2022年7月24日 『キリストのうちにとどまりなさい』(1ヨハネ2:26-29) | 説教      

2022年7月24日 『キリストのうちにとどまりなさい』(1ヨハネ2:26-29)

 今、阿部元首相の銃撃事件がきっかけとなって統一教会の問題がメディアでも頻繁に取り上げられています。元々教祖の文鮮明は、長老教会の信者でしたが、ある個人的な宗教体験を持ってから、自分の聖書解釈を行うようになり、それを原理と呼んで「原理講論」という書物を書いて、その教えに基づく教会を作り上げました。彼は、主イエスが真の神であることを否定し、自分は再臨のメシアであると宣言することで聖書の教えから完全に外れてしまいました。キリスト教の歴史を見ると、これまでの2000年の間に、そのような聖書の正しい教えから脱線してしまった者は数多く現れていますが、ヨハネがこの手紙を書いた1世紀の後半にも、すでに、教会の中に偽教師と呼ばれる人々が数多く現れていました。実は、このことは、主イエスご自身が預言しておられました。マタイの福音書24章23,24節で、主イエスはこう言われました。「そのとき、だれかが『見よ。ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。」選ばれた者たちとは、主イエス・キリストを救い主と信じたクリスチャンのことです。神に敵対する悪魔の目的は一つです。主イエスを信じるクリスチャンを惑わし、堕落させ、神から引き離すことでした。これからも、世の終わりが近いことを感じさせる時代に生きている私たちに、悪魔が激しく攻撃してくることは十分に考えられることですから、ヨハネの手紙に記された警告の言葉を、私たちは真剣に自分への警告として受け取らなければなりません。

 26節でヨハネはこう書いています。「私は、あなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました。」ヨハネはここでも、自分がエペソに近い教会宛に書いた手紙の目的を繰り返し述べています。2章の12節ではヨハネはこう書きました。「子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」また21節ではこう書いています。「私がこのように書いてきたのは、あなたがた真理を知らないからではなく、真理を知っているからです。」これらの言葉を読むと、教会を惑わしていた偽教師たちは、それらの教会のクリスチャンたちが罪の裁きから赦されていることを否定して、彼らは福音の真理を知らないのだと主張していたことが分かります。そのように言われたクリスチャンたちは非常に戸惑いました。それで、ヨハネは彼らに信仰による救いの確信を持たせるために、この手紙を書いたのです。

 27節には次のように書かれています。「しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。」ヨハネは、偽教師たちの教えに戸惑っていたクリスチャンたちに、福音の真理を思い出させるために、彼らのうちに御子から受けた注ぎの油、すなわち聖霊が宿っていることを教えています。聖書は、私たちが、自分の罪を悔い改め、主イエスを救い主だと本当に信じるなら、その時に、その人のうちに聖霊が注がれることを約束しています。それは主イエスご自身が約束されたことです。最後の晩餐の時、主イエスが自分たちを残してどこかに行ってしまうのではないかと強い不安を感じていた弟子たちに対して、主は言われました。「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければあなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」ここで主イエスが助け主と言われたのは聖霊のことです。そして、そのことが、主イエスが復活したイースターの50日後にエルサレムで実際に起こりました。ペンテコステの出来事です。この時、120人ほどの人が集まって心を一つにして祈っていました。主イエスが十字架にかかる前は、大勢の人が主イエスの教えを聞き、主イエスの奇跡を目撃して主イエスについて来ていましたが、主が十字架に掛けられた時には、大部分の人々は主イエスから離れ、逆に、イエスを十字架につけろと叫ぶ者になっていました。主イエスを信じていた120人の者たちに、主イエスが約束された聖霊が注がれたのです。そして、その後、パウロがいろいろな教会宛に手紙を書きましたが、その手紙の中でも、教会のクリスチャンたちに、聖霊が注がれていることを繰り返し教えています。例えば第1コリント3章16節にはこう書かれています。「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」コリント教会は問題の多い教会で、信仰の成長がない信徒が多くいました。そのため、パウロは彼らに警告をしなければなりませんでした。一人一人のクリスチャンが聖霊の宮であると同時に、信徒の集まりである教会も聖霊の宮であることを忘れてはならないことをコリント教会の人々に教えています。ヨハネが、この手紙の中で、あなたがたのうちには御子から受けた注ぎの油がとどまっていると述べたのは、クリスチャンのうちには、御子イエスが送ると約束された聖霊が注がれていることを彼らに思い出させるためでした。しかも、聖霊は、特別な一部の人に与えられるのではなく、すべてのクリスチャンに注がれていることをヨハネは繰り返して述べています。私たちのうちには、聖霊が注がれています。聖霊は、天に上られた主イエスが地上にいる私たちとともにいるために遣わされたものです。私たちは、一人で生きているのではありません。主イエスを表す聖霊が私たちと共におられます。聖霊は、私たちを正しい道へと導いてくれます。私たちに力を与えてくださいます。私たちは、聖霊の導きに従えばよいのです。

 ヨハネは、「あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。」と書いていますが、これはどういう意味でしょうか。聖霊はどのように私たちを教えるのでしょうか。それは、ほとんどの場合、聖書の言葉をとおしてです。へブル書の記者は「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭い」と書きましたが、神のことばが生きているのは、ことばを私たちが聞いたり読んだりして受け取るときに、聖霊が働くからです。聖書の中に、私たちが罪から救われて永遠のいのちを持つために必要なことはすべて書かれています。私たちは、自分は神から特別な教えを受けたと主張する偽教師から学ぶ必要はまったくありません。ヨハネは「その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。」と書いていますが、すべてとは、救いに関する聖書の教えのことです。私たちが、すべてのことを知っていて、すべてのことを理解しているという意味ではありません。私たちが主イエスを信じる信仰による救い受けるため、また、偽教師の間違った教えを間違っていると判断できるのに必要なことはすべて、聖霊がみ言葉をとおして教えてくれると言う意味です。聖霊が私たちに救いの真理を教えてくれるのですが、ほとんどの場合はみ言葉をとおして教えるので、当然のこととして、私たちは、いつもみ言葉を読んでいなければなりません。

 27節の終わりのところで、ヨハネは「あなたがたは教えられたとおり御子のうちにとどまりなさい。」と書いています。この言葉を読むとヨハネの福音書15章に書かれている主イエスの言葉を思い出します。15章の4節でイエスはこう言われました。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がブドウの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」私たちは、主イエスを信じてクリスチャンになったときに、神の子どもとなる特権が与えられました。従って、クリスチャンとして生きることは神様の家族の一員として神様とともに生きる生活と言えます。そのことを主イエスは、ブドウの幹とブドウの枝の関係に例えて説明されました。ブドウの枝にとって大切なことは実を結ぶことです。ブドウの枝はどのようにすれば実を結ぶのでしょうか。ブドウの実は枝に実りますが、ブドウの実は枝が作ったものではありません。そのことは、ブドウの枝を切ってしまえば分かります。幹から切り離された枝にはブドウの実はなりません。ブドウの枝が実を実らせるために必要なことはただ一つです。それはブドウの幹につながっていることです。ヨハネが27節で、「あなたがは教えられたとおり、御子にとどまりなさい」と述べているのは、ぶどうの枝がぶどうの幹につながっているように、キリストに堅く結びついていなさいという意味なのです。クリスチャンとして生きることは決して難しいことではありません。実は、すごく簡単なことです。それは、主イエスに結びついているということなのです。主に結びつく、あるいは主イエスにとどまる生き方とは具体的にはどのようなことを意味するのでしょうか。私たちは、元々、霊的には死んだ状態でした。ところが、主イエスを信じる信仰によって、私たちは新しいいのちをいただきました。ですから、私たちが主イエスを信じた出来事を「新生」あたらしく生まれると言うのです。以前は、私たちは主イエス・キリストからは離れていましたので、霊的いのちがありませんでした。しかし、今は、私たちは、キリストという幹につながった枝になりました。すると、枝の中に、幹から送られてくる水分や栄養分が入るようになりました。私たちは、自分で頑張って水分や栄養分を吸い上げる必要はありません。幹に繋がってさえいれば、ブドウの幹が枝の中に水分や栄養分を送ってくれるのです。

 私たちが、主イエスにつながる、あるいは、主イエスにとどまるために必要なことは何でしょうか。ブドウの幹とブドウの枝がつながっているのは自然のことなので、何も特別なことをする必要はありませんが、私たちがキリストにとどまることは、私たちが、意識して続けて行かなければなりません。主イエスを信じれば、自動的に御子イエスにとどまっているというのではありません。意識的に御子イエスにとどまるために必要なことは、第一に、神様を礼拝することです。それは日曜日の午前中のことだけではありません。礼拝するとは、神を神としてあがめるということですから、毎日、神様を敬う気持ちを持って生活することが大切です。また、私たちが御子イエスと会話するために必要なのは聖書の言葉と祈りです。私たちは、み言葉を読まなければなりません。私たちはみ言葉をとおして神様からのメッセージを受け取るのです。み言葉をただ読むだけではなく、み言葉は自分に何を語ろうとしているのかよく考えること、瞑想することが大切です。み言葉について瞑想している時に聖霊が働いて、その時の私たちに対して神様が語ろうとしていることを教えてくれます。み言葉から何らかの気づきが与えられます。また、私たちは、主イエスに祈ることをとおして、キリストに自分の気持ちを伝えることができます。祈りは神との会話です。私たちが誰かと会話する時、お願いごとだけを話すなら、相手はあまりその会話を喜びません。友だちとおしゃべりをする時、お互いに、相手のことをほめたり、感謝したり、自分の気持ちを伝えたりすることで、関係は深まります。神様への祈りも同じです。祈りの基本は神様への願い事ですが、私たちは祈りをとおして、神様の素晴らしさを賛美したり、神様への感謝を表したり、自分の気持ちを表すことも大切なことです。また、主イエスから受けた大きな愛に答えるために、主イエスが喜ぶことを何かしようと気持ちを持つこと、それは教会での奉仕であったり、誰かに対する奉仕であったりするでしょう。そして、キリストにとどまることを妨げるのは、私たちの罪です。私たちは自分の罪に気づいたなら、すぐに神様に悔い改めなければなりません。このような生活をしながら、私たちが、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝することによって、私たちは御子キリストのうちにとどまることができるのです。

 私たちが、このように御子キリストにとどまっているなら、自然に実を結びます。一生懸命実を結ぼうと努力しなくても、キリストにとどまっていれば実を結びます。神様は、私たちが多くの実を結ぶことを期待しておられますが、それはどのような実でしょうか。御霊の実です。ガラテヤ書5章に記されている9つの御霊の実です。つまり、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という実です。これは、霊的な賜物と違って誰もがこのような実を結ぶことができます。言い換えれば、このような実を結んでいることが、私たちが御子キリストにとどまっていることの証拠なのです。ヨハネの15章で、主イエスは言われました。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。」私たちが、意識して主イエスにとどまり続けようとするならば、主イエスご自身が、私の中にとどまってくださると約束しておられます。私たちが、主イエスに思いを向け、主に祈り、主の助けや導きを求めるとき、私たちのうちにとどまっておられる御子イエスが私たちを助け、私たちを守り、御霊の実を結ばせてくださいます。主イエスを第一にする人を、主イエスも大切に扱ってくださるのです。その時、私たちは豊かな実を結ぶ生活を送ることができるのです。

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