2022年10月9日 『最初の人間が犯した罪』(創世記3章1-13節) | 説教      

2022年10月9日 『最初の人間が犯した罪』(創世記3章1-13節)

 聖書は、この世界とその中にあるすべてのものは神様が造られたと教えています。そして、神様がこの世界を造られたのは、人間がそこで幸福に暮らすことができるように、素晴らしい自然の世界を備えるためでした。人間は、すべての造られたものの冠として、神のかたちに造られました。神のかたちに造られたのは、神様と交わることのできるものとして造られ、また、この世界を管理するという使命を与えられました。私たち人間は、神様が造られた素晴らしい世界で、神様とともに、神様の言葉に従って生きるとき、本当に幸せでした。神様は、人間を神のかたちに造られたので、人間に神様と同じような能力や理性を与えられました。その一つが、自分で考えて選択するという能力でした。神様は人間を神の命令に忠実に従うロボットとして造られませんでした。神様は、私たち人間と心と心が通いあう、そのような関係で交わりを持ちたいと思われたのです。何でも命令に従うロボットとの交わりは、本当の交わりではありませんから、あまり楽しい交わりではありません。猛烈サラリーマンが当たり前だった時代、多くのサラリーマンは上司から厳しい仕事のノルマを与えられて、上司に文句も言えずに、いつも心の中が悶々としていました。そのころ、簡単なロボットのおもちゃが登場して、サラリーマンの間で非常によく売れました。そのロボットは、登録した人間の声に反応して、簡単な命令に従うように造られていました。「前に進め」とか「右に曲がれ」などと声で命令すると、そのロボットはその命令に従って動くのです。その姿が、いつも上司から命令されているサラリーマンにとって、ストレス解消になったのでしょう。サラリ―マンにとてもよく売れたそうです。しかし、そのおもちゃはすぐに飽きられてしまい、いつのまにか姿を消してしまいました。心と心が通わない関係は、本当の関係ではないので、長続きしないのです。神様は、人間が自分で選んで物事を決めるという能力を使うチャンスを与えるために、エデンの園の中央に「善悪を知る木」という木を植えられました。そして、神様は人間に一つの命令を与えられました。「あなたたちは、エデンの園にあるどの木から思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは食べてはならない。その木から食べる時、あなたは必ず死ぬ。」この命令が与えられましたから、最初の人間のアダムとエバは、その木の実を見ても、「これは神様から食べては行けないと言われているので食べない。」と思って、どんなにおいしそうでも、食べないという決断をすることができます。他の動物には、人間のような理性が与えられていませんから、美味しそうな木の実を見れば、食べないままでいることはできません。動物は本能で動いていますから、美味しいものであれば、どんなことをしても食べるのが当たり前です。そこが、人間と動物の違いなのです。

 アダムとエバは、神様の命令を守るという道を選んで、神様とともに生活をしていましたので、二人とも本当に幸せな生活を送っていました。しかし、それが壊れる時が来ました。3章の1節を読みましょう。「さて、蛇は神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。」新約聖書では、蛇は悪魔として描いています。ヨハネの黙示録12章9節に「大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンと呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。」と書かれています。神に敵対するサタンが蛇の姿をとってエバに近づきました。そして、蛇はエバに向かって、驚いた様子で尋ねました。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」サタンの言葉は非常に巧妙です。サタンは、直接的に神様の言葉を否定している訳ではありません。ただ、「神は本当に言われたのか」という驚いたような質問は、エバに対して、神の言葉に対して、そんなことを言う神様とはどんな神なのかと考えさせるものでした。エバは、それまで、そのようなことを考えたこともありませんでした。しかも、サタンは、神様の言葉を巧妙に変えています。神様は、アダムとエバに「あなたたちは、エデンの園にあるどの木から思いのまま食べてよい。」と言われたのです。この言葉は、神様が人間にすばらしい食べ物をありあまるほどに与えてくださることを示しています。神様は、豊かに与えてくださる方です。しかし、サタンは、神様についてまったく反対のイメージを与えようとしています。サタンの言葉は、少し解釈を加えると、「神様は、エデンの園に、こんなに多くのすばらしい木を植えておられるのに、一本も食べてはならないと言うのか?神様って、そんなにケチなのか?」と言っているのです。サタンの言葉は非常に巧妙なので、エバは、サタンが神の言葉をすり替えようとしていることにまったく気づいていません。彼女は、サタンの言葉の中に、悪意が含まれていることがわかりませんでした。

 サタンの言葉を聞いて、彼女の心の中に、神様に対する小さな疑いが生まれました。サタンの言葉を聞いた時に、神様から聞いた言葉を思い出して、サタンの間違いをはっきりと示して、その間違いを正すことができたはずなのですが、エバは、サタンの言葉に気持ちが流されてしまいました。エバは答えました。「私たちは園の木の実を食べてよいのです。」小さなことですが、神様は「あなたたちはエデンの園にあるどの木から思いのまま食べてよい。」と言われたのですが、エバは「どの木からも」という部分を言いませんでした。エバは、神様がありあまるほど私たちに与えてくださる方であることを言いませんでした。サタンの言葉によって、エバの心の中に、「神様は本当に豊かに与えてくださる方なのだろうか。」という小さなが疑いが生まれていました。エバは続いて言いました。「しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたはそれを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」この言葉の中でも、エバは2つのことを変えています。一つは、神様は、園の中央にある木について、食べてはならないとは言われましたが、触れてもいけないとは言われませんでした。エバは、サタンの言葉に惑わされて、「神様はケチな神であり、また、うっかり木の実に触れるだけ人間を殺してしまう残忍な神なのかもしれない」と感じるようになっていました。さらに、エバは、神様が、「その実を食べて死ぬといけないからだ」と言ったと言いましたが、神様は、その実を食べると必ず死ぬと言われました。神様の命令に従ないことは大きな罪であり、その罪は人間全体に悲惨な状態をもたらすので、神様は厳しい警告をアダムとエバに伝えていました。しかし、エバには、神様の警告の言葉の重さを正しく理解していなかったために、神様は「食べると必ず死ぬ」と警告されたのに、エバは、「食べると死ぬといけない」と答えているので、エバは神様の警告の言葉をそれほど深刻なものだとは思っていないことが分かります。神様の言葉は、そのままに受け取らなければなりません。人間の側で都合の良いように、内容をぼやかしたり、変えたりすることは赦されないことなのですが、私たちも聖書に記された神様の言葉を、自分の都合の良いように変えてしまう危険性があります。「人を赦しなさい、愛しなさいと言われても、自分にはできない。」と私たちは、やってみようともせずに、最初から、神様の命令を守ることは不可能だと決めつけていないでしょうか。神様の言葉を自分の都合に合わせて変えることは、エバの場合と同じように、非常に危険なことなのです。

 狡猾な蛇は、エバの言葉を聞いて、彼女の心の中に、それまであった神様への絶対的な信頼が揺らいでいることに気づきました。そこで、蛇は一気に彼女の心に攻め込んで行きます。蛇は、神様の言葉をはっきりと否定して言いました。「あなたがは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」最初の「あなたがたは決して死にません」は、ヘブル語では、「ノー」という強い言葉で始まっていて、「あなた方は必ず死ぬ」という神様がアダムとエバに語った言葉が続きます。つまり、蛇は、神様の言葉を強く否定しているのです。「あなたがたが必ず死ぬ、そんなことがあるもんか!」ぐらいのニュアンスです。蛇は、神の裁きを否定しています。これがサタンの教えです。世の中の多くの人も、「人間は好きなように生きればいいのだ。神のさばきなどあるはずがない。」と考えています。しかし、聖書は、はっきりと、人は一度死ぬことと、死んだ後、神の裁きを受けることが定まっていると教えています。したがって、私たちは、神様の言葉を軽く扱ってはいけないのです。また、サタンは、神が愛の神であることも否定しています。サタンが言いたいことは、神様が、二人にエデンの園の中央にある木の実を食べてはいけないと禁じているのは、二人がそれを食べると賢くなり、神のようになるからで、神は、二人が自分と同じように賢くなってほしくないからだ、ということです。サタンは、神様が二人を愛してはおらず、人間が進歩・成長することを嫌っていると主張するのです。神様が、この素晴らしい自然界をおつくりになったのは、人間がそこで快適な生活をするためでした。神様は、アダムを造られた時に、人がひとりでいるのはよくないと言って、エバを造られました。アダムもエバも、人生のパートナがいることをとても喜びました。また、自然界を管理し、動物に名前をつけるという大切な働きも神様は二人に委ねました。二人は、神様から数えきれないほど、良いものをもらっていたのです。しかし、サタンの言葉を聞いて、エバは反論しませんでした。神様が二人にとって本当に素晴らしい神であることを経験していたにも関わらず、サタンの言葉を受け入れていました。

 6節になると蛇の姿をしたサタンは姿を消し、エバが一人で、園の中央にある木を見ていました。エバは、サタンの言葉は本当なのかも知れないと思いました。そう考えながら、いつも見慣れている善悪を知る木の実を見てみると、いままでは何とも思わなかったのに、その時、とても美味しそうに見えました。「あの実を食べると、神様のように賢くなるのだ」と思って、その実を見ると、ますます食べたくなりました。サタンの言葉を思い出しながら、木の実を見ていたエバは、神様の命令の意味が分からず、なぜ、こんなにおいしそうなものを食べてはいけないのだろうと思い、彼女は、手で、その実をつかんで食べてしまいました。この行為は、エバにとって小さなことと思えたことですが、実際には、後から生まれて来る人間全体に影響を及ぼす大きな罪の行いだったのです。そして、罪の行いはアダムにも及びました。彼女はその実をとって、ともにいた夫のアダムにも与えたので、アダムもその実を食べてしまいました。6節に、アダムはエバとともにいたと記されています。つまり、アダムは、妻のエバとサタンとの会話をすぐそばでずっと聞いていたのです。彼は、その会話を聞いた時に、口をはさんで、神様の命令の正しさを訴えることができたはずなのですが、彼はそれをしませんでした。しかも、エバが善悪を知る木の実を食べようとした時も、彼女を止めませんでした。神様は、その木の実を食べると必ず死ぬと言われたのです。それを聞いていたアダムですが、エバを引き留めませんでした。そして彼女の様子をじっと見ていました。彼女が、その木の実を食べても何も起こらなかったのを見て、アダムもその実を食べました。エバはサタンの言葉に従いました。アダムはエバの言葉に従いました。神の言葉に従った者はいませんでした。

 7節を見ると、ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であること知りました。そして、二人はいちじくの葉をつづり合わせて腰の覆いを作りました。サタンが言ったことは半分真実でした。二人は、木の実を食べた瞬間、彼らの肉体が死ぬことはありませんでした。ただし、彼らの神様との生きた交わりが死んでしまいました。二人の霊的ないのちは罪の中に死んだのです。この時から、人間には、罪の裁きや罪の力から救い出されるための救い主が必要になりました。二人は、この木の実を食べると目が開かれて神様のように賢くなると思っていました。しかし、彼らが見た現実は自分が裸であり、実に弱い者であること、自分で何とか自分を守らなければならないことを知りました。彼らは目が開かれたことで心が喜びに満ちたのではなく、むしろ、自分の弱さをちって恐れと不安に襲われてしまいました。二人は、あわてて、いちじくの葉をつづりあわせて腰の覆いを作りましたが、それは彼らを守るためには何の役にも立たないものでした。彼らは、なぜ、蛇の言葉に惑わされて、神様の掟を破ってしまったのでしょうか。第一に、二人は、神様の言葉が真実であることに疑いを抱きました。私たちも、神様の警告の言葉をエバのように軽く考えたり、蛇にように完全に否定したりすることによって、神から離れてしまいます。そして、二人は、罪の特徴である自己中心な生き方をするようになりました。二人は、神様が近づいて来たのを感じると、今までは喜んでいたのに、神と出会うのを避けて木の間に隠れました。そんな二人を、神様は追いかけました。神様には二人がどこにいるのかすべて分かっていましたが、あえて、アダムに呼び掛けて「あなたはどこにいるのか」と言われました。それはアダムが、神のもとに立ち返り、自分がしたことを悔い改めることがしやすいように、あえて、神様の側から声をかけられたのです。しかし、アダムは、神様に向かって「私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて身を隠しています。」と答えました。アダムは、自分が神を恐れて隠れた本当の理由を言わずに、神様が自分を恥ずかしい体に使ったから隠れたのだと、神様に責任を転嫁しています。神様は、二人がしたことをすべてご存知でしたが、あえて、アダムにたずねました。「あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」アダムが答えるべきことは、「はい、神様の命令を破って食べてはならないと命じられていた木から食べました。すみませんでした。」という自分が犯した罪を告白して、悔い改めることだったのですが、彼はエバにその責任を転嫁しました。12節でアダムは言いました。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」かつて、アダムは神様がパートナーにエバを造ってくださったときに、非常に喜んで「ここそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉」と叫んだにもかかわらず、ここでは、神様が与えてくれた女のせいで、わたしは木の実を食べたと言っています。互いを喜び合い愛し合っていたアダムとエバでしたが、すでに、ここでは、アダムはエバのことよりも自分を守るために、エバに責任を転嫁しています。すると、神様はエバに「あなたは何ということをしたのか」と言われると、エバは、「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」今度は、エバが自分を誘惑したは美に責任を転嫁しました。最初の人間が罪を犯した瞬間から、その罪の影響は二人だけでなく、二人から生まれて来るすべての子孫に及びました。この時から、神様が造られた美しい世界は、人間によって汚され、人間自体も、本来造られた目的から離れてしまい、誰もが、自分勝手な生き方をするようになり、世の中の素晴らしさは消えてしまい、人間の生活も罪で支配されるようになりました。これが、今の私たちの世界の始まりなのです。憎しみや争いが続いている世界、なぜ、このような世界になったのか、それは、最初の人間が犯した罪が原因なのです。人間が神から切り離されてしまったことが原因なのです。しかし、神様は、人間が、もう一度、神様との交わりに戻ることができるように道を開いてくださいました。それが、主イエスの十字架なのです。このことについては来週、お話しします。

 人間には大事な出会いが3回あるそうです。最初の出会いは、私たちが生まれる時、母親との出会いです。2番目は結婚するときの伴侶との出会いです。そして、三番目は、神様との出会いです。その中で最も大切なのは、神様との出会いです。神様との出会いによって私たちの永遠の運命が決まるからです。

 ある日、二人の青年がいつものように堕落した生活をし、町に酒を飲みに行くために道を歩いていました。すると、二人が教会の前を通りかかると、夜の礼拝が行われていました。そして、教会の看板に、その夜の説教題が書かれていました。「罪から来る報酬は死です。」その説教題を読んで、

そのうちの一人が何か心にひっかかるものを感じて、もう一人に「今夜は飲み行くのをやめる。」と言いました。相手はせっかくここまで来ているから一緒に飲みに行こうと言ったのですが、結局、二人はその場で別れることになりました。一人は町へ酒を飲みに行きました。もう一人は教会の中に入りました。そして、その夜、礼拝説教を聞いて、自分の罪を悔い改め、主イエスを信じました。その時から、彼の生き方が変わりました。それから30年して、一人の死刑囚が独房で、激しく泣いていました。それは新しい大統領就任の日のことでした。新聞やラジオはそのことで持ち切りでした。その死刑囚が涙を流しながら語りました。「今度大統領になった男は、以前自分と一緒に遊んでいた仲間なんだ。ある夜、俺たちは教会の前で喧嘩別れした。あいつは、あの後苦労して、市長になり、州知事になり、そして、今日アメリカの大統領になったんだ。それにひきかえ、俺はどうだ。あの後もバーに通い続け、金に困って人のものを盗み、人まで殺して、今は、死刑囚の身だ。おれは何てばかなんだ。おれも、あの夜、あいつと一緒に教会に行っていれば。」この大統領とは、第24代クリーブランド大統領なのです。一つの出来事が二人の人生を大きく変えてしまいました。私たちも、神様と出会っているのか、出会っていないのか、それが一番大きな問題です。あなたはどこで、永遠をすごしますか。神の国で神のこどもとして永遠に生きる道を歩んでいますか。それとも、自分の罪を背負ったまま、暗闇の中を永遠にさまよう道を進んでいますか。

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