2022年10月2日 『神のかたちに造られた人』(創世記1章26-28節) | 説教      

2022年10月2日 『神のかたちに造られた人』(創世記1章26-28節)

 私は、20代の頃、夏休みに行われた大学生のバイブルキャンプで毎年のように奉仕をしていました。キャンプ場は岐阜県の山奥にあり、夜、キャンプ場の明かりが消えると、空に、文字通り満天の星が輝いていました。本当に美しい空でした。その時、宇宙って何とスケールが大きいのだ、自分は何と小さな存在なのかと思ったことを覚えています。私たちが住んでいる地球も宇宙も、本当に素晴らしく造られています。地球だけが他のどの星とも違っていて美しく、生物が生きられる星です。一日に一回規則正しく同じ時間、同じスピードで回転し、1年に1回、太陽の回りを、まったく同じコースを同じスピードで規則正しく回っています。これは偶然なのでしょうか。また、私たちの体は本当に素晴らしく造られています。先日、沖崎姉が目の手術を受けられましたが、手術の前に担当のドクターから説明があったそうで、その時に、ドクターが目の模型を沖崎姉に見せながら、「神様は素晴らしい目を造ってくだったんですよ。」と言われたそうです。こんな小さな目ですが、機械では再現できない多くの機能を持っています。目だけでなく、体のすべての器官が素晴らしく造られていますが、これも偶然なのでしょうか。進化論を信じるならば、すべては偶然の結果です。進化論では、この宇宙と人間の始まりは、水、空気、原子、アメーバーのようなもので、そこから偶然に偶然が重なって、気が付いてみると、こんなに素晴らしい世界と、こんなに素晴らしい人間が出来上がったというのです。本当にそうなのでしょうか。人間の始まりが、一つの細胞からだとしたら、どの時点で、人間はいろいろな感情や愛情を持つようになったのでしょうか。また、不思議に、すべての人間は、例えば人を殺すことは悪いことだと言う、共通の善悪の基準を持っていますが、どうして、すべての人間が同じ基準を持つようになったのでしょうか。もし、進化論が事実であるなら、私たちは、みな、偶然にこの世に生まれて来たことになり、私たちが生きることにも、死ぬことにも何の意味もないことになります。あなたという存在は、そのような偶然の産物に過ぎないのでしょうか。聖書はそうではないと言っています。イザヤ書43章21節に、次のような言葉があります。「わたしのために、わたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える。」ここに人間がなぜ生きるのか、生きる目的は何かということが記されています。神様が、ご自分のために、少し付け加えると、自分の喜びのために、私たちを形造ってくださったのです。そして、私たちが生きる目的は、その生活をとおして神様のすばらしさを表すためだと、神様は言っておられます。自分のことをすごく否定的に見る人がいますが、聖書は、一人一人の人間は、神様が、喜びをもって造られた存在ですから、能力とかどんな実績をあげたとか、そういうこととはまったく無関係に、存在そのものが尊く価値のある一人なのです。そして、神様の栄光を自分の生活をとおして表すことが、私たちの生きる目的なのです。世の中に、価値のない人、生きる意味のない人は一人もいません。一人一人は神様によって造られた大切なひとりだからです。偶然に、この世に生まれて来た人は一人もいません。神様が、私たちの両親をとおして働いてくださり、神様のはたらきによって一つのいのちとなり、この世に生まれて来たのです。

 聖書の最初の書物には、人間が神様によって造られたできごとがもう少し詳しく書かれているので、創世記の1章26節から28節を読んで行きましょう。26節は、ある意味で特別な節と言うことができます。それは、25節までは、神は仰せられた。神は創造された。神は名づけられたと、すべて神様を3人称として、客観的に描いているのですが、26節で、突然、神ご自身の言葉が記され、3人称ではなく1人称を用いて、自分のこととして描いているのです。26節に神様の言葉が記されています。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」ここで、なぜ、神様がご自分のことを「わたしは」と言わずに「われわれは」と言われたのでしょうか。聖書の神は唯一の神様ですが、三位一体といって、3つの存在が一つとなって存在しているます。三位一体と言うのが、非常に難しい概念なのですが、私が一番分かりやすい説明だと考えているのは、聖書の神は、聖なる神であると同時に愛なる神様です。愛が存在するためにはどうしても愛する者と、愛される者、そして愛そのものが必要になります。唯一の神が、愛として存在するには、3つの存在が一つになって存在することが必要なのです。そういう訳で、父なる神、子なる神、聖霊なる神が一つの関係に結ばれて存在していると考えます。この世界は神様によって造られましたが、その時にも、父なる神と、御子イエスと、聖霊がともに働いていました。創世記の1章2節に、こう書かれています。「地は茫漠として何もなく、闇が大水の大手の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」と書かれています。天地創造が始まる時、大水の面を神の霊、すなわち聖霊が動いていました。この記事から、聖霊なる神も天地創造の業に加わっていたことが分かります。また、新約聖書には、あちこちに、御子イエス・キリストが天地創造の業に加わっていたことが書かれています。ヨハネの福音書の1章3節は、御子イエスをこの方と呼んでいますが、次のように書かれています。「すべてのものはこの方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」という訳で、26節では、三位一体の神様が互いに相談し合って、そして、厳粛な言葉として、「人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」と宣言されたのです。私たち人間は、偶然の結果、何となく現れたのではなく、神様の強い意志と願いによって、神に似たものとして造られたことを覚えておかなければなりません。

 27節にはこう書かれています。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」一つの節の中で「創造する」という言葉が3回繰り返して使われています。これは旧約聖書の言葉、ヘブル語の表現方法で、同じ言葉を3回繰り返すことによって、その働きを強調しているのです。つまり、神様が人間を造る時に、簡単にパパっと造ったのではなく、丹精込めて、最大限の知恵と力を用いて造られたことを示しています。私たちは、誰もが、このような神様の丹精込めた働きによって造られたのですから、それだけ価値がある存在なのです。私たちは神のかたちに造られたと書かれていますが、神のかたちとはどのような意味でしょうか。もちろん、神は無限の存在なので、目に見えるかたちはありません。したがって、神のかたちとは、目に見えるものを意味するのではなく、神様がもっている能力や、ご性質を意味します。

 第一に、神のかたちに造られた人間は、神の声を聞くことができるという意味を持っています。神様は男と女をお造りになった後、二人に語り掛けておられます。28節に、「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。と書かれています。」人間は、神のかたちに造られているので、神の声を聞くことができるのです。神の声を聞くことができるので、神の教えを学ぶことができます。他の動物は神の言葉を聞くことも神の教えを学ぶこともできません。人間だけが、神様とコミュニケーションを持つことができます。神の言葉に応答し、神の言葉に従うとき、人はもっとも幸せに生きることができるのですが、人間は、神に造られた後、神が語られる言葉を聞こうとせず、その言葉に従おうともせず、罪を犯したたために、神の怒りを受けるべき者となってしまいました。しかし、そのような人間を、最初の状態に戻して、神様と交わることができるように、御子イエス・キリストが私たちの代わりに罪の罰を受けるために、十字架で死んでくださったのです。

 第二に、神のかたちに造られた人間は、この世界を支配する役割を与えられました。28節で、神様は最初の男と女に言われました。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」神様は、私たち人間を、創られたすべてのものの冠としてお造りになりました。ここに、すべての生き物を支配せよと言われていますが、人間は、神様が造られた素晴らしい世界が崩れてしまうことがないように、きちんと管理するという使命を与えられたのです。ですから、これは生き物に限らず、自然の環境もきちんと管理することが人間には委ねられているのです。神様は、人間を、いわば、この世界を守るための、共同管理者という責任をお与えになりました。しかし、次週お話ししますが、人間が神様の教えに逆らって罪を犯した結果、人間は、美しい世界とそこに住む生き物を管理するのではなく、むしろ自分勝手な目的のために用いて、逆に神様が造られた美しい世界を破壊する者になってしまいました。

 第三に、神のかたちに造られた人間は、神の子どもとして生きるために造られました。創世記の5章3節に次のような言葉があります。「アダムは130年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名付けた。」アダムからセツという子どもが生まれるのですが、その子どもセツは、アダムに似たアダムのかたちどおりの子どもでした。このことから分かるのは、神のかたちに造られた人間は、神の子どもとして造られたということです。ルカの福音書に主イエスの系図が記されていますが、イエスから遡って最後アダムまで行くのですが、アダムについてはこのアダムは神の子であると記されています。ですから、私たちが神のかたちに造られたということは、神様と私たちは、父親と子どもと言う関係にあることを示しています。今、第一ヨハネの手紙を読んでいますが、その中でも、ヨハネは、私たちが神の子どもであるとはっきり教えています。このように、私たちが神のかたちに造られているのは、私たちが神の言葉を聞くことができる他の生き物にはない能力が与えられ、神様が造られた世界を管理するという大切な使命と権威が与えられているものであり、何よりも、私たちは、神の家族の一員として神と共に生きるために造られた者なのです。人間の価値は、その人の頭の良さや能力とか、財産とか、どんな働きをしたとか、その人の外見などで決まるのではありません。一人一人は、神様のかたちに似せて造られた者であるから、すばらしい価値があるのです。

 このように、私たちは、素晴らしい者として造られたのですが、最初の人間が神に逆らって罪を犯したために、神との関係が切れてしまい、神のかたちが傷ついてしまって、本来持っている素晴らしいものを発揮することができず、今日の世界のように、私たちの美しい世界は汚され、人々は、互いに争いと憎しみの中で生きるようになってしまいました。そんな私たちにとっての希望は、主イエス・キリストです。へブル人への手紙の1章に、「イエス・キリストは神の栄光の輝き、神の本質の完全な現れである。」と書かれています。キリストは神の完全なかたちなのです。しかも、御子イエス・キリストは天地創造の業に関わっておられましたから、神のかたちを傷つけてしまった人間を回復することができるお方です。神の御子キリストがこの世に来られたのは、神との関係が切れてしまい、本来持っている素晴らしいものを発揮できない人間を、本来の姿に回復するためでした。私たちは、神のかたちに造られているのに、神様との関係から離れてしまっている状態が、人間が抱えている様々な問題の根源的な理由なのです。パスカルというフランスの哲学者は言いました。「神から離れて生きている人間の心には深い穴が開いており、その穴は、完全で不変の存在、すなわち神しか埋めることができない。」1980年代に、第二次大戦中に中国に取り残された中国残留孤児の肉親捜しが行われていて、よくテレビで放送されていました。ある人は、肉親が日本滞在の最後の日まで現れず、そのまま帰らなければなりませんでした。その人は帰る時大きな声で叫びました。「お母さん。私は誰ですか。お父さん。私は誰ですか。せめて本当の名前だけでも教えてください。私は誰なんですか。」親を知らずに生まれた子供は、皆、このような思いを持つでしょう。人間には、肉親のほかに、もっと大きな親がいます。私たちのいのちを造ってくださった神様です。私たち人間は、本当の造り主である神様を知らない限り、自分が誰で、どこから来て、何のために生きていて、そしてどこに向かっているのか分からないのです。しかし、聖書には、神様が私たちに呼び掛けている言葉がたくさんあります。その一つを読んでみましょう。イザヤ書43章1節です。「だが、今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川をわたる時も、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」ここではヤコブよ、とかイスラエルよと呼ばれていますが、この神様の言葉は、私たち一人一人に向かって語られた言葉です。神様は、私たちを造られた方です。私たちを名前で呼ぶというのは、例えて言えば、駆って来たペットの犬に名前を着けると、その犬は家族になります。そのように私たちを神の子どもと見てくださることを意味します。そして、川や火というのは人生の中で起きる困難や試練を表していますが、どんな時も、神様がともにいて私たちを守ると約束しておられます。私たちが神様を信じて、神様とともに生きる時が、私たちにとって、一番安全なのです。

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