2022年11月6日 『新しく生まれ変わる人生』(ヨハネ福音書3章1-8節) | 説教      

2022年11月6日 『新しく生まれ変わる人生』(ヨハネ福音書3章1-8節)

 先週は、主イエスがサマリヤ地方に住んでいた一人の女性と出会った出来事を読みました。この女性は、名前も書かれていませんし、当時の社会では人々から白い目で見られるような生活をしていました。しかし、彼女は、主イエスと出会って、人生が変えられ、人の目を恐れて家の中にこもっていた人が、まったく人を恐れず、人々の所へ行って主イエスのことを話すようになりました。彼女も、主イエスと出会って人生が変えられた人の一人でした。今日も、主イエスと一人の人との出会いについての記事を読みますが、今日、主イエスと出会った人は、「ニコデモ」という名前を持っていましたし、そのことを聖書にも記されているので、この人は、当時の社会で、とても身分が高い人であったか、有名な人であったのかも知れません。ニコデモの人生が主イエスと出会ってどのように変わったのかを見て行きたいと思います。

 1節を読みましょう。「さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。」ここにニコデモのことが記されていますが、彼はパリサイ人でした。パリサイ人というのは、イエスの時代のユダヤ教の主要なグループでした。彼らは旧約聖書の律法を守ることを最も大切なことと考えていて、聖書の知識に富実、清い生活をしていたので、ユダヤ人の間では尊敬されていました。ただ、彼らは、イエスの教えは正当な旧約聖書の教えをゆがめていると感じて、イエスを危険人物と見なし、主イエスを監視したり、批判したりしていました。また、彼はユダヤ人の議員であったと書かれています。それは、ユダヤの最高議会であるサンヘドリンという議会の議員でした。サンヘドリンの議員の数は70人でした。日本でも国会議員には、いろいろな特権が与えらているように、サンヘドリンの議員というのはユダヤ最高の地位であり、大きな権限も持っていました。彼には「ニコデモ」という名前がつけられていましたが、ニコデモというのはギリシャ語の名前で「民の征服者」という意味の名前です。当時の世界では、ギリシャの文明が最も進んでいました。それで、ユダヤの国の上流階級の人でギリシャで教育を受けたことがある人は、よく自分の子どもにギリシャ語の名前を与えていました。したがって、彼は、裕福な上流階級の人間であり、まじめに生きるパリサイ人であり、高い教育を受けて国会議員をしている、当時のユダヤのエリート中のエリートでした。

 2節にはこう書かれています。「この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生、私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは誰も行うことができません。』」ニコデモは、有力な国会議員

で、エルサレムでも有名人であったと思います。人生経験の豊富な年配者であり、有名な知識人であり政治家であったニコデモが、誰かのところに教えを受けに行くということは、普通ないと思います。しかも、主イエスは、ユダヤ教で影響力を持つパリサイ派の人々からは、異端者として危険視されていました。そのような人がイエスに会いに行けば、今日で言うと、自民党の議員が統一教会の幹部に会いに行くようなものなので、自分の身にも大きな危険がありました。また、いつも人々から先生と呼ばれていた彼のプライドもあったかも知れません。いずれにせよ、ニコデモは、人目を避けて夜、イエスに会いに来ました。彼は、誰か使いを送って、その人にイエスが誰なのかを調べさせることもできたと思いますが、彼は、何としても自分自身で、イエスと話したいと思いました。

 ニコデモは、主イエスに尊敬の気持ちを表して、イエスを「先生」と呼んでいます。ユダヤの社会で、非常に身分の高かったニコデモが年の若いイエスを「先生」と呼んでいるのです。彼の仲間のパリサイ派の多くはイエスを危険人物死と見なしていましたが、彼にはそのような偏見はありませんでした。彼は噂ではなく、真実を知ろうとしていました。彼は続けてこう言いました。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしはだれも行うことができません。」ニコデモも、多くの人々と同じように、まず、イエスが行われたしるしに心を引かれました。2章の23節を見ると、「主イエスが、過越しの祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた」と書かれているので、ニコデモも、エルサレムのどこかでイエスが奇跡のわざを行われたのを目撃していたかも知れません。彼には、イエスのしるしは神の力によるものとしか思えませんでした。また、ニコデモは、バプテスマのヨハネが言っていた言葉を思い出していたかもしれません。バプテスマのヨハネとは、イエスが来られる前、旧約聖書の最後の預言者ですが、イエスが現れる前から、ヨルダン川で人々に救い主が来る前の備えとして悔い改めのバプテスマを授けていました。その時に、ヨハネは「わたしの後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです。」(1章30節)と言っていました。ニコデモは、心の中で、「もしかすると、このイエスは、旧約聖書に記された約束の救い主かもしれない」と考えていたかも知れません。

 ニコデモは、自分の地位や年齢や経験に関わらず、何か満たされないものを感じていたのだと思います。それが何なのかをイエスに尋ねようと思っていましたが、彼には尋ねる勇気がなく、イエスについて自分が感じていることを話しました。ただ、ニコデモには、まだイエスが救い主メシアであるとの確信がありませんでした。彼はイエスが行う不思議なしるしを見て、イエスは神から遣わされた特別な賜物を持つ教師だと考えていました。そのようなニコデモに対して、主イエスはニコデモの心の覆いを知っておられたので、単刀直入に、ニコデモが確信が持てなった問題に触れて言われました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。主イエスが「まことに、まことに」という言葉を言われる時は、その言葉が非常に大切なメッセ―ジであることを示します。「まことに」と訳されたギリシャ語は「アーメン」という言葉です。私たちは祈りの終わりにアーメンと言いますが、それは「真実です」という意味で、今祈った祈りは私の真実な祈りですという意味を言い表しています。したがって、ここで、イエスがアーメン、アーメンと繰り返して言われたのは、その言葉は、自分の真実に基づく約束であることを意味します。イエスは「神の国」について語られました。ニコデモは、神の国ついて何も言っていませんが、主イエスには、彼の本当の悩み・不安が、彼が死んだ後に天国に行くことができるのかどうか確信がないということを見抜いておられたので、主イエスは、ニコデモの疑問に答えておられるのです。そして、神の国を見るためには「新しく生まれなければならない」と主イエスは言われました。「新しく生まれる」という表現は、「上から生まれる」、「天から生まれる」という意味を持っています。従って、新しく生まれるとは、神様によって新しい誕生を経験するという意味です。しかし、知識人のニコデモでしたが、彼にはイエスの言葉の意味が分かりませんでした。ニコデモにとって、「生まれる」とは赤ちゃんが生まれることとしか考えられなかったからです。ニコデモはイエスにとんちんかんな質問をしています。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」ニコデモは、高い教育を受けた人ですから、人間が母親のお腹の中にもう一度入ることなどできないことは分かっています。ただ、彼には、イエスが言った「新しく生まれる」と言う言葉の意味が理解できなかったので、このような言葉を言ったのです。

 それに対して、イエスは、言い方を変えて言われました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ神の国に入ることはできません。」今度は、新しく生まれることを「水と御霊によって生まれる」という言い方をしておられますが、これはどういう意味なのでしょうか。いくつか解釈がありますが、聖書で、水はきよめる力のシンボルとして描かれています。ニコデモは聖書のことをよく知っていましたから、エゼキエル36章25,26節の言葉をよく知っていたと思います。そこにはこう書かれています。「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに、新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのここからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」これは神様が私たちに聖霊を与えることを約束した預言の言葉です。聖霊が働く時に、水が汚れを洗い流すように、私たちの心の中の罪や汚れが洗い流されることを意味します。主イエスは、天国に入るためには、今の行き方に何かよい行いをプラスすることではダメであること、聖霊の働きよって、全く新しく生まれ変わる経験をしなければならないと教えておられるのです。

 ところで、聖霊とは誰なのでしょうか。聖書は、愛の性質を持つ神様は、3つの存在が一つとなって完全に調和して存在していると教えています。愛することのシンボルである、父なる神、愛されることのシンボルである主イエス、そして、愛そのものである聖霊が完全に一つとなって存在しています。天と地を創造された神様は、人となってこの世に来られました。御子イエスです。御子イエスは私たちの罪の罰を身代わりとして受けてくださり、私たちに変わって十字架の罪の罰を受けてくださいました。しかし、御子イエスは三日目に死からよみがえり、天の父なる神のもとへ帰られました。主イエスが天に戻られたとき、イエスの目に見える体は地上から取り去られました。しかし、その後も永遠に信じる者たちと一緒にいるために、聖霊を送ると約束されました。そして、約束のとおり、主イエスが天に帰った10日後に、イエスを信じる者たちのうえに聖霊が与えられました。聖霊は、主イエスが約束されたように、いつまでも私たちとともにおられることを証しする霊です。まとめて言うと、「水と霊によって生まれる」とは、自分の努力によって、神様のためにたくさん働いたり、神様の目により良い人間として生きることでは入れないことを表し、私たちが、聖霊の働きをとおして自分の罪を悔い改めて、イエスがともにおられることを示す聖霊によって、主イエスを救い主と信じ、これからは神様の命令に従って生きて行こうと決心して、新しい人生を始めるひとが、水と霊によって生まれる人ということになります。

 主イエスとニコデモが話をしていた夜、突然、二人の誓うでひゅーっと風が吹いたのかもしれません。主イエスは、「風」を例えにして、聖霊によって生まれるということについて教えられました。実は、ユダヤ人の言葉であるヘブル語でも、また、新約聖書の言葉であるギリシャ語でも、「風」と「霊」は同じ言葉を使うのです。風はよく吹いていますが、風そのものを見ることはできません。どこから吹いてきてどこへ行くのか見えません。しかし、風が吹くと、木の葉が揺れたり、雲が流れたり、煙が流れたりするので、風が吹いていることは分かります。それと同じように、水と霊によって生まれるということは、人間の目に見えるものではありません。しかし、水と霊によって新しく生まれた人は生き方が変わるので、その人が新しく生まれたことは他の人々にも分かるのです。しかし、その働き方は一人一人違います。風に、そよそよ吹く風もあれば、台風のような激しい風もあります。しかし、どちらも同じ風です。人が新しく生まれることも、穏やかな生まれ方もあれば、激しい生まれた方もあります。大事なことは、まず、自分が神様の前に罪人であることを認めて、悔い改めることです。そして、主イエスを救い主と信じると告白する時に聖霊が働きます。それは、誰も、聖霊の働きなしに、イエスは主ですという真実の告白はできないと聖書に書かれているからです。それは、何か胸がどきどきするとか、涙があふれるとか、そのような体験ではありません。これから新しい生き方をすることを決断することが一番大切です。すると聖霊が働くのです。それが生まれ変わりです。人間の努力ではありません。努力することは大切なことです。しかし、新しく生まれるのは、神の働きであって、人間の努力の結果ではありません。人間の努力がもたらすのは人間的な結果です。パリサイ人は人間の努力を重要視しました。しかし、その結果、彼らは傲慢になり他の人を見下すようになりました。そして、彼らは新しく生まれ変わることがありませんでした。ヨハネの福音書1章12,13節を読みましょう。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」大切なことは、神様を受け入れることです。言い方を変えると、神様のところに飛び込むことです。あとは、神様が働いてくださって、私たちは、神によって新しく生まれるのです。

 かつて水野源三さんという瞬きの詩人と呼ばれた人がいました。子どもの時の熱病により目と耳以外の機能をすべて失い、意思表示は瞬きだけでした。水野さんはずっと寝たきりでしたが、近くの教会の牧師先生が通い続けてくださり、水野さんは聖書を読み始めました。パン屋をしていたお母さんが時間を見計らってページをめくっていたそうです。死にたいといっていた水野さんが、主イエスの十字架の意味を知って、イエス様を信じました。その時から、水野さんの生き方が変わりました。お母さんが、水野さんが何か言いたそうなので、あいうえおの五十音表を一つさして、水野さんが言いたい文字のところにくると水野さんが瞬きすると言う方法で、水野さんの気持ちを知ることができました。その時から、水野さんの口から次々に言葉が出て来ました。そして詩が生まれました。

悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう

お前が来なかったら つよくなかったなら

私は今どうなったか

悲しみよ悲しみよ お前が私を

この世にはない大きな喜びが

かわらない平安がある 主イエス様の

みもとにつれて来てくれたのだ

焚火の温かさは 焚火に手をかざした

その時に はっきりと分かりました

焼きいものうまさは 焼きいもを食べた

その時に はっきりと分かりました

キリストの愛は キリストを信じた

その時に はっきりと分かりました

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