2022年7月31日 『キリストは再び来られます』(1ヨハネ2章28-29節) | 説教      

2022年7月31日 『キリストは再び来られます』(1ヨハネ2章28-29節)

  • キリストのうちにとどまりなさい(28a)

 ヨハネは28節でも、繰り返して命じています。「キリストのうちにとどまりなさい。」先週も、このことについて考えましたが、ブドウの枝がブドウの幹に繋がっていないと実を結ぶことができないのと同じように、私たちは、キリストのうちにとどまっていないと、クリスチャンとして実を結ぶ生き方はできません。キリストのうちにとどまるとは、何か特別な霊的体験をすることではありません。キリストにとどまるとは、毎日の生活の中で、私たちが信じた福音の教えを信じ続けることであり、キリストを救い主として信じ続けることです。そのためには、私たちは、毎日、聖書の言葉と教えを喜び、その教えに従うこと、聖霊の導きに従うこと、そして私たちが信じたときに受け取った福音の真理を信じ続けることが必要です。私たちが罪が赦されて救われるために、自分ができることは何一つありませんでした。すべてのおぜん立ては神様がしてくださいました。ひとり子のイエスを十字架にかけ、そして死からよみがえらせてくださったことによって、私たちが罪から救われる道が開かれました。このように、救いのために必要なことはすべて神様が行ってくださったのですが、私たちがするべきことが一つだけありました。それは、その救いを信じて受け取ること、すなわち信仰が必要でした。それと同じことが救われた後の私たちの生き方にも当てはまります。主イエスはヨハネの福音書10章28節で、主イエスを信じる者について次のように言われました。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」主イエスを信じた者は、主イエスによってしっかり握られているので、滅びることがないとはっきり約束されています。確かに、私たち 

をキリストから引き離すものは何一つありません。主イエスが私たちを守ってくださるからです。これはすべて主イエスが行ってくださることです。しかし、ここにも私たちが行うべきことがあります。それが、キリストにとどまり続けることなのです。私たちがキリストにとどまっている限り、私たちは永遠に安全です。しかし、もし、私たちが、イエスにどまることをせず、信じる前に行っていた罪を、クリスチャンになった後も習慣的に行っていたなら、その人は、イエスにはとどまっているとは言えません。イエスにとどまらない人は、その人が本当にイエスを信じていなかったことを意味します。この手紙が書き送られた教会に入り込んでいた偽教師たちも、実際には主イエスを救い主と信じていなかったので、彼らはその教会から出て行ってしまいました。そのことで、彼らには、もともと、主イエスへの信仰がなかったことが明らかになりました。

  • キリストにある確信

 28節の後半で、ヨハネは、キリストにとどまることの意義について語っています。なぜ、キリストにとどまることが大切なのか、それが私たちにどのような良いものをもたらすのかということです。ヨハネは「そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。」と述べています。このヨハネの言葉が教えているのは、主イエス・キリストの再臨のことです。再臨とは、主イエス・キリストが再び地上に来られることを意味します。英語ではセカンド・カミングと言います。主イエスは、十字架で死なれた三日後に復活され、弟子たちの前に姿を表されました。そして、40日後に天に戻られたのですが、その時に、み使いが弟子たちにイエスがもう一度この世に来られることを告げました。そして、聖書には数多く、主イエスの再臨に関する言葉が記されています。新約聖書には300以上の箇所に主イエスの再臨のことが語られています。2章28節では、2つの言葉がイエスの再臨を表しています。「キリストが現れるとき」と「来臨のとき」です。「現れる」という言葉は、特に、主イエスが2度目に来られる時には、人々の目にはっきりと見えるかたちで来られることを強調しています。ヨハネの黙示録の1章7節には「見よ。その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。」と書かれています。興味深いことに、この「現れ」という言葉は、父なる神にも、聖霊にも使われることなく、御子イエスにだけ使われています。主イエスが今から2000年前に、一度目に来られた時、誰にも知られないで密かにベツレヘムの馬小屋でお生まれになりました。主イエスは、私たち人間の罪をすべて背負って、私たちの代わりにその罰を受けるため、十字架で死ぬために来られたので、神でありながら、どこまでも低くなってこの世に来られました。しかし、2度目に来られる時は、この世を支配する者、この世をさばく者として来られるので、栄光と権威を持って、すべての人が目で見えるかたちで来られることが預言されています。もう一つの言葉「来臨」ですが、これは文字通り「来る」という意味の言葉ですが、聖書以外で使われている場合、王様や支配者、権力者たちが来られるときに用いられる言葉で、栄光と権威に満ちた方が来られるので、うやうやしくお迎えしなければならないという気持ちが込められています。主イエスご自身も、十字架にかかる直前に、ご自分が再びこの世に来られることについて預言しておられます。マタイの福音書25章31節でこう言われました。「人の子は、その栄光を帯びてすべてのみ使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。」主イエスの再臨は、イエスを信じる者にとっては、栄光の時なのです。

 28節には、主の再臨の時に関して、私たちが経験する2つのことが記されています。その二つの言葉は相反するものですが、「確信を持つ」ということと「御前で恥じる」ということです。神様が、キリストの再臨に関して私たちに願っておられることは、私たちが主の再臨に確信を持つことです。そして、私たちが、いつ主が再臨されても、ちゃんと準備ができていることを神様は望んでおられます。クリスチャンにとって、主の再臨は、希望の時です。主イエスの再臨は二つのことを意味します。一つは、人間の歴史、私たちが生きているこの世界の歴史には終わりがあることです。当時の多くの人々は、歴史には一定の周期があって、ひとつの周期の終わりには世界は大災害によって滅ぼされ、再び同じことがまったく同じように繰り返されると信じていました。しかし、聖書は、この世界に始まりがあったように終わりがあると教えています。もう一つは、主イエスは、一度目に来られた時は、私たちの身代わりとして十字架にかかるために来られました。旧約聖書は、一度目に来られたイエスを苦難のしもべと呼んでいます。しかし、2度目に来られる時は、全世界を支配するお方として来られるのです。したがって、主イエスの再臨は、クリスチャンにとって勝利の時なのです。この手紙が書かれた1世紀後半は、ローマ帝国によるクリスチャンへの迫害がどんどんと厳しくなって行った時代です。そのような苦難の時代に生きていたクリスチャンにとって、主イエスの再臨は大きな希望だったのです。だからこそ、ヨハネは、この手紙を読むクリスチャンたちが主イエスの再臨に対して、堅い確信を持つように願っているのです。しかし、もう一方の姿勢として、「御前で恥じる」ことをヨハネは取り上げています。この手紙はクリスチャンに宛てて書かれたものですから、クリスチャンにとって希望である主イエスの再臨の時に、「御前で恥じることのないように」とヨハネが言ったのはどういう意味なのでしょうか。それは、主イエスの再臨の時に、クリスチャンがイエスを迎える準備ができていない状態を意味しています。自分の家がすごく散らかっている時に、突然、お客さんが来た時、私たちは慌てます。すぐに家の中に入ってもらうことができません。そんな時、私たちは恥ずかしい思いをします。主イエスは、再びこの世に来られるのですが、いつ来られるのか、誰も知りません。すべては神様のご計画の中にあります。主が来られた時に、私たちは、どんなことを行い、どんなことを話し、どんなことを考えているでしょうか。その姿を見て、主イエスはどのように思われるでしょうか。ヨハネは、その時に、私たちが、主の前で恥じることのないように注意していなさいと警告しているのです。そして、ヨハネは、主イエスが再び来られる時に、私たちが主の前で恥じることのない最も確かな方法は、キリストのうちにとどまることであると教えています。キリストのうちにとどまるとは、主の教えに従い、主が喜ぶような生き方をすることです。その生き方を続けていれば、私たちは、正しい生き方をする者であり、主イエスの前に何も恥じることはありません。よく、ドアのベルが一番なってほしくない時になります。トイレに入っている時やお風呂に入っている時などにベルがなると、焦ってしまいます。すぐに出られないので、人をドアの外で待たせることになります。主が再び来られる時、そのベルはいつ鳴るか分かりません。王の王、主の主であるイエスを外で待たせることのないように、私たちは、主イエスがいつ来られても、すぐに主を迎え入れる準備を整えておかなければなりません。

  • 正しい生き方こそ、新しく生まれた証拠(29節)

 29節で、ヨハネは、なぜ私たちは、正しい生き方をしなければならないのか、その理由を述べています。私たちは、正しい生き方をしたから罪が赦されて救われたのではありません。私たちが罪の裁きから救われたのは、100%主イエスの十字架と復活のおかげです。私たちは、ただ、その救いを信仰によって受け取っただけです。しかし、私たちは、救われて、神の家族の一員になりました。これは例えで言えば、私たちは、もともと道端で生活していた不良少年のようなものでしたが、主イエスのおかげで、突然、神様の家族、ロイヤルファミリーの一員になったのです。すると、これからは、私たちは、神のこどもに相応しい生き方をすることが求められます。それまで、きたない格好で、ガムをかみながら道端に座り込んでいた者が、神の家で他の家族と一緒に生活するようになった時、私たちは、以前のような生き方をするべきではありませんし、また、そのような生き方をする必要もありません。私たちは神の子どもとして生きて行くからです。すると、私たちは、これまでの生活の中で、神の家族として生きるのには相応しくない、習慣や態度、言葉遣いがあれば、それを神の家族に相応しいものに変えなければなりません。子どもは、親の行いをまねて成長していきますが、私たちは、神様の姿を見て神の子としての生活を始める必要があります。エペソ人への手紙2章10節には次のような言葉があります。「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」私たちは、まず、自分がどのような者か知る必要があります。私たちは、進化論が教えるように、偶然の結果この世に生まれて来た生きる目的のない人間ではありません。神様がすばらしい目的をもって丹精込めて造ってくださった素晴らしい作品なのです。そして、その作品が造られた目的は、良い行いをすることなのです。私たちは、100%神様の愛と恵みによって罪から救われて永遠のいのちが与えられました。私たちが、ただ主イエスを救い主と信じた信仰によって、永遠の滅びから永遠のいのちへと私たちの運命が変わりました。私たちは、神様に対する感謝の心から、神様が元々私たちのために持っておられた期待、「良い行いをすること」に答えようとすることはごく当然のことだと思います。良い行いとは、愛と親切な心をもって他の人々を助けることです。私たちは、ただ、自分が永遠のいのちをもらうためだけに救われたのではありません。神の子どもとして、良い行いをし教会の建て上げる一員として生きるために救われたのです。そして、父なる神様は、私たちのために、模範として主イエスを備えてくださいました。だから、私たちは、いつも何かの行動を取る時に、「こんな時、主イエスだったどうするだろう?」「主イエスだったらどう言うだろうか」と考え、真似をすることによって、良い行いを実行することができます。

 私たちクリスチャンは、神様が正しい方であることを知っています。もし、私たちの生活態度が神の家族の一員であることを示すものであるとしたら、正しい生き方をする人は神の子どもであることを示すものになります。私たちは、正しい生き方をしたから救われたのではありませんが、正しい生き方をすることは、私たちが神の子どもであることの確かな証拠になります。信仰によって新しく神の子どもとして生まれた者は、神の子どもにふさわしい生き方をするはずだからです。

 主イエスの再臨はクリスチャンにとって希望の時です。第1テサロニケ4章16-17節にその時の様子が描かれています。「号令とみ使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから生き残っている私たちが彼らと一緒に雲につつまれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちはいつまでも、主と共にいることになるのです。」主イエスの再臨のとき、主は世界中の人々にはっきりと分かるような姿でこの世に来られます。そして、その時、まず信仰を持って死んだ人々の魂が、キリストの復活の体と同じ栄光の体が与えられて復活します。そして、その後で、その時に、生きている世界中のクリスチャンは、一瞬にして引き上げられ、私たちの朽ちて行く体は栄光の体に変えられます。空中で、何世紀にもわたって生きて来た信仰の先輩方と、その時に生きていた世界中のクリスチャン、この2つのグループが主イエスと出会い、新しい教会が生まれるのです。そして、私たちは、永遠に主と共に生きる者になります。これがクリスチャンに与えられた希望です。私たちは、この世にあっては苦難があります。決して簡単な人生ではありません。しかし、私たちが地上でどのような生活をすることになっても、最終的には、栄光に輝く世界へと導かれるのです。21世紀がどんな方向に向かって行くのか分かりません。しかし、私たちが永遠の栄光に向かっていることは確かです。この希望をしっかり握って、いつ主イエスが来られても良いように、よく準備ができたクリスチャンとして歩んで行きましょう。

2022年7月
« 6月   8月 »
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31  

CATEGORIES

  • 礼拝説教