2022年9月18日 『互いに愛し合う教会』(1ヨハネ3章11-18節) | 説教      

2022年9月18日 『互いに愛し合う教会』(1ヨハネ3章11-18節)

先週の箇所では、イエス・キリストを救い主と信じる人は「神の子」となっているという事実について語りました。私たちを永遠の滅びから救い出すのは何か、それは、父なる神によってこの世に遣わされ、私たちのために身代わりの罰を受けてくださった主イエスの十字架の死と、それを自分のためであったと信じる私たちの信仰だけです。先週も言いましたが、プロテスタント教会の信仰の土台は神様の恵みと私たちの信仰によって救われるという信仰です。それ以外のものは何もありません。しかし、神のこどもとなった私たちは、地上の残された生涯、神の子に相応しい生き方をすることが求められます。神のこどもが悪魔のこどものような生活をすることは許されません。では、神の子どもの生き方とはどのようなものでしょうか。

(1)互いに愛し合いなさい

 こう考える時、思い出すのが、最後の晩餐の時に主イエスが弟子たちに教えられた言葉です。ヨハネの福音書13章34節35節を読みましょう。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」このイエスの言葉は、特定の場所、特定の時代の人に向けて語られた言葉ではありません。主イエスが、ふたたびこの世に来られるまでの時代、すべての場所、すべての時代のクリスチャンに向けて語られた教えです。それは、「互いに愛し合いなさい」というものです。クリスチャンのシンボルは愛です。信仰生活にとって、有益なもの、良い物はいろいろあります。しかし、どうしても必要なものは愛だけです。主イエスは、クリスチャンにとってもっとも大切な命令は何かと尋ねられた時に、第一に全力で神様を愛すること、そして第二に、隣人を自分自身のように愛することと応えられて、この2つの愛がクリスチャン生活に最も大切であることを教えられました。第一コリント13章は、「愛の章」と呼ばれ、愛に関する教えが1つの章の中にぎっしり詰まっています。ただ、13章は、突然現れた愛の章ではありません。12章からの続きとして書かれた章です。コリント教会は、大きな教会で、有能な信者が数多く集まっていました。ところが、その反面、非常に問題の多い教会でもあり、教会の中は、いくつかのグループに分裂していました。教会の混乱の原因の一つに聖霊の賜物という問題がありました。神様は、特に初代教会の時代、生まれたばかりの教会が激しい迫害の中で存続できるように、様々な霊的な賜物を与えられました。その賜物には、知識のことば、信仰、癒しの力、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、種々の異言、異言を解き明かす力なのでした。ただ、これは同じ一つの聖霊が、教会が一つになるために与えられたものでした。しかし、実際には、コリント教会では、自分の賜物を自慢して他の人を低く見たり、互いに妬んだり競ったりして、教会がバラバラになっていました。その危機的な状況の中で、パウロがこの手紙を書いたのですが、霊の賜物による問題を12章で取り上げた後で、それを解決する道は一つしかないと言って書いたのが13章の、いわゆる「愛の章」なのです。これは結婚式でよく読まれる箇所ですが、結婚式のための言葉ではありません。教会が互いに愛し合い、仕え合って一つになるための教えです。だから、パウロは、12章で、様々な霊の賜物について語った後、最後にこう言いました。「私は今、はるかにまさる道を示しましょう。」そう述べて、パウロは、霊の様々な賜物よりもはるかにまさるものとして愛について語ったのです。従って、13章の冒頭で、パウロは言いました。「どんな霊の賜物も、異言も預言もあらゆる知識もものすごい信仰でさえ、愛がなければ無に等しいのです。」霊の賜物は、時がくればすたれます。しかし、愛はいつまでも残ります。だから、私たちは、まず、互いに愛し合うことを求めなければならないのです。それ以外のものは、どんなものも、愛がなければまったく役に立ちません。ヨハネがこの手紙の3章11節で「あなたがた初めから聞いている使信です。」とあるように、主イエスが、弟子たちに、初めから伝えようとされたメッセージは、愛のメッセージなのです。その愛とは神を愛する愛とともに、隣人を自分自身のように愛する愛です。ざっくりした言い方をすれば、愛があれば十分であり、愛があれば、何も恐れる必要はありません。私の説教には世の終わりに関する教え、つまり終末に関する教えがないという指摘を受けました。確かに、主イエスの再臨については語っていますが、それ以外の詳しいことは最近は取り上げてきませんでした。聖書は、主イエスが再びこの世に来られる時、それが世の終わりの時なのですが、いろいろな厳しい自然現象や戦争が起きると預言しています。クリスチャンが苦しみを経験する時代が来ることが預言されています。しかし、その時も、私たちに愛があれば、何も恐れる必要はありません。第1ペテロ4章7,8節には次のように書かれています。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整えなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」神様が、クリスチャンになによりもまず求めておられるのは互いに愛し合うこと、これを私たちは決して忘れてはなりません。

(2)愛と正反対の心

 ヨハネは、愛をテーマにして語っているのですが、今日の個所では、4つの種類の人間関係について述べていて、しかも愛に相反するもの3つの関係を述べて、最後に、私たちが実践するべき愛の関係について述べています。愛ではない第一のもの、それは殺人です。12節で、ヨハネは「カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」殺人は、憎しみの心が引き起こす最悪の行動です。そこには愛はまったくありません。ヨハネは殺人の例として、人類最初の殺人犯であるカインを取り上げています。アダムとエバの子どもであるカインは、ある時、神様を礼拝するために捧げものを捧げました。兄弟のアベルも神様に捧げものをささげました。神様はアベルの捧げものを受け入れましたが、カインの捧げものを受け入れませんでした。このことに激しい怒りを覚えたカインは、嘘をついてアベルを野原に呼び出し、アベルを殺してしまいました。カインとアベルは同じ親から生まれ、同じように神を礼拝していました。しかし、ヨハネは、カインは悪い者から出た者であったと書いているように、カインは、表面的には神を礼拝するふりをしていましたが、心の中は神を信じない者であったことが分かります。表面的には信仰深い行いに見えても、神様が見るのはその人の心です。神様はカインの心の中のすべてを見抜いておられました。彼がアベルを殺したことからも、彼が神を信じていなかったことは明らかです。私たちは、殺人は、自分とはまったく無関係と考えがちです。しかし、世の中のいろいろな事件を見ていると、ちょっとした歯車の狂いから起きる殺人事件がよくあります。どうしてあんな人が人を殺したのだろうとびっくりすることがあります。聖書は、人間の心の中に罪があると教えます。罪とは、神を恐れず自分の欲望のままに生きることです。罪を持ったままの状態では、誰にでも、状況次第で、殺人を犯す可能性があります。だからこそ、私たちは、神様の前に自分の自己中心の罪を悔い改めて、キリストの十字架による赦しを得ることが必要なのです。ヨハネは「なぜ殺したのでしょうか。」と尋ねたうえで、「自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」と答えています。罪を持った心は、他人が正しい行いをすることに怒りを覚えるのです。そして、その怒りを抱え続けると、最終的に、殺人という行動を犯してしまいます。また、ヨハネはクリスチャンに警告の言葉を書いています。13節です。「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはなりません。」カインは、いわば、この世の人々、神を信じない人々の代表として描かれています。私たちが、神様の教えに従って生きようとすると、その生き方は、この世の流れとは反対方向の生き方になることが多いです。日本には「長いものには巻かれろ」ということわざがありますが、クリスチャンは、決してこの世の流れに巻かれてはなりません。クリスチャンになったら、だれからも愛されるという甘い期待は持たないほうが良いです。むしろ反対のことが多いからです。しかし、聖書は、例え、世の中の人々から憎まれ、あるいは攻撃されても、それに反撃したり、憎しみを憎しみで返してはいけないと教えています。パウロは、言いました。「愛する者たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りにまかせなさい。」神様はすべてのことを見ておられます。そして、正しいさばきをしてくださいます。私たちが復讐しようとすると、悪に対して悪で答えることになります。自分を汚してしまいます。神様の復讐は、私たちの復讐よりもはるかに恐ろしいものです。だから神の怒りに任せればよいのです。

 第二に、ヨハネは「憎しみ」を取り上げています。14、15節には、こう書かれています。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどもあっています。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、誰でも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。」ここで、兄弟を愛するとか、兄弟を憎むという言葉が使われていますが、これは、どちらも、その人の生き方の習慣として兄弟を愛する生き方をする人、兄弟を憎む生き方をする人という意味です。私たちは、時として、意見の違いや相手の態度に対して怒りを感じる時があります。もちろん悔い改めることが必要ですが、そのような時々経験する出来事はその人の習慣的な生き方を否定するものではありません。ここで、ヨハネが問題にしているのは、いつでも、他人に対して憎しみを抱き続ける生き方とクリスチャンの生き方は両立するのかということです。両立はしません。憎しみは、憎む相手よりも、憎しみをいだく本人により厳しい結果をもたらします。神の裁きが下るからです。

 憎しみに対する最善の手段は何でしょうか。それは愛です。誰かから本当に愛されたと言う経験がないために人を愛せない人がいます。しかし、主イエス・キリストが、自分のいのちを捨てるほどまでに私たちを愛してくださったことを本当に信じるなら、その人の心は変わります。人の心は知識の学びや訓練で変わるものではありません。愛されているという実感が人の心を変えるのです。イギリスの偉大な説教者ジョン・ウェスレーが、ある時、強盗に襲われてお金を奪われました。その時彼は、強盗犯に叫びました。「もしあなたがこんなひどい生き方をやめてまともな生き方をしたいと思う時が来たら、覚えていてほしい。イエス・キリストは、あなたの罪を赦すために十字架で死んだことを。」数年後、ウェスレーが教会での礼拝を終えると、一人の人が近づいて来て言いました。「私を覚えてますか?」「私は、あなたから金を奪った強盗です。その時あなたは言いましたね。イエスの十字架の血がわたしの罪を赦すと。私は、あの後、主イエスを信じました。イエスは私の人生を変えてくれました。」

  • 行いと真実をもって愛し合いましょう

 第一ヨハネの手紙3章16節には、有名なヨハネの福音書3章16節と同じような内容が記されています。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきです。」キリスト教の信仰は決して難しいものではありません。一部のエリートだけが理解できるようなものではありません。16節の言葉がすべてです。「キリストは私たちの罪を赦すために、私たちの身代わりとなって私たちの罪の罰を受けるために十字架で自分のいのちを捨ててくださった。」そのことを信じる信仰です。自分のいのちを捨てるほど、私たちのために働いてくださった主イエスの愛を受け取ることだけなのです。20世紀のキリスト教神学に大きな影響を与えたスイスの神学者カール・バルトがアメリカの有名な神学校で講演会を行いました。講演の後、学生たちとの質疑応答の時間があったのですが、一人の学生が彼に質問しました。「あなたの信仰の中心は何ですか。」するとバルト博士はしばらく考えてこう答えました。「そうでうね。わたしの神学を要約すれば次の言葉になると思います。「Jesus loves me this I know, for the Bible tells me so. 」これは、「主我を愛す」という子どもが歌う讃美歌の歌詞です。博士が言った歌詞を日本語にすると、「イエス様は僕を愛してる。僕はそのことを知っている。聖書がそう教えているから。」クリスチャンが知らなければならないことは、実は、これだけなのです。イエス様が私のために十字架で死んでくださった。これで聖書のすべての神学をまとめることができるのです。私たちはイエス様の犠牲を払った愛を知っていますから、今度は、私たちがその愛を他の人のために行いと真実をもって実行するべきなのです。16節に「私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです」と書かれているのは、もちろん、文字通りにいのちを捨てる意味ではなく、いっさいの見返りを期待せずに、友のために仕えることを意味します。その実例、すなわち、兄弟のためにいのちを捨てることの実例が17節、18節に記されています。それは、困っている兄弟のためにあわれみの心を示して、兄弟を助けることです。それが18節の「私たちは、ことばや口先だけでなく、行いと真実をもって愛しましょう」という言葉につながるのです。軍隊式で伝道の働きをする救世軍という団体があります。創設者はイギリスのウィリアム・ブースという人です。救世軍ではブース大将と言います。彼のモットーは英語で一言「others」です。これは「他の人」という意味の言葉です。ブース大将は救世軍の働き人に向かって、いつも「他の人のために働きなさい」と指示していました。1914年5月にエムプレスオブアイルランドという名前の船が沈没しましたが、その船には130人の救世軍の聖職者が乗っていました。そのうち109人がおぼれ死にましたが、109人は誰一人救命胴衣をつけていませんでした。数少ない生存者の話によると、救世軍の人々は、救命胴衣の数が足りないことが分かると、自分のベストを脱いで、「私は死んでも天国に行くから大丈夫。」と言って、他の人の体に自分のベストをつけてあげたそうです。そして、彼らは沈みゆく船の上で「others」と叫び続けていたそうです。私たちも、自分にできるところで、一人の人に対してでも、行いと真実をもって愛する者でありたいと思います。

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