2022年8月14日「慰めの人バルナバ」(使徒4章32-25節ほか) | 説教      

2022年8月14日「慰めの人バルナバ」(使徒4章32-25節ほか)

 今日は、新約聖書で、イエスの復活と昇天の後、キリスト教がローマ帝国の中で急速に広がっていく時代に、大きな働きをしたバルナバという人物に焦点を当てて、彼の生き方から学びたいと思います。彼が聖書の最初に登場するのは使徒の働きの4章の終わりのところです。そのころ、キリスト教会はまだ生まれたばかりでしたが、信者たちは聖霊に満たされ新しい力を得て、イエスを信じる人々が次々に起こされていました。彼らは心を一つにして祈っていましたが、31節を見ると、彼らが祈っていると、集まっていた場所が揺れ動くほど神の力が働き、彼らは聖れに満たされて、神の言葉を大胆に語っていました。そして32節には、彼らは心と思いを一つにして生活していたと書かれています。それは、彼らが主イエスを信じる信仰において一つであったことを意味するのですが、彼らの信仰は毎日の生活の中にも現れていました。彼らは、誰もが、自分の持ち物を自分だけのものと考えずに、すべてのものを共有していました。誰も、人から言われて行動するのではなく、自発的にお互いの必要を補い合っていました。私の友人のポール・サンデーという人はアメリカのべサニー神学校で学びました。私は、ある時、その神学校を訪れたことがありますが、その神学校の学生寮に洗濯をする部屋があるのですが、そこに、たくさんの衣服や靴が置いてありました。それは学生が不要になったものをそこに置いていて、そこにあるものはどれでも、ほしいと思う人が自由に持って行ってよいことになっていました。そのようにして、学生たちは持ち物を共有していました。2000年前の初代教会でも、同じようなことが行われていました。33節によれば、神様は彼らのそのような生き方を喜ばれたようで、彼のうえに大きな恵みが注がれていました。その結果、彼らの中に、貧しい人は一人もいませんでした。そのような場面に、バルナバが登場します。36節では彼は次のように紹介されています。「キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフ」と書かれています。彼の本名はヨセフという一般的なユダヤ人男性の名前なのですが、彼の本名が書かれているのはここだけで、他のすべての箇所で、彼はバルナバと呼ばれています。実は、ヘブル語には形容詞がありません。形容詞とは、「美しい」とか「優しい」とか、人々の性格や人や物の状態を表す時に使いますが、ヘブル語には形容詞がないので、ヘブル語では、例えば、「優しい人」と言う場合には、「優しさの子」という表現で表していました。ですから、このヨセフがバルナバ、すなわち「慰めの子」と呼ばれたのは、彼が、周りの人々の心をいつも慰める、そのような性質を持っていた人であったことが分かります。また、彼はレビ人だと言われています。レビ人とは、歴史をさかのぼれば、ヤコブの子どもの一人で、イスラエル民族の12部族の一つです。ユダヤ人たちがヨシュアの時代に約束の国であるカナンの地に入った時に、各部族に土地が与えられたのですが、レビ族の人々は、土地をもたず、その代わりに神殿で奉仕をすることを任されました。レビ人の多くが律法学者であり、祭司でもありました。バルナバ自身、レビ人でしたので、きちんと聖書を学ぶ教育を受けた人であり、ユダヤ教に関係する仕事をしていたと思われますので、ユダヤの社会でも地位の高い人であったでしょう。そんな彼も、イエスを信じる信仰を持ちました。使徒の働き6章7節には「こうして神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。また、祭司たちが大勢、次々と信仰に入った。」と書かれていますので、多くの祭司やレビ人は主イエスに反対ましたが、イエスを信じる者も多くいたことが分かります。バルナバもそんな一人でした。彼が、自分が所有していた畑を売って、その代金を持ってきて、弟子たちの足もとに置きました。教育を受けた洗練されたレビ人のバルナバが、ガリラヤ出身で以前は漁師だった者が多いイエスの弟子たちの所にやって来て、このような献金をするということは、決して普通の出来事ではありません。当時、家や畑を売って献金しなさいという命令は誰からも出ていないので、おそらく、バルナバは自分が持っている畑を売って献金した最初の人間であったと思います。

 彼は、初代教会が広まって行くために、大きな働きをした人物ですが、それは、ただ彼が財産を売ってたくさんの献金をしたためだけではありません。彼は、自分の行動をとおして、まだ力の弱かったキリスト教会を強くし、広めるために様々なことを行っています。その中で最も重要なのが、使徒パウロに対する働きです。使徒パウロはクリスチャンになる前は、熱狂的なユダヤ教徒で、クリスチャンを滅ぼすことに非常に熱心でした。ところが、神様のご計画で、パウロは特別なかたちで復活のイエスと出会い、突然にクリスチャンになりました。彼はクリスチャンになるとすぐに、ユダヤ教の会堂でイエスが約束の救い主であることを宣べ伝え始めました。そのため、彼はユダヤ教徒たちからは裏切り者として見なされ、ついには彼らから命を狙われるようになりました。9章23節を読みましょう。「多くの日数がたって後、ユダヤ人たちはサウルを殺す相談をした。」と書かれています。多くの日数がたって後とは、彼が回心後にダマスコ近くのアラビアと呼ばれた荒野にこもっていたことがガラテヤ書に記されているので、パウロの回心から3年がたったころの出来事です。サウロというのはパウロのヘブル語の名前です。この時、ユダヤ教徒たちはダマスコにいたパウロを殺そうとしたのですが、その陰謀がパウロに知られてしまいました。当時の街は、周囲を城壁に囲まれていて、街の中にいる人は城壁の門を通らないと外に出ることができませんでした。それで、ユダヤ教徒たちはすべての門に見張りを置いて、パウロが町の外に出られないようにしていました。仕方なく、ダマスコにいた仲間のクリスチャンたちが夜中に、彼をかごに乗せて城壁づたいにつり下ろして彼を密かに町の外に逃がしました。彼は、ダマスコからエルサレムに戻って、弟子たちに会って、自分がクリスチャンになったを伝えようとしました。9章の26節にはこう書かれています。「サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みなは彼を弟子たちとは信じないで、恐れていた。」パウロの回心からすでに3年も経っていたにも関わらず、エルサレムのクリスチャンたちはパウロに会おうとしませんでした。彼らの態度は非常に冷たいように見えますが、これも仕方のないことでした。パウロは回心する前はクリスチャンを殺すことに熱心だったからです。彼らの中には、パウロがクリスチャンに改宗したふりをして、もっと多くのクリスチャンを殺そうとするのではないかと疑っていたかもしれません。この時、パウロはどのような気持でいたでしょうか。彼にとって、エルサレムにいることは非常に危険なことでした。エルサレムはユダヤ教の中心地ですから、もし以前の仲間に見つかると彼は殺されるかも知れません。しかも、クリスチャンたちも彼を守ろうとはしないので、パウロは本当に強い不安を感じていたことと思います。

 そのような状況の中でバルナバはどうしたでしょうか。9章27節を読みましょう。「ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また、彼がダマスコでイエスの御名を大胆に述べた様子などを彼らに説明した。」この時、エルサレムの教会には、12弟子の一人ペテロがいましたし、当時のエルサレム教会のリーダーはイエスの兄弟のヤコブでした。しかし、二人ともパウロに会いに行くことはありませんでした。そんな時にパウロに会いに行ったのがバルナバでした。彼も、心のどこかにこれは罠ではないだろうかという思いがあったかも知れませんが、彼は勇気を持って彼に会いに行き、パウロの話を十分に聞いて、彼の回心が本物であることを確信しました。それで、彼はパウロをエルサレム教会のリーダーたちに引き合わせたのです。バルナバがパウロの回心が本物だと保証すると、その後、パウロはエルサレム教会に自由に出入りすることができるようになり、教会の人々に受け入れられました。それは、バルナバがエルサレムの教会で人々から非常に大きな信頼を得ていたからです。バルナバは、他の人が信じられない時にも、パウロを信じて教会の人々に紹介しました。バルナバがいなかったら、パウロは、異邦人に福音を伝える宣教師としての活動ができなかったかも知れません。その意味で、バルナバは、パウロやペテロのような目立った働きはしていませんが、キリスト教会が誕生して、拡大していく最も大事な時期にとても大きな働きをした人物と言えます。今日の教会でも、新しくクリスチャンになった人は、バルナバのように寄り添って、いろいろなことを教え、励まし、時には戒める人が必要ではないでしょうか。パウロはエルサレム教会の交わりに加えられましたが、エルサレムにはパウロの敵も多く、彼を殺そうと狙っている者もいたので、パウロはいったん、自分の故郷であるタルソという町に帰ります。これによって、エルサレムでのパウロ暗殺の動きも収まって行きました。このようにして、パウロはしばらく教会の拡大の働きには直接かかわらず、み言葉の学びと祈りに専念して将来の働きのための準備をしていたと思います。

 やがて、イエスの弟子たちの力強い働きの結果、教会が徐々にユダヤからさらに遠くにまで広がって行きます。エルサレムでクリスチャンに対する激しい迫害が起こったため、クリスチャンたちはエルサレムにとどまることができずに、地方へと逃げて行きますが、彼らはただ逃げるだけでなく、出かけて行った場所場所で、イエスの福音を伝えたために、クリスチャンの数がどんどんと増え、教会もユダヤ以外の地域にまで広がりました。ただ、最初のクリスチャンは皆ユダヤ人で、ユダヤ教からクリスチャンになった人々だったので、彼らはユダヤ人にだけ伝道していました。ところが、アンテオケという国際都市に行ったユダヤ人クリスチャンたちは、その町に多くの外国人が住んでいたので、ユダヤ人以外の人々にもイエスのことを語り始めました。その結果、外国人の中からもイエスを救い主と信じる人々が起こされました。ユダヤ人以外の人々がイエスを信じたことは、私たちにとっては自然で当たり前のことなのですが、当時のユダヤ人クリスチャンにとっては、びっくりする出来事でした。アンテオケという外国人の住む町にもイエスを信じる人々が起こされているというニュ―スがエルサレム教会に届いた時に、エルサレム教会はびっくりしました。当時のユダヤ人クリスチャンたちの多くが、イエスを信じる信仰もユダヤ人に限られると考えていたからです。それでエルサレム教会は、アンテオケの異邦人クリスチャンの信仰が本物なのかを確かめるために人を送ることになったのですが、この時もエルサレム教会がアンテオケに送ったのはバルナバでした。彼は、外国人に対する偏見もなく、アンテオケ教会に対する妬みもなく、純粋な心でアンテオケの教会に行きました。彼は、神様がアンテオケの街でもたくさんの素晴らしい働きをしておられることを知って喜びました。そして、異邦人クリスチャンに対して、信仰から離れることがないようにと、彼らを励ましたのです。まさに、彼の名前のとおり、彼は人々を励まし、人々を慰めるという大切な働きを担っていました。そしてバルナバは、アンテオケでが外国人が数多く信仰に入るのを見て、外国人にイエスのことを伝える働きはどうしてもしなければならないと考えました。その時に、バルナバが考えたことは、特別な神の働きによってクリスチャンになったパウロにこの宣教の働きをさせることでした。彼は、パウロがクリスチャンになった時から彼を信頼し、彼を守り支えていました。アンテオケの教会では、次々に人々が救われていたので、バルナバは助けが必要だと感じました。そこで、バルナバはパウロを福音宣教の働きに加えるために、わざわざパウロがいたタルソまで行って、彼を説得して彼と一緒にアンテオケに戻って来ました。彼は、いつも、何か神様のための働きをする時、彼は、いつも、自分の名声を求めるのではなく、神様にすべての栄光が現れることを願って行動していました。

 この後、パウロとバルナバはアンテオケ教会から送り出されて、宣教の旅に出かけます。最初のころはバルナバとサウロと言われていますが、やがて働きが進んで行くと、パウロとバルナバと呼び方が変わります。このことから、二人のうちでより大きな宣教の働きをしていたのがしだいにパウロになって行ったことが分かります。このように、バルナバはいつも、表舞台に立つよりも、影での働きに集中していたと思います。彼は自分よりもパウロがより大きな働きをしているのを見ても、彼に対して妬みを抱いたり、憎んだりすることはまったくありませんでした。彼はパウロの賜物と能力を見抜いていたので、パウロを表に立てて、自分自身は背後でパウロの働きを支えていました。パウロの働きは人々に大胆に福音を宣べ伝えて、人々に信仰の決断を迫りました。そして多くの人がイエスを信じました。パウロの働きは目立つ働きでした。一方、バルナバは、パウロの働きによってイエスを信じた新しいクリスチャンを導き、励まし、いろいろな助けを与える働きをしていたと思います。目立たない働きです。しかし、バルナバがいなければパウロの宣教活動は前進しなかったでしょう。

 さらに、パウロは2回目の伝道旅行に出かけなければならないと感じました。パウロの重荷は福音宣教でした。さらに多くの人にイエスによる救いを伝えなければという思いに駆られていました。一方、バルナバの心は第一回の伝道旅行の途中で脱落してしまったヨハネ・マルコをどうやって立ち直らせるかということに向けられていました。二人の重荷が異なっていました。それで、二人は別々の働きをするようになります。二人の間に意見の対立はありましたが、彼らはお互いの働きを尊重していました。パウロはコロサイ書4章10節で「私とともに囚人となっているアリスタルコと、バルナバのいとこであるマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もし彼があなたがたのところに行ったら迎え入れるように、という指示をあなたがたはすでに受けています。」この箇所から、バルナバの働きによってマルコはパウロにとっても役に立つ働き人になっていることが分かります。そしてパウロもバルナバの働きを尊重しています。もし、この時に、バルナバがマルコを養い育てる働きをしていなかったら、私たちはマルコの福音書を持つことができなかったかも知れません。慰めの人、励ましの人となる働きは、目立たないものかも知れませんが、非常に大切な働きです。バルナバの働きは今日の教会にも必要です。教会の兄弟姉妹がお互いに助け合い励まし合わなければ、今の時代、私たちが信仰に堅く立つことは難しいです。一人一人がバルナバのような生き方をする時に、教会は祝福され、群れ全体に大きな力になるのではないでしょうか。最後にへブル書の10章23-25節を読みましょう。

2022年8月
« 7月   9月 »
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  

CATEGORIES

  • 礼拝説教