2022年11月13日 『あなたの永遠はどこですか』(ルカの福音書16章19節~31節) | 説教      

2022年11月13日 『あなたの永遠はどこですか』(ルカの福音書16章19節~31節)

 聖書は、特別な書物です。主イエスキリストについて書かれた新約聖書でも2000年も前に書かれた書物ですが、今なお、世界でベストセラーですし、もっとも多くの言葉に翻訳されている書物です。歴史の通じて、聖書は多くの人に大きな影響を与えてきました。そのメッセージの内容は2000年前から今日まで、何一つ変わっていません。皆さんは、第16代アメリカ大統領リンカーンが行った有名なゲティスバーグ演説をご存知でしょう。その中でリンカーンが語った「人民の人民による人民のための政治」という言葉が人々の記憶に刻まれましたが、実は、この言葉は彼が創り出した言葉ではありません。この言葉は、14世紀に聖書を初めて英語に翻訳したウィクリフという人の言葉です。彼は「聖書は、人民の人民による人民のための政治を可能にする書物である。」と言ったのです。このように人類に大きな影響を与えてきた聖書が、はっきりと教えていることの一つは、この世の生活につづいて次の世の生活があり、次の世の生活は、今のこの世での生活によって決定されるということです。」私たちは、この世で生きる時、大切にするものがあります。健康、才能、財産などです。しかし、それらのものはすべていつかは手放す時が来ます。それらのものはすべて一時的なものだからです。したがって、この世で生きる時に、この世のことだけを考えて生きていると、この世の生活が終わるときに、私たちはあわてることになります。今日の個所は、「金持ちとラザロ」という聖書の中でも有名な話の一つです。この世での生活状況がまったく異なる二人の人間が主人公です。一人は金持ちですが、名前は記されていません。もう一人は、その金持ちの家の前で乞食をしていたラザロです。主イエスは、この二人の物語を語ることを通して、私たちに、この世の生活が終わる時に慌てなくてもよいように準備をしなければならないことを私たちに教えようとされました。

  • 金持ちとラザロの地上での生活

 16節を読んでみましょう。「ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」これを読むと、彼は王様か大金持ちの暮らしをしていたことが分かります。彼は紫の衣を着ていましたが、これはウールのコートのような上着ですが、当時、紫色は、地中海でとれる貝から出る物質を使って染めていたので、紫の衣は非常に高価なものでした。王様はいつも紫の衣を着ていました。また、その下には、彼は亜麻布を着ていましたが、亜麻布はエジプトから輸入された高価な布で、エジプトでは王様のミイラを作る時に、王様の体を亜麻布で包んでいました。毎日働く必要もなく、広大な豪邸に住んでぜいたくに遊び暮らしていたのですから、当時の社会では、誰からもうらやましがられる人物であったでしょう。一方、その金持ちの豪華な邸宅の外には、ラザロという人が寝ていましたが、彼は、何かの病気が原因なのか体中にできものができていました。彼は働くこともできず、金持ちの家から捨てられた食べ物を拾って食べていました。哀れなことに、野良犬がやってきて、彼の体のできものをなめていました。彼にはラザロという名前がついていましたが、ラザロとは「神は助けられる」とか「神は助け主」という意味なので、彼の家族は聖書の神様を信じる信仰を持っていたはずですし、物語の続きを読めば、彼も、神様を信じていたことは明らかです。彼の名前に反して、彼は他の人からも神様からも助けは与えられませんでしたが、ラザロは、こんなみじめな生活をしながらも、神様に対してはっきりと信じる信仰を持っていました。

 金持ちの男と乞食のラザロは、まったく対照的な人生を行きました。二人の生活環境はまったく違っていましたが、死は二人にまったく同じように訪れました。先に、ラザロに死が訪れました。22節にこう書かれています。「しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。」ラザロには恐らく彼の面倒を見る家族はおらず、彼を葬ろうと考える人もいなかったでしょう。このような人の遺体は、普通、エルサレムの南側にあった「ヒンノムの谷」と呼ばれた谷に投げ捨てられました。ラザロは、人間からは完全に無視された状態で死にました。しかし、彼は、み使いたちによってアブラハムの懐に運ばれました。ラザロは、死んで天国に行きましたが、天国の中でも、ユダヤ人にとって信仰の父であるアブラハムの懐という最高の場所に送られました。アブラハムの懐とは、アブラハムの胸です。これは当時のユダヤの宴会の席を例えとして言われた言葉です。最後の晩餐の時もそうだったのですが、当時、人々は低いテーブルの前で肘をつき、足を投げ出して食事をしていました。宴会の主人公の右側にいる人が主人公の次に重要な人と見なされました。ラザロはアブラハムの右側にいたので、彼の後ろにアブラハムの胸があるので、ラザロはアブラハムの胸に寄りかかって、アブラハムと親しく話すことができたはずです。最後の晩餐の時には、主イエスはこの場所をイスカリオテのユダに与えておられました。ラザロがアブラハムの懐に連れて行かれたのは、彼が貧しくてかわいそうな人だったからではありません。彼は、本当にみじめな人生を行きましたが、それでも、彼は神様を言葉を信じ神様を信頼したからです。

 続いて、金持ちの男も死にました。22節には「金持ちもまた、死んで葬られた。」と書かれてます。「葬られた」と書かれていますから、きっと、この男の葬式は安倍首相の国葬とまでは行かないとしても、相当豪華な葬式が行われたと思います。町中の人が葬式に参列し、この男の死を悲しみました。豪華な棺に入れられた彼の遺体は、豪華で美しい墓に納められました。しかし、彼の死は、そこで終わったのではありません。この金持ちは、豪華な衣服を脱ぎ、持っていた財産は他の人の手に残して、彼がこの世で持っていたものをすべてはぎとらた状態で、彼の魂も、ラザロの魂と同じように死んだ後の世界に連れて行かれました。聖書は、神を信じている者の魂も信じていない者の魂も、全員、死者の世界に行くと教えています。そこで、それぞれの魂は、最終的な神様の裁きを待つことになるのですが、神を信じる者の魂が行く世界はパラダイスと呼ばれ、神を信じない者が行く世界はハデスと呼ばれています。地上の生活において、他の人の苦しみや悲しみには無関心で、ただ自分が面白く楽しく過ごすことだけを考え、神から遠く離れた生活をしていた金持ちの魂は、希望も平安もない場所へ送られました。

  • 金持ちの男の訴え

 この主イエスの教えは実際の出来事とではなく例えとして話されていますので、パラダイスとハデスが地理的に近いと言うことをこの話が意味している訳ではありません。ただ、この話の中で、金持ちの男はパラダイスでアブラハムの隣にいるラザロの姿が見えました。そこで、彼はアブラハムに向かって叫びました。「父アブラハムよ。私を憐れんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。」まず、このことから分かることは、私たちの魂は死んだ後眠るのではなく、はっきりとした意識があるということです。ラザロはパラダイスで、父アブラハムの隣で安らぎと喜びを感じていました。一方、金持ちの男はハデスで、大きな苦しみを感じていました。彼は「父アブラハム」と呼んでいますので、自分がユダヤ人であるので、先祖のアブラハムに助けを求めることができると考えていました。金持ちは「私を憐れんでラザロをお送りください」と言いました。これは祈りです。金持ちはハデスに行ってはじめて祈りました。しかも、アブラハムに憐みを求めているというのは、彼が、なぜ自分がハデスに来ているのか、分かっていたことを表しています。彼はアブラハムに自分には罪がないのでハデスに送られるのはおかしいとアブラハムに訴えていません。彼は人生で初めて憐みを求めて祈りました。しかし、彼がアブラハムに自分のもとにラザロを送る様に頼んでいることを見ると、この金持ちはラザロに対する考え方が変わっていないことが分かります。

 彼の祈りに対して、アブラハムは優しく答えています。アブラハムは金持ちの男に「子よ。」と呼び掛けていますので、アブラハムは彼を自分の子孫として認めています。しかし、アブラハムはその男が神を信じないで生きていたので、彼の要求を断りました。金持ちは、地上の生活では、良い物をたくさん受けていました。しかし、それは死後の世界に持って行くことはできません。死んだ後の世界は、その人が神を信じていたのか信じていなかったのかによって決まるからです。一方、ラザロは、地上の生活では何も良い物を受け取ることができませんでした。しかし、それでも、彼は神様への信仰を堅く持っていたので、死んだ後には、神様から永遠の慰めと平安を受けました。さらに、アブラハムによると、パラダイスとハデスの間には大きな淵があって、互いに行き来することはできません。地上で生きている間には、私たちは、神様を信じる道へと入ることができますが、死んだ後には、その状況を変えることはできません。生きている間に、私たちは自分の永遠の運命を決めなければならないのです。しかし、生きている間であれば、私たちはいつでも神様を信じることができます。

 すると、今度は、金持ちの男は、自分の兄弟のためにアブラハムに祈りました。彼には5人の兄弟がいましたが、彼らがハデスに来ることがないように、ラザロを地上に送って家族に警告してほしいとお願いしました。金持ちの男は、こじきのラザロが死からよみがえって彼の家族の所へ行って死後の世界のことを話したら、きっと家族は神様を信じて、ハデスの苦しみを逃れることができると考えたのでしょう。しかし、アブラハムの考えは異なっていました。アブラハムはこう答えています。「彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。」モーセと預言者とは、旧約聖書のことです。アブラハムが言いたいことは、生きている者たちには聖書の言葉があり、彼らはその言葉を読んで、神様を信じることができるから、ラザロがわざわざ死者の世界から今の世界に戻る必要はないということです。私たちが、罪を赦されて救いを受けるために必要なのは、神様の言葉だけです。しかし、金持ちの男は、アブラハムの言葉に反論しています。「いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中からだれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。」金持ちの言葉には、こんな気持ちが含まれています。「もし、俺が生きている間に、誰かが死者の世界からよみがえって、死後の世界のことを教えてくれていたら、おれだってきっと神様を信じていたはずだ」彼は、救われるためには、聖書の言葉だけでは不十分であり、だれか特別な人の体験談が必要だと主張しています。そして、それはまた、彼にとっては、自分が生きていた時に神を信じなかったことへの言い訳なのです。今の時代の多くの人も、この金持ちと同じように、「聖書の言葉だけで神を信じることは難しい。何か特別なしるしがなければ、信じられない。」そのように思っています。彼の心は神の前に傲慢でした。自分たちが信じるためには、神にあれをしろ、これをしろと命令しているようなものだからです。しかし、本当に、特別なしるしがあれば人々は信じるでしょうか。」主イエスは、群衆の前でおおくのふしぎな業を行われましたが、それでも、多くの人は主イエスを信じませんでした。ある時、主イエスが悪霊を追い払われたことがありましたが、その時も、ある人々は、イエスを救い主とは信じないで、イエスは悪霊を使って悪霊を追い払ったと言いふらしていました。アブラハムは言いました。「モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、誰かが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」主イエスの言葉を信じなかった人々は、主イエスが死からよみがえって人々の前に姿を表されても信じませんでした。

 聖書は、地上での生活は、死んだ後の世界への準備の時であると教えています。地上の生活のことだけを気にして生きて行くなら、死を迎える時に、慌てることになります。聖書のメッセージは昔から何一つ変わっていません。人には一度死ぬことと、死んだ後に、神のさばきを受けることが定まっていると聖書は教えます。聖書の教えが真実であれば、信仰を持つことは、私たちにとって人生の飾りのようなものではなく、永遠に生きるか永遠に死ぬかの問題です。そのことを覚えながら、私たちは毎日の生活を過ごさなければなりません。私が、皆さんに主イエスを信じることを進めるのは、聖書の教えが真実だと信じるからです。私たちは、自分の親しい人が危険な目に会うことが分かるとき、絶対に注意します。例えば、友だちが歩いている時、少し前に落とし穴が掘ってあったら、絶対に「危ない!気をつけろ!」と叫びます。危険な目に会ってほしくないからです。あなたは、自分が死んだ後、どうなるか知っていますか。聖書以外に、人が死んだ後どうなるかハッキリと教えているものがあるでしょうか。神様は、主イエスを十字架にかけることによって、私たちに、イエスを救い主と信じるだけで、罪の赦しと永遠のいのちを与えると約束しておられます。信じないのは自由なのですが、もし、聖書の教えが真実であったらどうなるでしょうか。                                                                                                                                                                                                                                                               

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