2022年7月3日『父よ、若者よ、子よ』(1ヨハネ2:12-14) | 説教      

2022年7月3日『父よ、若者よ、子よ』(1ヨハネ2:12-14)

 生きていることの証拠は成長することです。それは、目に見えるいのちも、目に見えないいのちも同じです。生きている種は、やがて植物に成長します。赤ちゃんの体は大人の体に成長します。それと同じように、生まれたばかりのクリスチャンの信仰も、霊的に成長していき、人はキリストに似た姿に変えられて行きます。ただ、人間の体が、栄養不足や病気などによって、順調な成長が妨げられる場合があるように、霊のいのちも、十分に成長できない場合があります。人間の体が十分に成長しないと、体が持っている機能や能力を十分に発揮することができないように、霊的成長が不十分な場合、神様が神を信じる人々のために備えてくださっているいろいろな祝福や特権を十分に受け取ることができなくなります。私たちの体が成長するのは、私たちが体に何か働きかけた結果ではありません。神様は、元々、私たちの体に、成長する能力を与えておられます。そういう意味では、人間の体が成長するのは、神様の力によるものです。霊的ないのちも同じです。霊的な成長を促してくださるのは神様です。ただ、私たちが、神様に対して不信仰であったり、不従順であったりすると、神様の働きを妨げることになり、霊的な成長がストップしてしまうのです。ただ、霊的な成長に関して、注意するべき点を4つ述べたいと思います。

 第一に、霊的成長は、私たちが救われているという立場を変えるものではないということです。私たちが、自分の罪を認め、主イエスを救い主と信じた時に、私たちの罪は赦され、神様の子どもとなりました。私たちの霊的成長がどの程度のものであり、私たちが救われて神の子どもであるという立場は全く変わりません。第二に、霊的成長の度合によって、神様の私たちに対する愛が変わることはありません。神様は、霊的に成熟した人を、霊的に未熟な人よりも多く愛するということはありません。放蕩息子を迎えた父親のように、私たちに対する神様の愛は、私たちが成熟しているか未熟であるかによって変わることはありません。第三に、霊的成熟は、信仰の長さによって決まるものではありません。信仰歴が長いから霊的に成長しているとは限りません。むしろ、救われたばかりのクリスチャンのほうが霊的に成長している場合がよくあります。第四に、霊的成長は、神秘的な体験、感情的・心理的な体験によって与えられるものではありません。肉体的成長が毎日栄養を取ることによって得られるのと同じように、霊的成長も、毎日み言葉の霊的食べ物を受け取ることによって与えられます。一回の体験によって与えられるものではありません。

 ヨハネは、ここで、3つのグループの人々に語り掛けていますが、それは、この手紙が送られた教会のメンバーの中には、霊的に成熟した人々もいれば、まだ未熟な人もいたからです。そして、彼がそれらの人々に伝えたかったことは、彼らが、霊的な成熟の程度に違いがあっても、誰もが、主イエスの十字架によって救われて、神の子どもとなっていることに確信を持って欲しいと思ったからです。そのことを伝えるために、ヨハネはまず教会のメンバー全体に語りかけ、その後で、3つのグループに語り掛けています。

  • 教会のすべての人に向かって(12節)

 ヨハネは、この手紙を教会の信者のために書き送っています。12節から14節までの短い箇所で、ヨハネは繰り返して「私があなたがたに書いている」と述べているのは、このメッセージは、教会の中で、主イエスを信じる信仰によって罪を赦されて救われている人々に向けて書かれたものであることを強調するためでした。12節の冒頭で、ヨハネは「子どもたち」と呼び掛けていますが、この言葉は、ギリシャ語では、テクニアという言葉です。この言葉は、大人に対して、まだ成長していない子どもという意味ではなく、神様の子どもとして「生まれた者」という意味を持っています。従って、この言葉は、年齢や信仰年数に関係なく、神様の子どもとして新しく生まれるという経験をした人という意味で、すべての信者を指す言葉です。実は、霊的な面で言えば、この世界には2種類の子どもしか存在しません。神の家族に生まれた子どもたちか、あるいは、悪魔の支配下にある子どもたちです。ヨハネが、神の家族の中に生まれたすべての人々にこの手紙を書いているのですが、その目的は、12節の後半に記されているように、すべての救われた人々が、イエスの名によって罪が赦されていることを確信するためでした。先ほども述べましたように、自分の罪を悔い改めて主イエスを救い主と信じた人は、罪が赦されています。私たちの罪は、罪のない神の御子イエスが十字架で身代わりとなって死んでくださったことによって、完全に赦されたいるので、私たちの罪の問題は、すでに解決済みなのです。クリスチャンは、自分の意志で神様との関係を断ち切らない限り、神様から捨てられることはありません。私たちは、永遠に、神様の家族の一員として生きて行くのです。しかも、私たちの罪が赦されたのは、私たちが真剣に悔い改めたからではありません。私たちが今までの生き方を改めて、神様の目に正しい生き方をする人間になったからではありません。私たちが忠実なクリスチャンになっているからでもありません。12節に「イエスの名によって」罪が赦されていると書かれています。神様は、時々、人間の常識ではありえないようなことを行われます。イエスの名によって、神様が私たちの罪を赦されるとは、どういうことでしょうか。それは、神様にとって、私たちを赦すことが喜びであり、一方的な愛と恵みによって私たちの罪を赦してくださるということです。私たちは、普通、自分に逆らったり裏切ったりする人を愛することはできません。しかし、イスラエルの神様は、旧約聖書時代、イスラエルの民が何度も神様の命令に背き、神様に逆らったにもかかわらず、イスラエルの民を赦し、愛されました。預言者イザヤの時代も、イスラエルの民は神様を呼び求めることをせず、むしろ神様を鬱陶しい存在と見なし、神様の命令に背いていました。そのため、神様はイスラエルの民の神への信仰を回復させるために、バビロンによる厳しい罰をお与えになりました。それでも、神様のイスラエルの民への愛は変わりませんでした。イザヤ書43章25節には、神様のこんな言葉が記されています。「わたし、このわたしは、私自身のために、あなたの背きの罪を拭い去り、もうあなたの罪を思い出さない。」人間の常識からすれば、イスラエルの民は、本当は、神様に捨てられて当然の民でした。それなのに、神様は、彼らの罪を赦して、すべてを忘れると言われました。それは、ただただ恵み深い神様の聖なる名前のためなのです。神様は、このような計り知れない恵みと憐みを与えることこそ、自分にとって大きな喜びであり誉れだと言われるのです。私たちは、神様から、これほど大きな赦しをいただいているのですから、この地上にいる間も、天国に行っても、永遠に神様をほめたたえて賛美をささげ、神様に感謝しなければなりません。

  • 幼子に向かって(14節a)

 ヨハネは13節と14節で信仰の成長の違いによって、「父たち」「若者たち」「幼子たち」の3つのグループの人々に語りかけています。聖書の順番を変えて、成長の順序に従って、今日は、「幼子」「若者」「父」の順番で考えたいと思います。14節で、ヨハネは「幼子たち」と呼び掛けています。この言葉は「パイディア」という言葉で、12節の言葉とは違います。この言葉は、普通7歳以下の子どもに使われる言葉で、まだ親の世話を受けていろいろなことを学ばなければならない子どもを指しています。ヨハネの手紙では、この言葉は主イエスへの信仰を持ったばかりの人々を表しています。幼子について、ヨハネは「あなたがたが御父を知るようになったからです。」と書いています。幼い子供は、自分の親について、まだいろいろなことを知りません。ただ、幼子は、その家庭に生まれて来て、自分が親に愛されていることを感じ、親のそばにいれば安全なことを知ります。主イエスを信じたばかりのクリスチャンも、それと同じ経験をします。神様の家族に入ったことによって、自分は神様に愛されていることを感じ、神様とともにいれば安全であることを知ります。そして、いつでも、天の父なる神様に、主イエスの名によってお祈りをすることができます。自分の願いを神様に知ってもらうことができます。これはなんと恵まれた環境でしょうか。私たちは、全知全能の神様の子どもとして、神様の腕にしっかりと抱かれているのです。この世に、私たちを神様の愛から引き離すものは何一つありません。ただ、幼子たちは、まだ生まれたばかりです。知らないことばかりです。幼子にはいろいろな危険があるのと同じように、まだ、信仰の幼子も、いろいろな霊的判断力を持っていないので危険にさらされています。だから、私たちは、いつも神様のそばにいなければなりません。もっともっと父なる神様との交わりを深めなければなりません。そして、み言葉の読むことによって、霊的な力を蓄えて行くことが必要です。

  • 若者たちに向かって(13b、14b)

次の段階は、若者です。若者の特徴は、理想に燃えていること、いろいろなものを学ぼうとすること、エネルギーに満ちあふれていることです。一方で、まだ人生の試練をあまり経験していないために、自信過剰になったり、感情的に不安定だったりします。ヨハネは13節と14節で、信仰の若者たちに対する言葉を書いていますが、ヨハネは、2回繰り返して、若者たちが悪い者に打ち勝ったと書いています。神の家族に加えられた幼子は、どのようにして、悪い者に打ち勝つ力を身に着けたのでしょうか。14節に、「あなたがたが強い者であり、あなたがのうちに神の言葉がとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。」と書かれています。幼子が若者になるために必要なことは、その人のうちに神の言葉がとどまることです。霊的な成長と力を得るためには、私たちは、神の言葉を知り、その言葉のとおりに生きることが必要です。私たちは、み言葉をもっともっと知らなければなりません。神様が本当に全知全能の神であること、永遠の父なる神であること、そして、私たち一人一人と契約を結んで、私たちを救い、私たちを守り、私たちを永遠のいのちへと導いてくださる方であることを、確信しなければなりません。み言葉を知らないと、敵と戦うことはできません。そして、み言葉を知ったら、そのみ言葉を信じて、み言葉に従って行動しなければなりません。ペテロは、ある時、一晩中魚を取るために苦労しましたが一匹も取れませんでした。朝になってペテロが岸辺に戻ると主イエスがペテロに「網を降ろして見なさい」と言われました。ペテロの常識と経験では、朝その場で網を降ろしても魚が獲れるはずがありません。しかし、ペテロは「一晩中働いても魚は一匹も獲れませんでしたが、お言葉ですから下ろしてみましょう。」と行って網を降ろすと網が破れそうになるほどの魚が獲れました。私たちがみ言葉に従う時に、神の力が働きます。サタンは私たちの成長を妨げようといろいろな形で攻撃してきます。生活の中で、小さな心配事を与えたり、神に対する疑いの心を起こそうとしたり、信仰生活に失望させようとしたり、いろいろな出来事、思いによって私たちはサタンの攻撃にさらされているのです。しかし、そんな時に、私たちの心と思いの中に聖書の約束の言葉がしっかりと入っているなら、イエス様が悪魔の誘惑を受けたときと同じように、み言葉をもってきっぱりと反論することができます。聖書の約束、聖書の教えを正しく理解することによって、私たちは悪魔に勝利することができます。

  • 父たちに向かって

 三番目の段階は父親の段階です。父親たちについては、13節でも14節でも、ヨハネは「初めからおられる方をあなたがたが知るようになったからです。」と書いています。その人は、ただ単に、知識として神を知るのではなく、神ご自身を知るようになった人です。詩篇の1篇に幸いな人の姿が描かれていますが、その人は、「主の教えを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ」と書かれています。いつも、み言葉の教えを喜び、その教えを口ずさみ、その教えに従って生きようとする人は、神様の素晴らしさをさらに深く知るようになり、いつも神様を讃美し、神様に感謝して生きるようになります。そのようにして、14節にあるように「初めからおられる方」を知るようになりました。「初めからおられる方」は、永遠の神です。初めからおられる方は、天と地とその中にあるすべてのものを創られた創造主なる神です。その神様を知るのは、聖書の言葉をいつも口ずさむことによって初めて可能になります。聖書は、私たちが失敗しないとか、困難や試練に会わないとか、病気にならないとか、そのような約束をしていません。どんなに霊的に成長しても、私たちは、試練を経験することもあるでしょうし、病気で苦しむこともあります。しかし、そのような困難な状況の中でも、神様を個人的に知っているならば、困難や試練の中でも、パニックになることなく、感情的になることもなく、神様を信頼して、平安を得ることができます。旧約聖書にヨブ記という書物がありますが、主人公のヨブは、正しい人であり信仰の人でした。悪魔はヨブの信仰を試すために、神様の許可をもらって、ヨブに激しい試練を与えました。ヨブは、激しい試練の中で、苦しみ葛藤しましたが、その試練が終わった時に、ヨブは次のように語っています。ヨブ記の42章5節を読みましょう。「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし、今、私の目があなたを見ました。」ヨブは、試練を経験して、自分がまだ神様のことも自分のことも十分に理解していなかったことを悟り、神様に悔い改めたのです。そして、ヨブはようやく神様の全体像を捕らえることができたのです。クリスチャンが、幼子から、若者、そして父親へと成長していくためには、聖書の教えを喜びとして、その教えに従って生きることがどうしても必要です。あらゆる場合に、み言葉を読み、み言葉を学び、み言葉を心に蓄え、み言葉を口ずさみ、聖書の教えを毎日の生活で実践する時、クリスチャンは、聖霊の働きによって、キリストに似た者へと変えられて行くのです。私たちは、皆、自分の信仰が父親の信仰になるまで成長することが期待されています。私たちは、神様をもっと親しく知るために、日々、み言葉に生きる者でなければなりません。

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