2022年10月16日 『イエスの十字架の意味』(ピリピ2章6-11節) | 説教      

2022年10月16日 『イエスの十字架の意味』(ピリピ2章6-11節)

 先週は、最初の人間が犯した罪について語りました。アダムとエバは、その結果、彼らのために備えられた素晴らしい楽園、エデンの園から追放されてしまいました。神様とともに幸福に生きるために造られた人間でしたが、神から離れてしまったために、迷子の子どものようにつねに漠然とした恐れや不安を感じて生きるようになりました。その結果、世界は、今のような状況になってしまったのです。エバを誘惑したのは蛇の姿をした悪魔でした。神様は悪魔を造った訳ではありません。悪魔は、もともと、神に仕える霊的な存在である御使い(天使)でした。神様は造られたものはすべて良いものでしたが、どんなに良いものでも、使い方を間違えると悪になってしまいます。神様は、御使いにも人間にも向上心を与えられました。今よりももっと良い者になりたい、もっと良い状況を作りたいと言う向上心があるからこそ、人間はここまで進歩してきたのですが、一方で、その向上心が、自己中心的な考えに支配されると、向上心は大きな罪を引き起こす要因になってしまいます。悪魔も、その向上心を間違って用いたことが原因で生まれました。悪魔の誕生についてはイザヤ書14章の13,14節に記されています。「おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』『』の中が悪魔の言葉ですが、悪魔は常に上に上に上ろうとしています。悪魔は、神様が造られた世界の頂上に上ろうとしているのです。それが悪魔の欲望です。人間の罪の根源にあるのも、これと同じものです。自分が上に上がろうとして、究極的に「神様のようになろう」これが罪の本質です。しかし、悪魔は15節にあるように、よみに落とされ、穴の底に落とされることが決まっています。その時はまだ来ていません。悪魔は、今もなお、人々の心に、特にクリスチャンの心にも働きかけて来て、主イエスを救い主と信じる信仰をつぶそうと必死になっています。

 今日読んだピリピ2章6節から11節の言葉は、それとは真逆の世界が描かれています。恐らく、

この個所は、初代教会の人々が、まだ新約聖書ができていない時代に、主イエスのことをほめたたえるために礼拝の中で歌っていた讃美歌の言葉だろうと思われます。当時は、イエスの言葉を記録したものはまだ存在していかったので、人々は口伝えでイエスがどういうお方で、私たちのためにどのような働きをされたのかを歌にまとめて記憶していたのです。この個所は、聖書の中で「偉大な放物線」と呼ばれる箇所です。それは、悪魔の場合と正反対に、神であるイエス・キリストが天の最も高い所から、人間の住む世界、罪と悪がはびこっている世界に下って来られ、最後には十字架の死にまで従われました。しかし、その十字架の死にまで従ったイエスは、最終的には、父なる神の右の座に着かれて、すべての人が膝をかがめて礼拝すると言われています。上に上にと上っていた悪魔は穴の底に落とされます。一方で、下へ下へと下って行かれたイエスは、天のもっとも高いところまで引き上げられました。ピリピの2章6-11節は、新約聖書の中で、イエスの姿を描いた最も素晴らしい箇所です。今日は、神から引き離されてしまった人間が、このイエスの放物線の働きの結果、もう一度神様との関係に戻ることができる道が開かれたことを学びたいと思います。

  • イエスの本来の姿

 今日の個所で、イエスについて語っている第一の点は、キリストが元々神であるということです。6節に「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えなかった。」と記されています。新改訳では、「御姿」という言葉を使っていますが、もともとはギリシャ語はモルフェーという言葉で、英語ではformと訳されています。「かたち」という意味ですが、ギリシャ語には英語でformと訳される言葉がもう一つあって、スケマと言います。この二つはまったく違う意味を持っていて、モルフェーというのは絶対に変わることのないかたちを意味し、スケマは絶えず変わって行くかたちを意味します。例えば、人間は、赤ちゃんで生まれ、子どもになり、大人になり、そして老人になります。その外見は絶えず変わっています。それがスケマです。しかし、人が人であるということは生まれた時から死ぬまで変わることはありません。それがモルフェーです。従って、キリストが神のモルフェーであるということは、キリストは、神に似た者ではなく、神とまったく同一であり、それは決して変わることがありません。私たちが信じている神は全能の神です。キリストも全能です。私たちの神は、天と地とその中になるすべてのものを造られた天地創造の神です。キリストも天地創造の神です。そして、キリストは、ご自身が言われたとおり、道そのもの、真理そのもの、いのちそのもののお方です。ヨハネが福音書の最初の部分で、キリストを「ことば」と呼んで、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と言ったのと同じことを、パウロは、キリストは神のモルフェーであったと表現したのです。

 そして、パウロは「キリストは自分が神としてのありかたを捨てられないとは考えなかった。」と言っています。回りくどい表現ですが、日本語で「捨てられない」と訳されている部分は、面白い言葉が使われています。「盗む」とか「奪い取る」という意味の言葉です。この文章の意味は、「キリストは、神とまったく同じであるということを、盗むべきもの、奪い取って絶対に手放してはいけないものとは考えなかった。なぜなら、キリストは元々神であり、神としての持つべきものは全部もっておられたからだ」。そのような意味です。キリストを十字架で殺せと叫んだユダヤ人も、なぜそれほどキリストに対して憤慨したのかと言うと、キリストがいつも自分が神であることをはっきり言われたからなのです。ユダヤ人は、神でない人間が自分を神とすることを絶対に赦すことができないのです。

  • 低くなられた神イエス

 キリストについてこの個所が教える第二の点は、神であり、神としての栄光と権威のすべてを持っておられたキリストが人となってこの世に来られたということです。しかも、それは、神の命令できるようにするために、神ご自身が計画されたことです。この計画は、アダムとエバが罪を犯した直後に始まりました。従って、旧約聖書を通じて流れているメッセージは、やがて決められた時に、救い主が来るという預言でした。救い主が来ると言うのは、神ご自身が来られるという意味です。旧約聖書にはキリストが来られるという預言が300以上も記されています。いつ、どこで生まれて、誰をとおして、何のために来られるのか、どのように生き、どのように死に、どのように死からよみがえり、再び天に戻られるのか、そして、再び地上に裁き主として来られるのか、そのようなことが具体的に預言されています。キリストの誕生は本当に不思議な誕生です。そして、その預言のとおりに、今から2000年前に、キリストは人の姿を取ってこの世に来られました。7節にこう書かれています。「ご自分を空しくして、しもべの姿を取り、人間と同じようになられました。人とのしての姿をもって現れました。」ヨハネの黙示録に天国の姿が数多く記されていますが、それによると、天に神の御座があり、そこにおられる神は碧玉や赤めのうのように見え、御座の回りにはエメラルドのように見える虹があり、御座の前には水晶に似たガラスの海があったと書かれています。天国は、どれほど栄光と輝きに満ちた所なのか、私たちの想像を超えています。キリストは、自分の意志で、神としての栄光と特権と輝きを使わないことを決めて、人となってこの世に来ることを決心されました。キリストは神でなくなった訳ではありませんが、完全な人となるために、それらのものを使わないことを決められたのです。そして、この世に来られましたが、生まれたときは馬小屋であり、神の子として働きを始められてからは住む家を持たず、最後の晩餐も借りた部屋で行い、十字架刑の後、イエスの遺体が葬られたのも他人の墓でした。しかし、何よりも、罪のまったくない世界から罪に満ちたこの世に来ることは、キリストにとってどんな大きな犠牲であったでしょうか。私たちは、今の快適な生活の場を離れて、ひどい環境、ひどい衛生状態のところへ行きたいとは思いません。しかし、愛があれば行くことができます。マザーテレサは、インドの貧民街に行って自分の生涯をそこに住む人々のためにささげました。日本にも、戦後、「蟻の町のマリア」と呼ばれた北原玲子(さとこ)さんがいます。彼女は大学教授の娘で自分自身は薬学部を卒業していましたが、カトリック信者になり、当時隅田川にあった「蟻の町」と呼ばれた廃品回収業者たちの居住地での奉仕を始めました。最初はそこに通っていたのですが、その街に住み、貧しい人と共に生活しながら、彼らを助けることを決断し、その街に住みました。彼女の働きで、そこに住む子どもたちの教育環境が改善されたそうです。しかし、無理な奉仕がたたって、彼女は28歳で生涯を終えます。彼女も蟻の町の人々への愛に動かされて、そこに住みました。本人は犠牲とは思っていないでしょうが、回りから見ると、大きな犠牲を払った生涯でした。しかし、それよりもはるかに大きな犠牲を払って、キリストはこの世に来られました。それは、私たちを愛しておられるからであり、神から離れて生きているために、悩み苦しんでいる人々を救い出し、神との関係を回復させるためでした。

 8節に、キリストは「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまでも従われました。」と書かれています。十字架刑は、ローマ帝国で行われていた死刑の方法ですが、最も大きな犯罪を犯した人間の処刑のために用いられました。ローマ帝国は、ローマに逆らう者を見せしめのために十字架刑にしました。十字架は人通りの多い街道の近くに立てられました。裸ではりつけにされた犯罪人は、人々の目の前で恥と苦しみをさらけ出して死んでいきました。これほどの屈辱と苦しみはありません。旧約聖書の時代、ユダヤ人たちは、自分の罪を赦してもらうために、いけにえを動物を携えて神殿に生き、祭司に祈ってもらいました。動物がその人の身代わりとなって殺されて祭壇の上で燃やされました。動物の犠牲によって人々の罪は赦されたのです。主イエスは、その時のいけにえの動物のように、私たちの身代わりとなって、私たちの罪をすべて背負って、罰を受けてくださったのです。本当は、私たちが一人一人、自分の罪のために、その刑罰を受けなければならないのですが、キリストが身代わりになって受けてくださったので、罰を受けなくても良くなったのです。罪の刑罰から救われました。これが、「救い」です。そして、キリストは私たちにこの救いを与えてくださる方なので、「救い主」なのです。主イエスご自身が言われました。「人がその友のためにいのちを捨てる、これより大きな愛はありません。」主イエスは、私たちが神の裁きを受けなくてもすむように、自分が裁きをうけるために自ら進んで十字架にはりつけになってくださいました。十字架は、呪わしい死刑のはりつけの道具ですが、イエスを信じる者にとっては、自分に注がれた計り知れないイエスの愛のシンボルなのです。

 第二次世界大戦中、ポーランドにコルベ神父という人がいました。彼はナチスを批判し、病院になっていた修道院ではユダヤ人も手厚く看護していました。そのためか彼は逮捕されて強制収容所に送られました。1941年7月末、収容所から脱走者が出たために、ナチスは無作為に10人を選んでが餓死刑に処することにしました。庭に整列させられた囚人たちは番号で呼ばれて行きましたが、一人の若いポーランド人軍曹が自分の番号を呼ばれた時に、「私には妻子がいる」と泣き叫びだしました。この声を聞いたコルベ神父は「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出ました。ナチスはこの申し出を許可し、コルベ神父と9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められました。通常、餓死刑に処せられると受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態になって死ぬのが普通でしたが、コルベ神父は全く毅然としていて、他の囚人を励ましていました。時折地下牢の様子を見に来ていた通訳は、地下牢から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言しています。2週間後、コルベ神父を含めて4人がまだ息があったため、ナチスは彼らにフェノールを注射して殺害しました。通訳の証言によれば、コルベ神父は壁にもたれてすわり、その顔は穏やかで、美しく輝いていたそうです。コルベ神父も一人の人を助けるために、自分のいのちを犠牲にしましたが、キリストは神であられるのに、その栄光も特権も脇において、私たちが永遠の滅びに行かないように、私たちに永遠のいのちを与えるために、十字架で、ご自分のいのちを捨ててくださいました。ここに神様の私たちに対する愛がはっきりと示されたのです。主イエスは、あなたを永遠の滅びからすくうためにご自分のいのちを捨てられたのです。

 最後の箇所は、主イエスの栄光の姿が描かれています。主イエスは、神でありながら、十字架の死を経験するまでご自分を低くされて、自分の務めを完了されました。それを見た父なる神は、御子キリストを本来いるべき栄光の場所へとキリストを引き上げられました。主イエスは、神の子として働いておられた時、4回繰り返して言われた教えがあります。それは、「だれでも自分を高くするものは低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」という言葉です。キリストは、まさにその教えを実践されました。イエスの教えの前半は自分で行うこととして、「自分を高くする」「低くする」と能動形で表現されており、後半は、「高くされる」「低くされる」という受け身のかたちになっています。それは、私たちが高くされるのも低くされるのも、自分ですることではなく、神様がしてくださるからです。今日のピリピ5章6節11節まで、前半、イエスは自分の意志で自分を低くされました。自分を空しくして、自分でしもべの姿をとって、自分で人間と同じようになられました。自ら自分を低くして、自分で死にまで従い、自分で、十字架の死にまで従われました。そして、後半はちちなる神様が御子イエスを高く上げて、イエスにすべての名にまさる名をお与えになりました。それは、10節にあるように、天にあるもの、すなわちみ使いたちも、地にあるもの、すなわち、この地にすむ人間も、さらに地の下にあるもの、悪魔や悪魔に仕えている者たちも、みな「イエス・キリストこそ主である」と告白するためです。イエスは、王の王、主の主なるかたで、この世界を最終的に支配される方です。私たちは、このような栄光に満ちた方から、いのちを捨てるほどの愛を注がれています。私たちは、このイエスの愛にどのように答えるでしょうか。

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