2022年7月10日 『この世のものに縛られてはならない』(1ヨハネ2:15-17節) | 説教      

2022年7月10日 『この世のものに縛られてはならない』(1ヨハネ2:15-17節)

 ヨハネがこの手紙を書いた理由は、彼が関わっていた教会の状況を見て、心配な面があったため、彼らの信仰が正しく養われることを願ったからでした。この手紙が書かれた頃、すでに、主イエスの十字架と復活の時から50年ほどが過ぎていました。パウロを中心とした福音宣教の働きが爆発的に広がって、ローマ帝国中に、新しい教会が生まれていました。しかし、同時に、その働きをつぶそうするサタンの働きもあり、教会の中には、絶えず霊的な戦いがありました。当時の教会には、主イエスの記憶が生々しく、ペンテコステの時のクリスチャンの情熱が残っていましたが、中には、間違った教えの影響を受けたり、この世と妥協する生き方を選んで、教会から離れて行った人たちもいました。そのことで、パウロも非常に心を痛めていました。その中の一人にデマスという人がいました。第二テモテ4章10節には次のようなことが記されています。「デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。」この人は、使徒パウロと共に福音宣教の働きを行っていた人です。コロサイ書の4章15節に、パウロは教会の人々に挨拶の言葉を書いているのですが、「愛する医者のルカ、それにデマスがあなたがたによろしくと言っています。」ルカの福音書を書いた医者ルカは、パウロの伝道旅行について行っていますので、デマスも伝道旅行に加わっていた可能性が高いです。しかし、彼はパウロと、宣教仲間を見捨てて、テサロニケに行ってしまいました。テサロニケは北ギリシャの中心都市で、そこにはビジネスもあればこの世の快楽もあった場所です。彼がパウロたちを見捨てた理由を、パウロは次のように書いています。「デマスは今の世を愛して、私を見捨てました。」デマスは、信仰を持って霊的に燃えていました。そして、伝道旅行に加わって、熱心に働いていました。ところが、だんだんとクリスチャンへの迫害が強くなり、宣教の働きも困難になって来ました。そのような状況の中で、デマスは、神様のために生きること、神様のために犠牲を払うことはもう無理だと考えたのでしょうか。彼は、この世の生活、この世の楽しみを愛して、パウロから離れてテサロニケに行きました。その後、デマスがどうなったのか聖書に書かれていないのでわかりません。もしかすると、この世的には成功したかも知れません。快適な生活をしたかも知れません。しかし、彼は永遠のいのちという、もっとも大切な神様からの祝福を失ってしまいました。「この世を愛する」ことが、クリスチャンにとって非常に大きな危険であることが、デマスの霊からも分かると思います。今日は、神様の命令である「この世を愛してはならない」ということについて考えたいと思います。

  • この世を愛してはならない(1節)

 15節で、ヨハネは「あなたがたは、世も世にあるものも、愛してはいけません。」と書いています。ここで確認しなければならないのは、ヨハネが言う「世」とは何を意味するのかという点です。ヨハネが意味する世について考える前に、彼が意味していない「世」について考えたいと思います。第一に、彼は、見に見える、今私たちが生活している、その世界を意味しているのではありません。私たちが生きているこの世界は、もともと神様が創られた世界であり、神様は自分が創った世界を見て、「これは非常に良い」と言われました。もちろん、神様が創られた素晴らしい世界は、最初の人間の罪によって傷ついた部分が多くありますが、それでも、今なお、私たちは、この世界の美しい景色を見ると深い感動を覚えます。この世界は、造り主である神様の栄光を表すものですから、私たちは、この世界を愛し、大切に用いなければなりません。第二に、ヨハネの「世」はこの世の人々でもありません。確かに、この世の人間は神を無視して自分勝手に生きています。しかし、それでも、神様は、そのような人間を愛し、彼らが本当に幸福に生きられるように、わざわざ、ご自分のひとり子であるイエスをこの世に遣わしてくださいました。それは、私たち人間の罪のが赦されるために、ご自分のひとり子のイエスを十字架にかけて私たちの罪の刑罰を受けさせるためでした。神様が自分のひとり子を犠牲として捧げるほどのことを行われたのは、神様がこの世の人々を愛しておられるからです。

 では、ヨハネがここで、「世も世にあるものも愛してはいけません」と書いているのは、具体的に何を意味しているのでしょうか。それは、この世の人々の神を無視する価値観や態度、明確に神を否定し神を嫌う人々の態度を意味しています。これらの人々は、神に敵対する悪魔の支配下に置かれているので、彼らは、神様のことを全く理解できず、また、神の愛も理解できません。この世の態度は、神様に従わない最初の人間アダムとエバの心から発生しました。最初の人間アダムとエバは、神様から「エデンの園のどの木からも食べて良いが園の中央にある木から食べてはならない。それを食べると必ず死ぬ」と言われていましたが、サタンの「その実を食べても決して死なない」という偽りの言葉を信じて、二人は食べてはならない木の実を食べてしまいました。その瞬間、彼らの魂は死にました。そして、肉体も死ぬ体になりました。悪魔、サタンという名前の意味は「偽り者」という意味です。サタンは人々に様々な偽りをささやいて、人が神様の言葉に従わないように誘惑するのです。世の中の人々は、気づいているいないにかかわらず、神の言葉に従おうとしない生き方の支配を受けているのです。そのようなサタンが支配する世の中を、ヨハネは世と呼んでいます。私たちは、このような世の流れに流されてはいけないのです。

  • 世を愛してはならない理由その1

では、ヨハネはなぜクリスチャンは世を愛してはならないと言っているのでしょうか。それは、神が支配する世界と罪が支配する世界は両立できないからです。クリスチャンは、神様や神様の教えよりも、この世の流れ、この世の価値感を大事にすることはありえないことです。だから、ヨハネは「もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。」と書いているのです。世を愛することというのは、人が世を愛して何かの行動をするという意味ではなく、その人の心を姿勢を表します。クリスチャンが、この世のいろいろな誘惑となる場所を避けて罪となる行動をしないとしても、心がこの世を愛してしまう場合はあります。人が、この世の価値観を愛するなら、例えば、信仰生活を送ること以上に、裕福な生活を求めることに力を注いだり、高い学歴を求めたり、この世で人々から称賛されることを求めたりするなら、その人のうちに、神様を愛する愛はありません。神様に対する愛が冷えてしまうと、神様の御心に従って生きることや神様の教えに従って生きることを喜べなくなります。信仰生活に喜びがなくなると、神様からの祝福も消えてしまいます。私たちが住んでいる世界は、自分が第一という価値観に支配された世界です。自分を心を喜ばせ、満足させることを最も重要なことと考える世界です。神様の愛を失ってしまうと、人は、自分の心を喜ばせることに突っ走る生き方をしてしまいます。主イエスはマタイの福音書6章24節でも警告の言葉を語っておられます。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」

(3)世を愛してはならない理由その2

 ヨハネは15節で、「世も世にあるものも愛してはいけません」と言いましたが、16節では、その世と世にあるものについて3つの具体例を述べています。その3つとは、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢です。この3つのものが、エデンの園でエバを誘惑して捕らえてしまいました。蛇からそそのかされたエバは、神様から食べてはならないと言われていた園の中央にある木を見ました。するとどうなったでしょうか。創世記3章6節には次のように書かれています。「女が見ると、その木は食べるのに良さそうで」とあります、これは肉の欲を誘惑しました。そして、「その木は目に慕わしく」とありますが、これが彼女の目の欲を誘惑しました。そして、「またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。」とありますが、これはその木を食べると賢くなれる、それを自慢したくなる誘惑、すなわち「暮らし向きの自慢」という罪の誘惑を受けました。エバはこれらの誘惑に負けて罪を犯してしまったのです。

 第一に「肉の欲」とありますが、「肉」とは、私たちの体を意味するのではなく、私たちが生まれつき持っている性質を聖書は「肉」と呼びます。主イエスを信じる信仰によって新しく生まれ変わる経験を持っていない人は、この肉の性質を持っています。しかし、主イエスを信じた人は、新しいきよい性質にあずかる者となります。したがってクリスチャンの中には古い性質と新しい性質が両方存在するのですが、肉の欲とは、信じる前から持っていた古い性質の欲望です。神様は私たちを創られた時に、体に関するいろいろな欲求を与えられました。それらの欲求は良いものであり、生きて行くのに必要なものでもあります。例えば、空腹感、のどの渇き、体の疲れ、そして性的欲求などは、それ自体悪いものではありません。食べること、飲むこと、眠ること、男女がセックスすることや子どもを持つことなど、決して悪いことではありません。しかし、薬が使い方を間違えると毒になるように、これらの欲求が、自己中心的な思いに支配されると悪い欲望になってしまいます。食べることは良い事ですが、ひたすら食べ続けることは体に悪いです。飲むことは体に必要なことです。しかし、アルコール中毒になってしまうと罪になります。眠ることは良いことですが、いつもいつも眠っていて生活のリズムを失うことは恥ずべきことです。セックスは神様から私たちに良いものとして与えられた物ですが、使い方を間違えると不品行の罪になってしまいます。私たちには、もともと肉体が自然に欲求するものがありますが、それが、自分自身でコントロールできなくなり、その欲求に支配されてしまうと、私たちは、肉の欲の奴隷になってしまいます。肉の欲は悪をもたらすものであり、私たちに何の益ももたらしません。パウロは、ローマ人への手紙の中で、「主イエス・キリストを身につけなさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません」と警告しています。(13章14節)

 第二に「目の欲」です。「肉の欲」は、私たちが持っている古い性質に働きかけ私たちを罪の行為へと導くものです。一方、「目の欲」は、この世の中の素晴らしいもの、賢そうに見えるもの、良いもので心を満たそうとする欲求です。ヨハネの時代も、今日と同じように、人の目を喜ばせるような娯楽やイベントが数多くありました。今でも、テレビのコマーシャルは私たちの目の欲にアッピ―ルして来ます。ヨシュアの時代、イスラエルの民がエリコの町を滅ぼした時、神様は、イスラエルの民に滅ぼされたエリコの町から戦利品を奪ってはならないと警告をしていました。しかし、アカンという男は神様の命令に逆らい、エリコの町から多くのものを盗みました。そのことが発覚した時に、アカンは次のように言いました。「私は、分捕り物の中に、シンアルの美しい外套1着、銀2百シェケルと重さ五トンの金の延べ棒が1本あるのを見て、欲しくなり、それらを取りました。」彼の目の欲が彼を罪に陥れ、彼の罪は、イスラエルの軍隊の敗北をもたらしました。

 3番目は「暮らし向きの自慢」です。ここで「自慢」と訳されている言葉は英語では「プライド」と訳されています。ギリシャ語の言葉は、自分を実際以上に裕福な人間、権力を持つ人間であるふりをして人々に自分を印象付けようとする人という意味を持つ言葉です。私たちは、自分が人々からどのように見られるだろうかということを気にします。神様は、私たちの心に、「向上心」や、「より良い物を追及する心」を与えられました。人は神に似せて創られているので、神様が持っておられる良い性質をも与えられているのですが、最初の人間の罪によって、それらの良い性質が歪んでしまいました。そのために、人は、自分に与えられている現実を謙遜と神様への感謝の心で受け入れる代わりに、自分自身を周りの人よりもすぐれた者として見られたいと願うようになりました。罪人は、自分が一番大切です。他の人々から自分が常に成功している者として見られたいと思うのです。

  • 世を愛してはならない理由その3

 ヨハネは17節にもう一つ、私たちが世を愛してはならない理由を書いています。「世と、世の欲は過ぎ去ります。」私たちが住んでいる世界には始まりがありました。永遠の昔のある時に、この宇宙は誕生しました。始まりがあるものには終わりがあります。科学でも、将来地球が滅亡するときが来ることを予想していますが、聖書は、昔からずっとそのことを語り続けています。「世と世の欲はいつか消え去ります。」ヨハネは17節で、2つの生き方を対比しています。この世の人は、この世の限られた時間のために生きています。肉の欲を満たすために、目の欲を満たすために、そして、暮らし向きの自慢をするために、生きていますが、その時間は限られています。私たちの人生にはいつか必ず終わりが来ます。しかし、クリスチャンは、自分の肉の欲を満たすために生きるのではなく、神様の喜ぶ生き方をめざします。クリスチャンは、目に見えるもののために生きるのではなく、目に見えない神様が約束してくださったものを見ています。クリスチャンは、自分の生活を他の人に自慢するために生きるのではなく、自分の生活が神様に受け入れられることを求めます。このように、神様を喜び、神様の御心に従って生きようとする人々は、永遠に生き続けるのです。クリスチャンの心から、神の教えに従おうとする思いや、神と共に生きることの喜びを奪うものは、すべて世にあるものです。それらを愛してはなりません。私たちは、決断をしなければなりません。「私は、一時的なこの世のために生きるのか、それとも神の御心に従い、永遠に生きるのか。」聖書は、神を愛さずにこの世を愛する者には神のさばきがあると警告しています。永遠の滅びに至るさばきがあると警告しています。あなたはどちらの生き方を選びますか。

2022年7月
« 6月   8月 »
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31  

CATEGORIES

  • 礼拝説教