2022年7月17日 『真理から離れてはならない』(1ヨハネ2章18-25節) | 説教      

2022年7月17日 『真理から離れてはならない』(1ヨハネ2章18-25節)

 日本のこととわざに「いわしの頭も信心から」というのがあります。いわしの頭は価値のないものですが、その頭がありがたいものだと真剣に信じれば、その人にとっては価値あるものとなるという意味のことわざです。これは、人が何かを信じる場合、何を信じるかということよりも、どれだけ真剣に信じているか、その心が大切だという教えです。しかし、このことわざが間違っていることは明らかです。今回の阿部元首相の襲撃事件の犯人の母親が統一教会に入って熱心に信心したために、家庭が破壊され、犯人は教団や教団の関係者に一方的な憎しみを抱くようになりました。私たちがいくら熱心に信じたとしても、偽りのものが真実のものに変わることは決してありません。私たちは、真理を信じなければなりません。偽りのものを信じるとき、大きな問題が起こります。ヨハネが生きていた時代にも、すでに、偽りを教える偽教師が教会の中に入り込んでいました。偽教師が現れるということは、真実を教える教師がいることを意味します。例えば、偽札が作られるのは、本物のお金があるからです。本物のお金がなければ誰も偽札を作りません。そのように、偽教師が現れるということは、真実の教師が存在することの証拠です。今から2000年前も、今も状況は同じです。今なお、偽教師がこの世に数多くいます。私たちは、自分自身が、聖書の教えの真理から離れないように注意しなければなりません。

  • 偽教師は離れて行く (18,19節)

 18節で、ヨハネはこう書いています。「幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたは聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。」すでにヨハネの時代に、自分はクリスチャンであると言いながら実はそうではない偽教師たちが当時のキリスト教会に数多く入り込んでいたようです。ヨハネはここで、終わりの時ですと言っていますが、これは、聖書的に言うと、主イエスが1度目に来られた時と、2度目に来られる時の間の時代を指しています。聖書は、復活して天に戻られた主イエスが世の終わりの時にもう一度来られることを預言しています。その時はまだ来ていません。ですから、ヨハネが言う終わりの時は2000年前から今日まで続いており、将来あと何年続くのか、それは誰にも分かりません。従って、私たちも、ヨハネと同じように、今、終わりの時を過ごしています。2000年前から今日に至るまで、数えきれないほどの反キリスト、偽教師が現れました。使徒パウロは3回の伝道旅行を終えてエルサレムに戻る時に、途中で、エペソ教会の長老たちに別れを告げるためにエペソの近くで彼らと出会いました。その時、パウロはエペソの長老たちに次のような警告の言葉を語りました。使徒の働きの20章29節に書かれています。「私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。」パウロが狂暴な狼と呼んだ偽教師たちは、キリスト教会の歴史のあらゆる時代に現れて、教会を荒らし回って来ました。今日も、統一教会やエホバの証人などさまざまな異端のグループが活動していますが、彼らの目的は一つです。信仰に堅く立っていない信者たち、あるいはまだ信じたばかりの信者たちを巧みな言葉や教えで惑わして、真理であるキリストへの信仰から引き離すことです。このような偽教師たちがヨハネの時代から今日にいたるまで、次から次へと現れて、クリスチャンを惑わして来ました。そして、聖書は、世の終わりの時に、不法の者と呼ばれる一人の人物が、サタンの働きによって現れ、あらゆる力、偽りのしるしと不思議なわざ、そして、あらゆる悪のあざむきを用いて人々を滅びに導きいれると預言しています。

 キリスト教会、特にプロテスタント教会は、これまでの歴史の中で様々な教派が生まれました。バプテスト教会、長老教会、ホーリネス教会など、いろいろなグループがあります。しかし、正しい信仰を持っている教会は、一つの同じ信仰を持っています。それは、聖書は神の言葉であること、イエスが神の子であること、人間は生まれつき罪人であること、罪人が救われる唯一の方法はキリストを救い主と信じること、キリストが十字架で死んだのは私たちの身代わりになって私たちの罪の罰を受けるためであったこと、そして、キリストが確かに死から蘇られたこと、信じる者のうちに聖霊が与えられていること、そして、世の終わりの時に主イエスが再びこの世に来られること、これらのことを信じる信仰です。使徒信条や私たちの教会の信仰告白で私たちが告白している信仰です。礼拝のやり方、教会の運営方法、洗礼のやり方など、教派によっていろいろな違いはありますが、すべての教会は、今述べた同じ信仰告白を持っています。この信仰告白から逸脱すると、異端の教えが生まれるのです。19節に、ヨハネの時代の偽教師たちについて、「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。」と書いています。異端グループの教祖の多くはもともとキリスト教会の牧師でした。しかし、彼らが、今述べた正しい信仰告白から脱線して、自分の勝手な解釈や考えを持つようになった時に、彼らは、正しい信仰告白をする教会から離れて、自分のグループを作ったのです。従って、偽教師の特徴は、正しい信仰告白をする教会からで行くことです。ヨハネの時代の偽教師たちも、元々は、教会に属する人々で、ヨハネとも交流があったと思われます。しかし、彼らは、信仰告白を否定して自分の解釈を主張し始めると、教会から出て行きました。そして、自分の間違った教えを人々に伝え始めたのです。彼らは、彼らの解釈や彼らの神に関する考えを、教会のリーダーたちや信者たちから否定されたために、教会から出て行きましたが、そのことによって、彼らがもともと主イエスを救い主と信じるクリスチャンではなかったことが明らかになりました。

  • 聖霊による信仰の確信(20,21節)

 偽教師たちが主張していた2つの言葉がありました。それは、油注ぎという言葉と知恵という言葉でした。彼らは、自分たちが神から特別な油注ぎを受けたので、普通の人には知ることのできない特別な知識が与えられていて、自分たちは他の誰よりも高い霊的な賜物を持っているのだと主張していました。それに対して、ヨハネは、真実に主イエスを信じるクリスチャンは、皆、神を知っており、神様から注ぎの油を受けていると20節に書いています。注ぎの油とは、私たちクリスチャンが主イエスを信じる信仰を持つときに、聖霊が与えられることを意味します。私たちは、聖霊の働きがなければ、真心から「イエスは私の主です」と言うことはできません。主イエスが十字架にかかる前に弟子たちに助け主を与えると約束されました。主イエスは弟子たちに次のように言われました。「父なる神は、もう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。」(ヨハネ福音書14:16-17)クリスチャンには聖霊が与えられていて、聖霊はいつまでも私たちとともにおられます。そして、私たちを真理に導いてくださるのです。聖霊は、たいていの場合、聖書の言葉をとおして、私たちを真理に導きます。聖霊は、み言葉を通して、ある時は私たちの罪を示し、ある時は神の御心を教え、ある時は私たちを慰めてくださいます。そして、なによりも、聖霊は、私たちが主イエスを信じる信仰によって神の子であることを保証してくださいます。偽教師たちは、自分たちは一般の信者には与えられていない特別な知識が与えられていると主張しましたが、それは、単に、彼らが自分勝手に作り上げた知識であって、神から示された真理ではありませんでした。しかし、当時の教会の信者の中には、偽教師からそのように言われて、自分は真理を知らないのではないかと戸惑う人もいたのです。そこで、ヨハネは21節で、この手紙を書いている理由を述べています。その理由とは、教会の信者たちが真理を知らないからではなく、真理を知っているからというものでした。ヨハネは、彼らが真理を知っていることを強調するために、「知っている」という動詞を完了形で書いています。完了形というのは、過去のある時に、聖霊によって真理の知識が与えられて、その人がその知識を今にいたるまでずっと持ち続けていることを示す形です。真理の知識は、偽教師たちが主張したように、限られた一部の人だけに与えらえるものではなく、イエスを救い主と信じるすべてのクリスチャンに与えられるものなのです。もちろん、私たちは、聖書の教えの真理をすべて知っている訳ではありません。ただ、先ほど述べた、私たちの信仰の中心となること、すなわち、使徒信条に告白されている、神に関する真理については、知らなければならないことを全部知っているので、偽教師たちが主張したような、特別な神からの知識の油注ぎは必要ないのです。

  • イエスを否定する者が偽り者(22,23節)

 ヨハネは、22節で、偽り者とは誰なのか、はっきりと書いています。「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。」イエスがキリストであるとは、イエスが、旧約聖書がメシアと呼ぶ、私たちを罪の束縛と裁きから救い出す救い主であるということです。ヨハネは、この事実を否定する者が反キリストであると述べています。時々、「私は神を信じるがイエスを信じることができない」という人がいますが、その人はクリスチャンではありません。どんなに熱心に神を礼拝しても、イエスを救い主と認めない人、イエスの十字架の意味を否定する人は反キリストであって、クリスチャンではありません。イエスは、人間の姿を持った神であり、三位一体の第二の神です。主イエスご自身が言われましたが、イエスを通してでなければ誰一人神のもとに行くことはできません。罪や汚れを持つ人間が聖なる神に近づくことはできないからです。神を信じる道は一つです。主イエスの十字架が自分の罪を赦すための身代わりの死であったことを認めて、イエスの十字架に免じて、自分の罪を赦された人、罪からきよめられた人だけが神を信じることが許されるのです。23節でヨハネは、「御子を否定する者は御父を持たず、御子を告白する者は御父も持っているのです。」と書いていますが、イエスを神の御子であることを否定する人は、神のもとへ行くことはできませんから、当然のことながら父なる神様との関係を持つことはできません。クリスチャンとして生きるというのは、言い換えると、神様の子どもとして神様と親しい関係を持って生きることです。家族の一員として、父親がいるということが大きな安心感につながるのと同じように、クリスチャンにとって、自分を愛し自分を理解し自分を価値ある者として認めてくださる神様を魂の父親として持っていることが、大きな心の平安につながります。しかし、キリストを否定する者は、神様とそのような霊的な関係を持つことはできません。

  • 永遠のいのちに生きる(24,25節) 

 24,25節で、ヨハネは私たちにチャレンジと約束を語っています。24節は「あなたがたは」という言葉で始まっていますが、これは強調的に使われている言葉です。そこには、22,23で述べた偽教師、反キリストと対比して、主イエスを信じ、神様との関係を持っているあなたがたはという意味が込められています。ヨハネは彼らに「初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい」と言いました。彼らが初めから聞いていることとは、彼らが聞いた主イエス・キリストに関する福音です。主イエスの十字架と復活のメッセージです。それを自分のうちにとどまらせるとは、まず、そのメッセージを受け入れることです。そして、その福音の教えに従って、ものごとについて考え、行動することを意味します。ヨハネは続いて言い方を変えて、「初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちとどまります。」と言っています。このように、論理の順番を入れ替えて同じことを繰り返して語ることによって、ヨハネはこの事実を読者のこころにしっかりと刻みつけようとしているのです。もし、私たちが福音の教えを受け入れ、福音の真理に従って生きるなら、その結果、私たちは、つねに神様との親しい交わりの中にとどまることになるのです。

 最後の25節は約束のみ言葉です。福音を受け入れ、その教えに従って生きようとする人々には、神様が永遠のいのちを約束しておられます。この約束は、主イエスによって与えられた約束です。聖書が教える永遠のいのちは、ただ時間的に永遠であることだけではありません。それは神と共に生きるといういのちのことです。ヨハネの福音書の17章3節で主イエス自身こう述べています。「永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」つまり、父なる神と御子イエスをよく知っている親しい関係の中で生きることが永遠のいのちです。そのいのちは、私たちが主イエスを救い主と信じた時からすでの始まっています。地上で生きている間も、私たちはつねに神の家族として神様に守られ導かれて生きています。そして、この地上の生涯が終わったら、今度は、時間的にも永遠のいのちを天国において神様と信仰の仲間たちとともに過ごすことになります。この約束は、イエスを救い主と信じるすべての者に与えられているのです。

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