。偽教師たちは、自分たちは神様から特別な知識が与えられており、神様と特別に親しい交わりを持っていると誇らしげに語っていましたが、彼らの生活の中に、主イエスが示されたような愛はなく、むしろ、教会のメンバーたちを自分よりも低い者と見ていました。また、主イエスを知らずに罪の生活をしていた人々に福音を伝えることもしていませんでした。彼らの中にはまことの光はなく、いまだに闇の中を歩んでいました。一方、教会の多くのメンバーは、一般的な労働者階級の人々や、奴隷や、未亡人や、世の中では弱い立場の人々が大部分を占めていました。彼らの多くは教育を受けていませんでした。しかし、彼らは信仰を持って、主イエスの愛を知った時から、新しい喜びに心が満たされて、彼らの生き方が変わりました。神様を愛して、神様の命令に喜んで従う者となり、また、互いに愛し合い、祈りあり、助け合っていました。そして、世の中に出て行って多くの人々にイエス・キリストによる救いのメッセージを語っていました。彼らこそ、光の中を歩んでいたのです。

 私たちは、一度立ち止まって、自分の信仰を吟味することが必要です。「私はイエス・キリストを信じて、光の中を歩んでいます。」と言うことは、ある意味簡単です。しかし、神様は私たちの言葉を聞くだけでなく、私たちの行いを見ておられます。私たちが、キリストが愛されたような愛の行いをしているのかどうかが問われるのです。愛することと好きになることとは同じではありません。どちらも、もちろん、私たちの感情を表すものですが、愛には、感情以上に愛そうとする意志が含まれています。イエス様はこう言われました。「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。罪人たちも同じことをしているではありませんか。」キリストの愛とはどんな愛なのでしょうか。コリント人への手紙13章の中にキリストの愛の定義が記されています。4節から7節を読みましょう。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」私たちが「愛」という言葉を使う時には、自分の感情から始まるものであり、何の努力や忍耐も必要とはしません。それは、自分の心の中にある「好きだ」という感情がすべてであるからです。しかし、主イエスの愛は、自分の感情に向かう内向きのものではなく、他人にとってベストのものを与えようとする働きです。この命令は、私たちがすべての人に好ましい感情を持ちなさいということを言っているのではなく、すべての人にその人にとって益となるようなことを行いなさいという命令なのです。このような愛は、聖霊が私たちの心を満たすときに初めて可能になるものです。10節にヨハネが記しているように、自分の兄弟をそのような愛で愛する人は、主イエスの光の中にとどまっています。そしてつまずきがありません。つまずきという言葉は新約聖書では罪を犯すという意味で用いられています。イエスの愛で人を愛する人は、自分自身が罪に陥ることがないだけではなく、相手の人を罪に陥らせることもないという意味です。

 ヨハネは11節で、もう一度繰り返して述べています。「自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。」ヨハネは、ここで、兄弟を憎む人について3つのことを語っています。第一に、その人は闇の中にいます。これはその人の性質を示しています。第二に、その人は闇の中を歩みます。これはその人の行いを示しています。闇の中の性質を持っている人は、闇の中でその性質の通りに生きるのです。そして、第三に、その人は自分がどこに行くのか知りません。私たちが、憎しみという感情に縛られて生きていると、神様が私たちに示してくださる道が見えなくなります。自分に関する神様のご計画や御心が見えなくなってしまうのです。神様の御心から離れてしまうと、私たちは滅びに向かってしまいます。だから、ヨハネは、私たちが滅びに向かうことのないように、警告の言葉として、「兄弟を愛しなさい」と命じておられるのです。主イエスが私たちの模範です。私たちが、主イエスのように人を愛することを目指す道、これこそ、神様の道を進んで行くことであり、永遠の栄光に向かって進む道なのです。

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