2022年8月28日 『祈りの人ハンナ』(1サムエル2:1-10) | 説教      

2022年8月28日 『祈りの人ハンナ』(1サムエル2:1-10)

今日は、旧約聖書のサムエル記第一に登場するハンナという女性を取り上げます。彼女はサムエルという預言者の母ですが、サムエルはイスラエルの最初2人の王、サウルとダビデに王として任命をするために油を注いだ人間です。今日は、ハンナという一人の女性の信仰を学びたいと思います。

  • ハンナの苦しみ

 第1サムエルの1章によると、ハンナはエルカナの妻でしたが、エルカナにはもう一人ペニンナという妻がいました。旧約聖書は、一人の男が二人以上の妻を持つことを認めてはいないのですが、実際にはこのエルカナのように二人以上の妻を持つことがありました。1章2節で、エルカナの妻の名前が最初にハンナで、次にペニンナとなっているので、恐らくハンナが最初の妻でペニンナが2番目の妻です。そして、ペニンナには子どもがいましたが、ハンナには子どもがいないと記されています。当時のイスラエルでは、不妊の女性は非常に低く見られていました。女性には男の子を産むことが求められたのです。それは、単に家系を存続させるためということだけではなく、イスラエルの民は神様から土地を与えられていたので、それぞれの家族はその土地を代々受け継いでいかなければなりませんでした。さらに、息子がいないと、もし父親が早く死んだ場合、母親を養う人がいないために、家族は生きて行くことが困難になることも、女性が男の子を産むことを求められる理由でした。おそらく、ハンナが子どもを産まなかったために、エルカナは、跡継ぎを持つために、ペニンナを2番目の妻として迎えたのだと思います。エルカナにもう少し信仰と忍耐があれば、ペニンナを迎えることはなかったでしょう。エルカナとハンナは子どもが与えるために祈ったはずですが、彼らが期待してしたタイミングでは子供が与えられませんでした。そのために、エルカナは人間的な方法で問題を解決しようとしました。そして、ペニンナには子どもが与えられました。エルカナにとっては、跡継ぎが与えられたので、問題が解決しましたが、このことはハンナをどれほど苦しめたことでしょうか。

 ただ、エルカナは決して悪い夫ではありません。ペニンナを2番目の妻に迎えましたが、ハンナを愛していましたし、彼なりにハンナに気を使っていました。エルカナは毎年、神様を礼拝し、いけにえを捧げるために、家族そろってシロという町に出かけていました。この頃、モーセが神様の命令を受けて造った会見の幕屋はシロにあったからです。シロはエルサレムから30キロ北にある町でした。いけにえを捧げた後に食事をするのですが、その時、エルカナはハンナにだけ、2倍のものを与えてたと1章5節に記されています。新改訳では「特別の受ける分」と訳されていますが、多くの訳では「2倍」と訳されています。しかし、このことは2番目の妻を苛立たせました。この辺の人間関係は難しいですね。ペニンナは、ハンナに子どもがないので、彼女をバカにしていました。彼女は、言葉や態度で、ハンナを苦しめました。エルカナが家族そろっていけにえを捧げに行くたびに、ペニンナがハンナを苦しめたので、その年、ハンナは悲しみのあまり泣き続け食事をすることもできませんでした。

 8節で、ハンナを心配したエルカナが彼女に言葉をかけていますが、この言葉が一層ハンナを悲しませたと思います。エルカナは4つのことを彼女に尋ねています。1)なぜ泣いているのか。2)どうして食べないのか。3)あなたの心は苦しんでいるのか。4)あなたにとって私は10人の息子以上の者ではないのか。この言葉を見ると、エルカナは悪い人ではないのですが、ハンナの気持ちが全然わかっていないことが明らかです。ハンナは苦しんでいるから泣いているのですし、ごはんも食べられないのです。ここは、私の想像なのですが、ペニンナという女性は性格が悪くて、エルカナの前ではハンナに優しくしておいて、エルカナのいないところで、ハンナをひどくいじめていたのではないでしょうか。だから、エルカナにはハンナの苦しみが分からなかったかも知れません。彼がハンナに「私は10人の息子以上の者ではないか。」と言った言葉の意味は何でしょうか。ここはちょっと説明がいるのですが、アブラハムの子イサクの子のヤコブに関係することなのです。ヤコブから12人の男の子が生まれて、それがイスラエルの民の12部族になるのですが、実はヤコブにもレアとラケルという二人の妻がいました。ただ、ヤコブはラケルを愛していました。ところがラケルにも子どもが生まれず、レアには子どもが生まれました。その他、二人にはそれぞれ女奴隷がいて、その女奴隷にも子どもが生まれて全部で10人の男の子が生まれたのですが、ヤコブが愛したラケルには生まれなかったのですが、その後、彼女にヨセフとベニヤミンが生まれます。エルカナが言いたかったことは、10人の息子が生まれたヤコブはそれでもラケルを愛したように、私もハンナ、お前を愛しているよ。」と言うことだった思います。

  • ハンナの願い

 シロでいけにえを捧げたのちの食事の後、ハンナは立ち上がって、お祈りに行きました。ここにハンナの信仰が現れています。彼女は、エルカナに文句を言うこともできたでしょうし、ペニンナに復讐することもできたでしょう。また、神様を呪うこともできたでしょう。しかし、ハンナは神様に祈りに行きました。11節で、ハンナは「万軍の主よ」と神様に呼び掛けていますが、万軍の主という呼び方はサムエル記の1章3節で初めて現れます。そして、ハンナは神様をそのように呼んだ最初の人間です。万軍の主とは、神様がこの宇宙を創造し、支配しておられるという意味です。彼女は、この神様は自分に新しいいのちを与えることができると信じていたことを示しています。同時に、彼女は自分のことを繰り返して「はしため」と呼んでいます。「はしため」とは、主に仕える者であり、彼女は神様の前に心からへりくだっていることが分かります。彼女は、全能の神を信頼して、必死に祈っていました。その様子をエリという祭司が見ていたのですが、この祭司はひどい人ですね。熱心に祈っているハンナを見て彼女が酒に酔っていると思ったのです。しかも、それをハンナに言うのです。ハンナは「酔っているのではありません。主の前に心を注ぎだしていたのです。」と答えました。普通の人であれば、祭司に腹を立てて食ってかかっていたかもしれません。しかし、エリが真相を知って彼女に「イスラエルの神が、あなたの願いをかなえてくださるように。」と言うと、彼女は、エリに礼儀を尽くして、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように。」と答えています。ハンナは祭司のエリからもひどいことを言われたのですが、祈ったことによって、彼女は変わりました。ご飯も食べられないほどに、彼女は悲しみと落胆の中にいたのですが、彼女の顔は、この時、輝いていました。それは、第一に、彼女が自分の悩みや苦しみを祈りの中で全部神様に打ち明けたことによるものであり、第二に、祭司のエリから励ましの言葉をいただいたことによるものであり、第三に、彼女は、自分の問題を全能の神様の手に委ねることを決めたからです。私たちもいろいろな問題や苦しみを経験することがありますが、その問題につぶされないためには、ハンナのように、まず、神様に問題も自分の気持ちもすべて打ち明けることであり、そして、それらをすべて神様に委ねて、神様の解決を待ち望むことが大切です。彼女の問題、すなわち子どもがいないという問題はまだ解決していません。しかし、すでにハンナは信仰によってその約束を受け取っていたので、彼女の顔つきは変わっていました。

 その後、20節を見ると、年が明けて、めでたくハンナはみごもり、男の子を産みました。彼女はその息子にサムエルという名前をつけました。子どもがいないことがハンナにとって非常に大きな悩みでしたので、彼女は必死で子どもを願いました。そうなると、自分の祈りが答えられ実際に子どもが与えられると、母親はその子供をひとり占めしたい気持ちに なることが多いのではないでしょうか。しかし、ハンナは違いました。サムエルが乳離れすると、彼女は自分が神様に誓ったことを実行しました。彼女はたくさんの捧げものとサムエルを連れて、白の主の得に連れて行き、祭司のエリに会いました。恐らく、この時、サムエルは3歳でした。27節で、ハンナは祭司エリに言いました。「この子のことを、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。それで、私もまた、この子を主におゆだねいたします。この子は一生涯、主に委ねられたものです。」ハンナは、自分の息子サムエルが一生涯神様に仕える者となるように、神様にささげたのです。しかし、彼女は、愛する息子サムエルのことを忘れた訳ではありません。2章の19節を見ると、ハンナは、サムエルのために小さな上着を作り、毎年、夫と共に年ごとのいけにえをささげに行くときに、それを持っていった。と書かれています。ハンナは愛情を一杯込めてサムエルのために上着を作り、そして、サムエルと会うことを一番の楽しみにしていたことでしょう。

  • ハンナの祈り

 2章の1節から10節にハンナの2回目の祈りが記されています。2回目の祈りは最初の祈りと大きく異なっています。最初の祈りは切なる願いの祈りでしたが、2回目は感謝と賛美の祈りです。ハンナの2回目の祈りで、彼女は、神様の全能の力を信頼していることを告白し、神様が自分のために働いてくださったすべてのことに感謝を捧げています。彼女の祈りは私たちにとっての模範です。私たちは、神様の全能の力を信じ、神様の権威の前にへりくだることを、私たちも学ばなければなりません。神様を賛美することは、言い換えると、自分の人生のすべての領域において神様が決定権を持っておられることを認めて、感謝することです。私たちは他人を信頼することは簡単ではありません。その人の本当の姿、本心が分からないからです。しかし、私たちは、どんな時でも神様を信頼することができます。ハンナも神様を全面的に信頼した時から、生き方が変わりました。

 2節で、ハンナは、「私たちの神のような岩はありません。」と賛美しました。岩とは決して変わることのないもの、強いもののシンボルです。私たちの時代、自分の回りの友だちも、自分の状況も、どんどんと変わって行きます。私たちは自分の人生をどんな土台の上に築くかによって生き方がまったく変わります。自分の人生を、自分が仕事で達成したことや自分が財産として持っているものなどを土台にしていると、それらのものはいつまでも残るものでもなく、いつかは消えて行くものです。しかし、神様は決して変わることのないお方であり、神様はいつも私たちとともにおら れます。神様に信頼する者、神様に希望を置く者が、一番安全な道を生きているのです。

 3節の祈りを祈るとき、ハンナはペニンナのことを考えていたのではないでしょうか。彼女はペニンナの傲慢な言葉や態度でひどく傷ついていました。ハンナはペニンナに復讐しようと思っている訳ではありません。ただ、彼女は、神様が彼女の言葉や態度のすべてを知っておられて、神様が彼女に正しい裁きをなさることを確信していました。ハンナは自分の思いでペニンナを裁くのではなく、正しい裁きをする神様に委ねました。悪に対して悪で応えるのではなく、ハンナは善をもって悪に打ち勝ったのです。

 最後に、9節10節で、ハンナは預言的な希望の祈りをささげています。9節で、ハンナは祈りました。「主は敬虔な者たちの足を守られます。」当時、大部分の人は、歩きにくい岩がゴロゴロした道を歩いて旅行していました。目的に到着するまで、旅人の足は守られていなければなりません。

ハンナは祈りの中で、「主は敬虔な者たちの足を守る」と宣言しています。人間の歴史を見ると、いつの時代も、世の中は悪が支配しています。だれも、自分の力で悪の力に勝利することはできません。しかし、ハンナは預言しています。今、本当に多くの人間の悪がはびこる中、多くの人は、これからどうなるのかと不安を感じたり、希望がなくて絶望したりしています。しかし、ハンナは不安も絶望も感じていませんでした。彼女には、神様が一切の権威をもってこの世を支配しておられるとの確信が与えられましたので、彼女は将来に対する不安を感じていませんでした。私たちの時代も、ハンナの時代以上に悪がはびこり、分断がはびこり、恐れを感じる時代です。しかし、聖書は、そんな時代であっても神様は確実に働いておられると教えています。そして、神様がお決めになったタイミングで、主イエスがもう一度この世に、勝利者の主として来られて、この世を支配されます。私たちは、何よりも、ハンナが神様を信頼したように、神様を絶対的に信頼することが必要です。神様は、必ず、地の果ての果てまでさばかれる時が来ます。

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