2022年10月30日 『魂の渇きを癒すイエス』(ヨハネ福音書4章1-26節) | 説教      

2022年10月30日 『魂の渇きを癒すイエス』(ヨハネ福音書4章1-26節)

 主イエスが神の子としての働きをされたのはわずか3年あまりです。そして、新約聖書に書かれている記事は、その働きのなかのほんの一部にすぎません。したがって、聖書の中で、主イエスが個人的に出会った人の数はとても少ないのですが、イエスが出会った人のほとんどは、名前も書かれていない人であり、人々から見捨てられた人、嫌われていた人、みじめな生活をしていた人でした。今日、読んだ個所でも、主イエスは一人の女性と出会っておられますが、その人も、いわば、人生の裏街道を歩んでいるような生活をしていました。主イエスは、言われました。「わたしは、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19章10節)今日、イエスが出会った女性は、「サマリアの女」と呼ばれています。その人の名前は記されていません。彼女は近所の人々から相手にされないような女性でしたが、主イエスはその人に会うために、その日一日を過ごされました。それは、失われた人を捜して救うためでした。

 4章の1,2節を読みましょう。主イエスが、旧約時代最後の預言者であるバプテスマのヨハネよりも、多くの弟子を作っていることが、パリサイ人たちの耳に入りました。パリサイ人というのは、ユダヤ教徒のグループの一つで、ユダヤ教の世界では強い力を持っていて、主イエスに対して強い敵意と恐れを感じていました。そのため、主イエスはパリサイ人たちとの無意味なトラブルを避けるために、エルサレムを離れて、イスラエル北部のガリラヤ地方に行くことにされました。ガリラヤ地方は、エルサレムから150キロほど北にあるので、まっすぐ北に進めば良いのですが、当時のイスラエルはエルサレムがあるユダヤ地方とガリラヤ地方の間に、サマリヤと呼ばれる地域があり、ユダヤ人たちは、ユダヤとガリラヤの間を行き来するときは、サマリアを通らずに、わざわざヨルダン川をわたって、ヨルダン川の東側の道を通っていました。なぜ、ユダヤ人がサマリアを通らなかったのかと言うと、ユダヤ人とサマリア人は仲が悪かったからです。サマリア人は、ユダヤ人と外国人の混血でした。ユダヤ人たちは、自分たちが神に選ばれた特別な民であるという思いがあり、自分たちの血筋を非常に大切に考えていました。従って、半分外国人の血が混じったサマリア人を、他の外国人以上に嫌っていました。ところが、4節を見ると、この日、主イエスは、「サマリアを通って行かなければならなかった。」と書かれています。主イエスがサマリアを通らなければならない理由は何だったのでしょうか。普段は、ヨルダン川を渡って、川の東側の道を通るのですが、この日は、サマリアを通って行かなければならないと主イエスは考えておられました。それは、神の子としての自分の使命を果たすためであり、この時は、一人のサマリアの女性と出会うことがイエスの使命でした。ただし、主は、その女性と会う約束をしたのではなく、これまで一度も会ったことのない人です。私たちから見ると、この出会いは、たまたまの偶然の出会いに見えるのですが、実は、主イエスが、計画を立てて、彼女との出会いを創られたのでした。このことは、私たちにも当てはまると思います。私たちは、偶然、誰かと知り合いになって教会に来ることが多いです。私も、大学で、友人のグレアム君と出会っていなかったら、今頃、クリスチャンになっているかどうか分かりません。なっていない確率の方が高いでしょう。私たちの出会いは、たまたま同じ年に同じ大学にいたからなのですが、それだけでなく、実は、神様がいろいろプランを立てて私たちが出会うように導いて下さったのだと思います。今日、この礼拝に出席されているすべての方は、自分の知らない所で、知らない時間に、神様が働いてくださって、その結果、今日、ここにいるのだと思います。神様は、本当に不思議で理解できないことですが、このように一人一人のことを心に留めて、働いてくださる方なのです。

 主イエスは、弟子たちと共にサマリヤのスカルという町に来られました。エルサレムから歩くと2日ほどかかる距離のところにあった町です。「そこにはヤコブの井戸があった」と書かれていますが、ヤコブとは、創世記に出て来るアブラハムの孫のヤコブです。もともと、彼が、この土地に井戸を持っていたのでしょう。イスラエルには、村や町を出た所に必ず井戸がありました。それは湧き水の井戸ではなく雨水を貯めておく井戸でした。そして、村や町の人は、一日に、朝と夕方の2回、井戸に来て水を汲んでいました。主イエスは、この井戸に来るためにサマリヤを通られたのですが、2日間の旅で疲れておられたので、井戸にもたれかかって座っておられました。時は第六の時であったと書かれていますが、ヨハネの時間の表し方は独特で、これは正午を指していると考えられています。そこに、一人のサマリヤの女が水を汲みに来ました。主イエスが会うために待っていた人がやって来たのです。水を汲みに来る時間は普通は朝と夕方です。日差しが強い真昼に水を汲みに来る人はいません。彼女が、あえて、この時間に水を汲みに来たのは、人目を避けるためでした。この時、弟子たちは、食物を買いに街中へ出かけていましたので、井戸にはイエスとその女性と二人しかいませんでした。すると、イエスは、その女性に「わたしに水を飲ませてください。」と言いました。女性はびっくりして「あなたはユダヤ人なのに、どうして、サマリヤの女に、飲み水をお求めになるのですか。」と言いました。9節に書かれているように、当時、ユダヤ人は、外国人の血が混じったサマリア人を異邦人以上に軽蔑して、互いに口を聞くことはなかったのです。その女性は、イエスの言葉のなまりや服装からすぐにイエスがユダヤ人だと分かったのだと思います。また、当時、女性の地位は、現在のイスラム社会と同じように、とても低くて、一人前の扱いをされていなかったので、男性から女性に話しかけることはほとんどありませんでした。しかし、主イエスは、この女性、後から分かりますが、かなり生活が乱れた女性でしたが、主イエスは、彼女を差別することなく、ひとりの人間として扱われました。これまで、彼女は、人々から差別され、変な目で見られて、一人の人間として扱われたことがなかったので、自分にごく普通に話しかけるイエスの言葉を聞いて、この人はいったいどういう人なのだろうかと、彼女は主イエスに興味を持ちました。

 すると、主イエスが不思議な言葉を言いました。10節の言葉です。「もし、あなたが神の賜物を知り、また水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたことでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」ここで、主イエスは、「神の賜物」と言い、それを「生ける水」と言い換えておられます。主は14節で、「永遠のいのちへの水」とも言われました。旧約聖書は、よく、人が神様を求める心を水を求めることに例えて表現しています。ファイルの賛美「谷川の流れを慕う鹿のように」は詩篇42篇の言葉を歌にしたものですが、何かで傷を負って熱が出てのどが渇ききった鹿が必死になって谷川の水を探し求めるように、私の魂は神様を求めていますという意味の賛美です。また、預言者エレミヤは、「神はいのちの水の泉である」と言っています。水は、人の渇きをいやすものです。水がなければ人は死んでしまいます。ここで、主が生ける水というのは、私たちの魂を生かすもの、すなわち、私たちに永遠のいのちを与える救いの恵みを指していることが分かります。人は、誰もが心のどこかに渇いたものを持っていて、何かでその渇きを潤そうとします。しかし、この世の中にあるものは、お金であっても、名声であっても、大きな仕事であっても、心の渇きを癒すのは一時的で、またすぐに渇いてしまいます。主イエスは、この言葉を語ることによって、自分が、人々に、永遠のいのちを与える約束の救い主メシアであることを宣言しておられます。

 ところが、この女性は、この時、井戸に水を汲みに来ていたので、主イエスの言葉は文字通り、井戸の水のことを指していると思いました。それで、彼女は、もし、イエスが言うように「生ける水」が井戸にあるとしても、その水をくみ上げるものがなくて、どうやって、その水を与えることができるのかと不思議に思いました。そして、12節で、この女性はイエスに「あなたは私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。」と言っていますが、もしかすると、彼女は、イエスは、いつも使っている先祖ヤコブが掘った井戸ではなく、違う場所から水を手に入れるのかと考えました。すると、いつもヤコブの井戸を使っている彼女には、イエスがヤコブの井戸を役立たずの井戸だと見ているようにも思えて、ちょっと、主イエスに腹を立てたのかも知れません。彼女は、ヤコブの井戸が自分たちにとってどれほど大切なのものか訴えています。そこで、主イエスは、彼女に言いました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」この言葉を聞いても、彼女は、まだイエスが井戸の水の話をしていると思っていました。彼女にとって、水を汲みに来るのは大変な仕事です。水を運ぶのは大変思いですし、水を汲むのは当時女性の仕事だったので、普通の時間に井戸に行けば、町の女の人と顔を合わせることになります。彼女は、その女たちを見るたびに、陰で自分の悪口を言っているのだと思って、とてもいやな思いをしていました。彼女にとって、井戸に水を汲みに来ることは2重に辛いことでした。だから、彼女はイエスの言葉を聞いて言いました。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」この女性は、まだ主イエスの言葉を正しく理解していません。彼女は、主イエスが与える水があれば、毎日、この井戸まで水を汲みに来なくてもよくなる、そう思いました。彼女がイエスの話に関心を持ったのは、イエスの言葉が本当であれば、自分の生活が楽になると思ったのです。しかし、主イエスの語った言葉はそのような目的のためではありません。キリストは、私たちの生活を楽にするためにこの世に来られたのではありません。キリストがこの世に来られたのは、私たちを内側から新しくして、私たちが現実の生活の中で、神様から力と導きを受け取って、生活するようになるためでした。主イエスは、彼女の間違いをはっきりさせるために、あえて、彼女が話したくないことを彼女に言いました。

 「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」ここまで、主イエスは、水を例えにして、人々の魂の渇きをいやすものが、罪からの救いであり、それによって与えられるものは永遠のいのちであることを比喩を用いずに直接に話し始められました。この女性の生きることの辛さ、魂の渇き、それらはすべて彼女の罪の生活が原因であることを、主イエスは知っておられて、また、彼女がその問題をきちんと解決しなければ彼女の、生きる辛さはなくならないことを示されました。主イエスは彼女の問題をすべて知っておられました。彼女は、「私には夫はありません。」と答えました。確かに、この時、彼女には夫はいませんでした。ただ、男性と一緒に生活をしていました。その答えを聞いて、主イエスは、彼女をしかりつけることもなく、批判することもなく、彼女の言葉を暖かく受け取りました。ただ、彼女の問題の本質を主イエスは知っておられたので、イエスは言われました。「自分には夫はいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が5人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは、本当のことを言いました。」主イエスは、この女性を愛しておられましたが、だからと言って、彼女の罪をいい加減にすることはできませんでした。今まで、人々は、彼女の生き方を見て批判していたでしょう。彼女に、厳しい言葉を投げかけていたでしょう。そのために、彼女は他の人々との交わりを遮断していたのです。しかし、イエスは、彼女が清い生活をしていない事実を認めておられますが、彼女を問い詰めたり、厳しく叱ったりせず、むしろ、彼女が嘘をついていないことを褒めています。彼女は、これまで、回りの人々かそのような話し方をされた経験がありません。しかも、主イエスは自分のことをすべて知っておられることに驚きました。それで、彼女は、「先生、あなたは預言者だと思います。」と言いました。彼女が預言者だと言っているのは、ユダヤ人が救い主メシアと言うのと同じです。サマリア人は旧約聖書の中のモーセが書いた最初の5つの書物だけしか持っていませんでした。そして、申命記の中で、神様が「モーセのような預言者を起こそう」と言われた言葉から、サマリヤの人々は、ここで言われている預言者は救い主のことだと考えていたのです。サマリアのこの女性は、キリストとの会話の中で、最初は、水を飲む話をしていましたが、そこから、彼女の個人的な問題へと話が進み、彼女は、その中で自分の罪に気づいて、ここで、イエスが救い主だと告白するに至りました。

 この後、サマリア人とユダヤ人の会話として、彼女はイエスと礼拝について語っていますが、それは、彼女自身が、初めて、礼拝とは何なのかということをハッキリさせたかったからだと思います。今日は、時間の関係で、エルサレムとゲリジムのことについては触れませんが、彼女がイエスに礼拝の場所について尋ねたのは、これからは正しい礼拝をしなければならないと考えたからです。彼女の言葉に対して主イエスが言われたことは、礼拝で大切なのは場所ではないこと、外側の形ではないこと、礼拝は、24節で主イエスが言われたように、「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理よって礼拝しなければなりません。」これが私たちが礼拝する時の正しい姿勢なのです。神が霊であるというのは、神は目には見えませんが今も生きておられることを表しています。私たちは、毎週、神様に礼拝を捧げる時に、神様が今も生きておられることをはっきり自覚して礼拝しているでしょうか。生きておられる神様は私たちに関するすべてのことを見抜いておられます。私たちは、決していい加減な態度で礼拝をするべきではありません。私たちは、神様に対して、相応しい礼拝の心を持っているでしょうか。神様に対して相応しい賛美をささげているでしょうか。サマリアの女性は、この主イエスの言葉を受け入れました。

 彼女が、イエスを信じた瞬間がいつだったのか、聖書にははっきり書かれていませんが、彼女が、自分の罪を悔い改めて、主イエスを信じたことは確実です。彼女の生き方がすっかり変わりました。彼女は、これまで、人々から批判されることを嫌って人目を避けて生きていました。ところが、28節を見ると、彼女は、自分が持ってきた水がめを井戸端に置いたまま、町へ行って、人々に、イエスのことを知らせました。彼女は、主イエスを信じたことで心に喜びが満ちあふれて、黙っているわけに行きませんでした。もはや、彼女には、汲みに来た水のことはどうでも良かったのです。とにかく、自分を新しく作り変えてくださった主イエスのことを人々に伝えたくて、人の目などまったく気にかかることなく、町へ出かけて行って、知らない人々に大きな声で、「私があった人は、約束の救い主です」と証しをし続けました。イエスの弟子たちも町へ出かけていましたが、弟子たちは、誰一人町の人々をイエスのところに連れてくることはできませんでした。しかし、サマリアの女からイエスのことを聞いた町の人々は、その女に連れられて、イエスのところにやって来ました。彼女は罪深い女性でしたが、イエスと出会ってから、12人の弟子たち以上に、主イエスのことを人々に伝える人間に変えられました。彼女は、人々に難しい話をして伝道したのではありません。彼女が人々に言ったことは、「私の人生を変えてくれた方を来て、見てください。」だけでした。彼女は、主イエスに出会って、神様のために非常い大きな働きをする人に変えられました。私たちの生き方を変えるのは、主イエスと出会うことです。主イエスを信じ、主イエスと共に生きる者は、喜びと感謝にあふれて生きるようになります。あなたも、主イエスと共に生きる人生を始めて見ませんか。

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