2022年9月25日 『愛は疑いを取り除く』(第1ヨハネ3章19-25節) | 説教      

2022年9月25日 『愛は疑いを取り除く』(第1ヨハネ3章19-25節)

先週もお話ししましたが、主イエスが十字架にかかる前夜、弟子たちに最後に言われた命令は、「あなたがたは私があなたがたを愛したように愛し合いなさい。」でした。主イエスがご自分で選んだ12人の弟子たちに、最後の最後求めたものは、「愛すること」でした。より深い霊的な知識でもなく、山を動かすほどの信仰でもなく、神様のために大きな働きをすることでもなく、「互いに愛し合う」ことでした。主イエス・キリストは、私たちに本当の愛とはどういうものかを示すために十字架にかかって、私たちのためにご自分のいのちを捨ててくださいました。力や能力や知識や訓練で人を変えることはできません。しかし、人の心は、大きな愛を受ける時に、その愛に感動し感謝し喜ぶことによって、変わります。人間の心には愛に対して応答する力が与えられているからです。神様の愛を知る時、私たちは、人を愛することができるようになるのです。奇跡の人と呼ばれたヘレン・ケラーは2歳になる前の病気が原因で視覚と聴覚を失いました。三重苦の人でした。しかし、両親の愛情と、家庭教師のサリバン先生の献身的な指導を受けて、大学教育を受けて博士号まで取ることができました。しかし、彼女にとって最大の奇跡は、神様を信じる信仰によるものでした。彼女は8歳で盲学校に入学しますが、13歳の時に、学校でテニスンというクリスチャンが書いた一つの詩を学びました。その時に彼女の心の目が開きました。次のような詩でした。

「強き神の御子。永遠に変わらない愛よ。

 わたしはこの目であなたの御顔を見ることはできない。

 しかし、信仰によって、ただ信仰によって、

 理論で証明できないものを信じて、

 神の子をしっかりと把握することができるのだ。」

ヘレン・ケラーはこの詩を読んだとき、言葉で表せない感動を覚えました。目が見えない者にも耳が聞こえない者にも、神の愛を感じることはできる。彼女はこう書いています。「私は、この時、自分の心の湖に愛なる神様の姿がハッキリと映し出されているのを知りました。それからの私は隣人を愛さずにはいられない気持ちになりました。」彼女のように、神様の愛をそのままに受け取る時に、私たちは、隣人を愛することができるようになるのです。

 しかも、主イエスが求めておられるのは普通の愛ではありません。キリストが私たちを愛されたような愛です。多くの人にとって愛とは、自分が好きな人を愛することです。心の中にわいてくる自然な感情です。しかし、それは非常にもろく、変わりやすいものです。多くの人が愛し合ってもすぐに破局を迎えるのは、誰もが自己中心の自分が良ければよいと言う愛で愛するからです。聖書が言う愛は、第1コリント13章4節ー8節に定義されています。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すえての望みすべての忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。」私たちが、信仰生活の中で、このような愛を少しずつ、一つずつ身に着けて行くことによって、私たちの信仰は子どもの信仰から大人の信仰へと成長していくのです。私たちの信仰を成長させるのは知識ではありません。訓練や努力でもありません。主イエス様が私たちに示してくださった愛を受け取り続けて行くことによって成長するのです。私たちが神様から命じられていることは、互いに愛し合うことなのです。ヨハネは、そのことを教会で実践するように命じています。そして、私たちが互いに愛し合うことを実践するとき、3つの素晴らしい祝福があることをヨハネは教えています。

  • 神の御前に心安らかでいる(19-20節)

 私たちが他の人とどんな関係を持つか、これが私たちと神様との関係に影響を与えます。ですから、主イエスは、マタイの福音書の中で、次のように教えられました。「祭壇の上にささげものをしようとしている時に、兄弟が自分を憎んでいることを思い出したら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物をささげなさい。」このように、人間関係において、私たちは兄弟愛を、常に、最優先事項として行わなければなりません。人を憎みながら、神を愛することはできないのです。しかし、私たちが、主イエスが言われたように、主の命令に従おうとして、兄弟愛を実行しようとする時、私たちは、神様の前に救われていることについて確信を持つことができ、神様の御前に心安らかにいることができるとヨハネは教えています。私たちは、神様から愛されていることを味わうほどに、聖霊が働いて心の中に、主イエスの愛が注がれます。クリスチャンは、決して、罪を軽く扱ってはいけませんが、反対に、悪魔のささやきに惑わされて、自分自身を必要以上に責めることも相応しい姿勢ではありません。使徒パウロはローマ人への手紙でこう言いました。「だれが、神に選ばれた者を訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。」あなたは、自分は主イエスが言われたような生き方ができないから私はだめだ。私は救われる資格がない。と考えますか。それは、サタンがあなたを訴えているからです。私たちを「お前はだめだ」と訴えるのは悪魔です。パウロが言うように、神様が私たちを義と認めてくださるのです。もちろん、私たちは、自分の罪を悔い改めることは必要です。主イエスは、私たちを愛して、私たちが神様のことをまったく無視して生きていた時に、すでに、私たちのためにいのちを捨ててくださったのです。それだけの愛を与えてくださる方は私たちを訴えることなどしません。ヨハネはこの手紙を書きながらペテロのことを思い出していたかもしれません。ペテロは、主イエスが十字架に掛けられるときに、イエスの弟子でありながら、自分のいのちを守るために、「主イエスを知らない」と3回も嘘をついてしまいました。彼はその後、自分がしたことを悔やんで激しく泣きました。そして、主が復活する前にどこかで、彼は自分が犯した罪を悔い改めました。主イエスは、ペテロの心をすべて知っておられました。だから、イエスは復活された後、他の弟子たちの前に現れる前に、ペテロにだけ姿を表されたのです。さらに、主イエスは、他の弟子たちの前で、ペテロの信仰を回復させてくださいました。だからこそ、彼は、ペンテコステの時に、聖霊の力を受けて、イエスをはりつけにしたユダヤ人たちの前で大胆な説教をすることができたのです。私たちが、主イエス・キリストを救い主と信じ、主イエスの教えに従って生きようとする心があるならば、その人は救われています。主イエスがその人を義と認めてくださるのです。神様の愛は、人間のちっぽけな愛とはまったく次元が違います。20節に記されているように、神様は私たちの心より大きな方であり、すべてをご存知なのです。だから、クリスチャンとして生きて行こう、神様の命令に従って生きて行こうと思っている人は、自分の救いについて何も疑う必要はありません。

  • 祈りが答えられる

 ヨハネは22節で次のように述べています。「そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」私たちが、教会の中で兄弟愛を実践する時に、まず、私たちは神様の前にこころの平安を得ることができます。それに続いてヨハネが2番目に記しているのは、大胆に祈り求めることができるという祝福です。ただ、誤解してはいけないのは、この言葉の意味は、兄弟愛を実践すれば、私たちは祈り求めるものを何でも得られるということではありません。父親は、自分のこどもが欲しいと言うものをすべて何でも与えることはしません。そんなことをすれば、子どもは甘やかされて自己中心な人間になります。私たち、クリスチャンも、時には、長い目で見ると自分の信仰にとって妨げになるようなものを求めることがあります。私たちの天の父なる神様は、私たちのすべてを知っておられ、私たちの祈りに、答えるべきかノーと言うべきか、そのことを知っておられるのです。この約束の前提は、私たちが、神様の御心に従い、神様の命令に喜んで従うことが含まれています。22節に、私たちの祈りが答えられる理由が2つ記されています。一つは、私たちが神様の命令を守っていることです。ヨハネは、主イエスを救い主と信じて本当に回心した人のしるしは、神様の命令に喜んで従おうとすることだと言っています。ここでは、特に、教会の中で兄弟愛を実践していることが強調されています。もう一つは、私たちが神様の喜ばれることを行っているからです。ただ、神様の喜ばれることを行うとは、神様の御心や命令に従うことと同じことです。私たちが神様の命令に従う時、神様は喜ばれます。しかし、私たちが神様の御心や命令に従わない時、神様は悲しまれます。私たちの祈りは、大きな祈りも小さな祈りも、長い祈りも短い祈りも、すべて神様の耳に届いています。そして、私たちが神様と純粋な関係の中に置かれて、私たちが喜んで神様の命令に従うとき、私たちが神様に祈り求めるものも変わってきます。以前は自分のためだけを考えていましたが、今は、神様の御心にかなったことを祈り求めるようになってきたのです。だから、神様は私たちの祈りに答えてくださるのです。

  • 神様が私たちのうちにとどまってくださる

 マタイの福音書に、一人の聖書の専門家が主イエスに「律法の中でどの戒めが一番重要ですか」と尋ねた時、主イエスは、第一に全力で神を愛すること、第二に、隣人を自分自身のように愛することと答えられました。しかし、神様は3章23節で、ヨハネをとおしてもう一つの重要命令を与えておられます。「私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。」クリスチャンがなすべきことは、第一にイエス・キリストを信じること、そして、第二に互いに愛し合うことです。イエス・キリストへの信仰と、隣人に対する愛というのは、いわば、一枚のコインの表と裏と言えます。というのは、この2つがそろって、初めて、私たちは神様に喜ばれる生き方できるからです。しかし、どちらか一方だけが強調されることが多いのです。ある人は、神様への信仰を強調して、愛の実践を軽く考えます。別の人は、私たちにとって信仰の教理はあまり重要ではなく、大切なのは愛の実践であると考えます。しかし、クリスチャンとして生きる時に、自分は何を信仰しているのかという教理も大切ですし、その教理に基づいて、神様の命令である、「互いに愛し合う」ことを実践することも大切です。

 神様の命令を守る者、守ろうとする者には、大きな約束があります。それは、そのような人は、神のうちにとどまり、神様もその人のうちにとどまるという約束です。このことは、主イエスが、十字架にかかる前に、弟子たちに、自分が十字架に欠けられ三日後に復活した後、40日目に天に戻るが、その後、信じる一人一人に助け主として聖霊を送ると約束されたことによって、実現することになりました。私たち、主イエスを自分を罪の裁きから解放する救い主だと信じる時、一人一人に聖霊が与えられるのです。パウロはローマ人への手紙の8章9節で、聖霊をキリストの御霊と呼び、10節では、キリストの御霊を持っている人は、その人のうちにキリストがおられると語っています。私たちは、キリストのうちにおり、キリストが私たちの内に住んで下さるのです。私たちは、一人で生きているのではありません。主イエスご自身もご自分をぶどうの木と呼び、私たちをその枝と呼び、人がわたしにとどまり、私もその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結ぶと言われました。私たちが、主イエスを救い主と信じた瞬間、私たちは、キリストと共に生きる者になるのです。しかし、私たちは、キリストの内にとどまり続けなければなりません。私たちが神様の命令に従わずに、罪を犯すとき、私たちは聖霊を悲しませることになります。それは私たちの内におられるキリストを悲しませることです。私たちが救われているという事実は変わりませんが、聖霊を悲しませる時、私たちの生活に、神様からの祝福はありません。ですから、ヨハネが1章で語っているように、私たちが罪を犯して、聖霊を悲しませたと感じたなら、すぐに、そのことを神様に告白して、自分が犯した罪を赦してもらうことが必要なのです。

 神様がともにおられること、これはクリスチャンにとって一番大きな力です。自分がどんなに弱いと感じても、私たちには、全知全能の神様がともにおられることを知れば、恐れる必要がないからです。イザヤ書41章10節の言葉を、私は病気の人によく贈ります。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐなわたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手であなたを守る。」まことの神様、今も生きておられる神様が、私たちにこう語っておられるのです。私の父は2回ガンの手術を受けたのですが、2回とも、この言葉を紙に書いて小さく折りたたんで手に握りしめて手術室に向かいました。父は、家族には言いませんでしたが、心のどこかで死を意識していたのかもしれません。そんな時、父にとって一番支えになった言葉は、家族の言葉ではなく神様の言葉でした。看護師さんから、小さく折りたたんだ紙切れを手放すように何度も言われたのですが、父は頑として聞かずしっかりと手を握りしめていました。看護師さんは根負けして、「じゃあ、手術室の入口までですよ。」と言いました。神様の言葉が父を支えたのです。私たちが、クリスチャンになって、神のみ言葉に従って生きるとき、このように素晴らしい約束が数多く与えられています。第一に、自分は神様の子どもであるという確信です。。私たちは自分の救いについて迷ったり疑ったりする必要はまったくありません。神様が保証してくださいます。神様の前に心安らかに過ごすことができます。第二に、私たちが神様の命令に従って生きるとき、私たちの祈りも変わります。神様の御心にかなった祈りをささげるようになるのです。そのような祈りに神様はいつでも答えてくださいます。そして、第三に、私たちと神様は一つになって生きるという約束です。私たちは神様のうちにあり、神様も私たちのうちにおられるのです。神様が私とともにおられるなら、私は何を恐れる必要があるでしょうか。この約束を得るために必要なことは、キリストを信じることと、キリストが実字られたとおり互いに愛し合うことです。私たち一人一人、このことを実践する者でありましょう。

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