2022年9月11日『神の子どもとして生きる』 (第1ヨハネ3章1-10節) | 説教      

2022年9月11日『神の子どもとして生きる』 (第1ヨハネ3章1-10節)

 今日の説教題は「神の子どもとして生きる」です。ヨハネの福音書1章12節は、イエス・キリストを、私たちを罪の裁きと力から救い出す救い主と信じる者に、神様は神の子どもとなる特権を与えてくださると教えています。したがって、私たちが主イエスを救い主と信じた時、私たちのすべての罪が赦されただけではなく、私たちは、霊的には、神様のこどもとして、神様の家族に加えていただいたのです。私たちは、誰の子どもとして生まれるか、どんな家の子どもとして生まれるかによって、一生の運命が大きく違ってきます。ですから、誰の子どもであるかということは大変大きな問題なのですが、主イエスを信じる者は、神様の子どもです。日本にはいろいろな神様があります。稲荷神社は狐を祀っています。四国の金毘羅さんは、インドのガンジス川に生息するワニをご神体としています。そういう神の子どもにはなりたいと思いませんが、聖書の神様は、創世記に記されているように、何もないところに、この世界とその中にあるすべてのものを造られた全知全能の神様です。先週の月曜日に、沖崎めぐみ姉が目の手術を受けられて、無事手術は成功しました。感謝です。沖崎姉が手術を受ける前に、担当の先生から地球儀みたいな目の模型をつかっての説明があったそうですが、その時、担当医が、目の模型を見せながら、「神さまが作った目は、素晴らしいんですよ」と言われて、沖崎姉は、そのドクターがまるで教会学校の教師のようだったと言っておられました。人間の体一つを見ても、本当に素晴らしく造られています。このようなスケールの大きな神様のこどもであることの意味を、もう一度あらためて考えたいと思います。

  • 神様の素晴らしい愛

 私たちはどのようにして神の家族に入れられたのでしょうか。1節には「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったのかを考えなさい。」父なる神様は、私たちを素晴らしい愛で愛してくださいました。だから、神様から離れて生きている私たちのために、私たちを神様のもとへ連れ戻すために、ご自分のひとり子イエス様をこの世に遣わし、そして、私たちの身代わりとして十字架で罪の罰を受けさせられたのです。日本語訳では「どんなにすばらしい」と訳されている箇所はギリシャ語では「ポタポス」という一つの言葉ですが、これがとてもユニークな言葉なのです。もともとは「どんな種類の」という意味のことばです。注解書によると、この言葉は当時のギリシャの港で使われていたそうです。当時、ギリシャの港にいろいろな船が入って来ました。遠くに船の姿が見えると人々が集まって「ポタポス」と言ったそうです。その言葉の文字通りの意味は「どこの国の船」です。それは、いったいどこの国の人々がやって来るの?、外国のどんなすごいものが入って来るの、あるいは、どんな新しい教えを学ぶことができるの、という驚きと期待がこもった言葉でした。そこからこの言葉は「いったいどんな?」と訳されるようになりました。日本語では意訳して、「どんなにすばらしい愛」と訳しています。神様の愛は、文字通り外国から来た愛です。天国から注がれた愛ですから。私たちは、その神様の愛をどれだけ理解しているか、そこは大きな問題です。誰からも愛されないことは、大きな問題ですが、たくさんの愛を受けているのにそれに気づいていないことも、同じように大きな問題です。パウロはエペソの教会の人々のために祈った時に、こう言いました。「あなたがたが、すべての聖徒とともに、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力をもつようになりますように、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」私たちは、誰ひとり行いによって救われた人はいません。100%、私たちは、主イエス・キリストの十字架の身代わりの死によって、救われたのです。父なる神様の愛は、自分にとってもっとも大切なひとり子のいのちを私たちのために犠牲にするほどの絶大な愛なのです。その結果、私たちは、このような愛を受ける資格などない者であるにもかかわらず、神様は、私たちを「神様の子」と呼んでくださるのです。私たちには元々名前があります。私は「小西直也」という名前です。そこに神様は、「神の子」小西直也と呼んでくださるわけで、神の子とは、私の身分を表すタイトルです。私たちは、神様から、このタイトルを、すなわち、この世の伯爵とか、女王とかあるいはCEOというようなタイトルとは比べ物にならない、永遠に価値のあるタイトルを頂戴したのです。だから、主イエスを信じたすべての人は、今、神の子どもです。そして、これは一生に一回の出来事です。神様は、私たちをご自分の子どもとして受け入れてくださった後、私たちを見捨てることは決してありません。私たちは、クリスチャンになった瞬間から、永遠に神様の子どもという身分を受け取っているのです。

  • キリスト者としての新しい生き方

 私たちは、クリスチャンになって、神さまから新しいいのちをいただいて、神様の子どもになりました。私たちは、新しい人に造りかえられたので、当然、生き方も変わります。変わるはずです。3節で、ヨハネが「キリストに望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。」と述べている通りです。クリスチャンは、新しいいのちを与えられましたが、それは神様のいのちなので、神様と同じように清く生きる力を持ついのちです。

 4節から10節までのところで、神から生まれた者は、罪を犯さないということをヨハネは何度も同じような言葉を繰り返して述べています。第一ヨハネの3章1-10節のところは、聖書の中でも難しい箇所の一つで、いろいろな解釈があります。今日はその中で、特に9節の言葉を取り上げたいと思います。「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」この文章を読むと、私たちは、クリスチャンになって洗礼を受けた後も、罪を犯していることを知っていますから、自分はクリスチャンなのだろうかと心配になる箇所です。しかも、この個所は、同じ手紙の1章8節の言葉と矛盾する内容になっています。1章8節にはこう書かれています。「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」ヨハネの手紙はクリスチャンに宛てて書かれた手紙ですから、ここでは、クリスチャンでも罪を犯すし、むしろ、罪を犯さないという人は偽り者だという内容です。この矛盾はどこから来るのでしょうか。

 ヨハネの手紙は1世紀の後半に書かれましたが、当時、すでにキリスト教会の中にいろいろな間違った教えが入り込んでいました。当時の間違った教えの多くはギリシャ哲学の影響を受けていました。ギリシャ哲学は人間の知識を重要視し、また、いろいろな物事を、善と悪、光と闇、肉体と魂のように二つに分けて考える傾向がありました。ヨハネがこの手紙を書いた時代には、すでにキリスト教会の中に、いくつか間違った教えを信じるグループが入り込んでいたようです。さきほどの、罪に関して矛盾となっている二つの言葉は、二つの間違った教えを信じる人々への教えなので、矛盾していると考えるのが自然のようです。当時、あるグループの人々は、自分は特別な知識を得ているので罪を犯すはずはないと自慢していました。ヨハネは、そのようなグループの人々に、1章8節で「もし、自分に罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」と彼らの中に罪があることをハッキリと教えているのです。一方、別のグループの人々は、自分を肉体と霊の二つに分けて、霊が本当の自分で、肉体はそれを包んでいる殻のようなものと解釈していました。だから、彼らは、自分の肉体が罪を犯したとしても、それは自分の外側の殻の部分が行ったことであり、本当の自分である内側の魂は神とともにあるので、その罪は自分とは無関係であると主張し、肉体が行うことは神様の目にはどうでもよいものだと勝手な考えを創り出して、罪の生活を送っていました。今日読んでいる3章6節や9節の言葉は、そのように、クリスチャンになっていながら、ギリシャ哲学の影響を受けて、自分に都合よく、自分の体が犯す罪はまったく問題がないと言う人々に対するものなのです。

 9節を見ましょう。「神から生まれた者はだれも、罪を行いません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことはできないのです。」私たちは、主イエスを救い主と信じた時に、神の種が与えられることが教えられています。この場合、種とは精子と卵子の精子を指しています。人間に新しいいのちが作られるとき、父親の精子と母親の卵子が結合して造られます。そして、それぞれに含まれたDNAによって新しい人がどのような人になるのかが決まります。子どもは親のDNAを受け継いでいるので、親に似ます。私たちは、神様の種をとおして神様の性質を表すDNAを受け継いでいます。ですから、私たちの内側のいのちは父なる神様に似た者になろうとして働くようになります。だから、当然、クリスチャンは、3節にあるように、神様に似た清い者になろうとする力が働くのです。間違った教えを信じていた人々は、自分の体は魂を入れている入れ物みたいなものだから、体が何をしようと関係ない。体が罪を犯しても気にしないという生き方をしていましたが、ヨハネは、その人のうちに、神様の種は入っていない、すなわち、その人は本当のクリスチャンではないと言っているのです。クリスチャンは、自分の中に、神様の種を持っているので、罪を犯しても平気で全然気にしない訳にはいきません。私たちの体と魂は一つです。そして、体には、イエスを信じた後も、古い性質が残っているので、100%罪を犯さないという生き方はできません。ただ、私たちは、誘惑に負けて罪を犯してしまうと、心が平気ではいられず、思い悩みます。そして、悔い改めに導かれます。それは、私たちのうちに神の種が与えられているからです。罪を犯すと、神の種が苦しむのです。私たちは、罪を犯した時、神様の前に正直に悔い改めるなら、神様はその罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださると約束されています。自分の罪に思い悩んでいる人は、その人のうちに神の種があるからです。ヨハネが9節で、「罪を犯しません」とか「罪を犯すことができない」と言っているのは、罪を犯しても、まったく思い悩まず悔い改めもせず、神の目に体の罪はまったく何の意味もないと考えて、罪の生活をしている人をことを表すものなのです。

 ヨハネは、真のクリスチャンは全く罪を犯さないと言っているのではありません。そのことはヨハネが1章8節で書いている言葉で明らかです。クリスチャンには、神様の種が与えられているので、以前のように、罪を犯しても平気でいることができなくなりました。私たちが、誘惑を受け、その誘惑に負けて、罪を犯したとき、神の種を持っていない人は、まったく平気で何の思い悩みもありません。しかし、神の種を持っている人は、葛藤します。それこそが、私たちのうちに神の種があることの証拠です。私たちは、神様の愛によって、ただ一度、神のこどもとしていただきました。この身分は永遠に変わることはありません。私たちは、天国に入れるのか入れないかと心配する必要はありません。私たちは神のこどもですから。ただ、私たちのうちにある神の種は、まだ完全には勝利を獲得していないので、私たちは、地上の生活の中で、誘惑に負けて罪を犯してしまいます。私たちは、その都度、自分の罪を認め、罪を告白することによって、内側にある神の種に力を加えることになるのです。私たちは、このことを毎日の生活で、行い続けることが必要なのです。

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