2022年11月20日 『キリストの復活と信者の復活』(1コリント15章20-28節) | 説教      

2022年11月20日 『キリストの復活と信者の復活』(1コリント15章20-28節)

 今日は、私たちの教会で年に一度行っている召天者記念の礼拝です。この記念礼拝は、私たちの教会の教会員や関係する方々が、私たちよりも先に天に召されたことを思い起こし、あらためて、主イエス・キリストを救い主と信じる者に約束されている永遠のいのちの素晴らしさを聖書から改めて確認する礼拝であり、また、ご遺族の方々の悲しみや寂しさを分かち合いつつ、聖書の約束からそれらの方々にとって慰めの時となることを願う礼拝です。私は、牧師として、講壇から、高いところから聖書のメッセージを語っておりますが、クリスチャンが他の人と違うところは、主イエスを救い主と信じて生きているということだけです。私たちは、決して聖書に通じて悟りを得た者ではありませんし、人間的に優れている訳でもありません。私たちは、聖書を通して、主イエス・キリストというお方を知り、キリストの十字架が私たちのための犠牲を払った死であったことを知り、イエス・キリストを信じる時に永遠のいのちが与えられることを知って、主イエスを信じた者にすぎません。主イエスを信じたことによって、永遠のいのちが与えられたことが、感謝であり、本当に素晴らしいことなので、まだそのことを知らない人々にもぜひ、これはお得なことだから知ってもらいたいという気持ちで、私は語っていますので、時々、押しつけがましく聞こえる時があるかも知れませんが、私の気持ちをご理解いただければと思います。私は、2年前に母をなくしました。母は、同じマンションの私たちの部屋の真上の部屋で兄と二人で暮らしていました。母が弱ってからは兄がつねに母の世話をしていました。ただ、兄にとって残念だったのですが、母がなくなった朝、私が最初に母の死に顔を見ました。朝7時過ぎでした。息がないことを知った時、すごく悲しかったのですが、同時に、母の顔が本当に安心したような顔だったので、私は、母の魂は、平安の中で神様のもとへ召されたのだと確信して、ホットする気持ちにもなりました。母は50歳の誕生日の日にイエス様を信じたのですが、それ以来94歳でなくなるまで信仰一筋の生涯でした。最後の2年ほどは聖書を読むこともできなかったのですが、お祈りはいつも立派なお祈りをしていました。私は、母と昔の思い出話しやたわいのないことを話すのがとても楽しかったです。年を取るにつれて、本来の性格が出て来たのか、よくひょうきんなことを言って、私たちを笑わせてくれました。小さなことなのですが、そのようなおしゃべりができないことは、私にとってはとても寂しいことです。しかし、母の魂は、今、神様のもとに移されていることを確信していますので、私が死んだらまた会えるという希望があります。永遠のいのちが与えられるという約束を保証するものが何かと言うと、それは、主イエス・キリストご自身が復活されたことによるのです。今日の聖書の個所は、私たちの復活の約束を保証するイエス・キリストの復活について書かれている箇所なので、その箇所を今日は共に読みたいと思います。

  • 初穂として復活されたイエス

 20節を読みましょう。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」ここで、眠った者とは、主イエスを信じて死んだ人のことです。キリストは、眠った者の初穂として復活されました。初穂とは何でしょうか。旧約聖書時代のユダヤ人は、穀物を収穫する時に、その年一年間の収穫ができることの感謝の気持ちを表すために、最初に刈り取った穂、すなわち、初穂を神様に捧げていました。初穂とは、その年一年間に収穫できる穀物を代表するもので、農夫たちは、この収穫が得られたことの陰には神様の助けがあったことを覚えて、感謝のっ捧げものとして捧げていました。初穂の後に収穫されるものは、すべて初穂と同じように成長し、そして、初穂と同じように収穫されます。従って、主イエス・キリストが初穂として復活されたということは、主イエスを信じる者も、主イエスとまったく同じように復活することを意味します。ここで、眠った者とは、主イエスを信じて死んだ人だと言いましたが、その人の魂は、死んだ時に、その人の肉体を離れて、神様のもとへ移されます。しかし、その体は遺体や遺骨として墓の中に残っています。そのクリスチャンの魂は、神様がお定めになったこの世の終わりの時に、主イエスが復活されたのとまったく同じように復活します。それで、20節では、キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられたと語っているのです。

 この手紙を書いたパウロは、続く21、22節で、クリスチャンの魂の復活について、別の角度から説明しています。21、22節を読みましょう。「死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。」パウロは、主イエスの十字架の死と、最初の人間アダムの死とを比較して説明しています。アダムは、神様が造られた最初の人間で、全人類の祖先です。アダムはエバとともに、神様が食べることを禁じていた木の実を食べたことによって、神に対して罪を犯しました。神様が二人にあらかじめ警告していたとおり、この実を食べた者は死ぬ者となりました。私の想像では、人間の体は、最初に造られた時には死なない体であったと思います。人間の体は、けがをすると自然にその傷を治す力を持っています。人間の皮膚は1か月に1回新しいものに変わります。しかし、いつからか、その再生のシステムが完全に作動しなくなって、人間の体は老化が始まります。人間の体が老化する仕組みはまだ科学でも明らかになっていないそうですが、きっとアダムとエバの罪によって、人間に死というものが入り込んだ結果だと思います。そして、アダム一人の人間の罪によって、彼の後彼から生まれて来るすべての人間は死ぬべき者として生まれるようになりました。しかし、それが人間にとって最大の問題となる死ではありません。アダムとエバが神様の命令に背いた結果、すべての人間の体だけではなく、魂も死ぬべきものとなってしまったのです。しかも、魂の死は永遠の滅びに繋がるのです。聖書は、この魂の永遠の死が、人間にとって最大の問題だと教えています。

 従って、21節も22節も前半に書かれていることは非常に深刻なことなのです。しかし、後半には素晴らしい約束が記されています。それは、主イエスの復活がもたらす事柄です。一人の人アダムの反逆の罪が、全人類に体と魂の死をもたらしたのと同じように、キリストの復活は、すべての人の魂に永遠のいのちを与えることができるのです。21節と22節は、一人の行為がすべての人のに大きな影響を与えるという点で、アダムとイエス・キリストが比べられています。主イエスを救い主と信じる人は、皆、一人のお方であるキリストの復活によって、永遠のいのちを与えられると約束されています。22節の後半に「キリストにあってすべての人が生かされるのです。」と書かれています。主イエスご自身が次のように言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。」だから、クリスチャンのお葬式は、確かに悲しい面がありますが、絶望ではありません。クリスチャンには、亡くなられた方の魂は、神様と共にあって、永遠に平安の中で生き続けるという確信があるからです。

  • キリスト者の復活

 ここまで、パウロは、主イエス・キリストの復活は、初穂としての復活であり、その後に続いて、主イエスを信じる者が同じように復活することを述べて来ましたが。実際に、クリスチャンは、死んだ後、どのように復活するのでしょうか。23節で、パウロはそのことについて述べています。この復活にははっきりとした順番があります。まず、初穂としてキリストがよみがえられました。今から2000年前のできごとです。2000年前の人にとっても、死んだ人が生き返るなんてまったく信じられないことです。しかし、世界の歴史の流れを見ると、その時に、主イエスの復活があったとしか思えないように進んで行きました。主イエスが十字架に掛けられた時、中心的な信者の数は120人ほどでした。また、イエスの弟子たちは、3年も主イエスから弟子訓練を受けていながら、イエスが十字架にはりつけになった時、みんなイエスを見捨てて逃げて、ユダヤ人に見つけられないように隠れました。ユダヤ教のリーダーたちは、主イエスが何度も繰り返して「わたしは十字架にかけられるが、三日目には死からよみがえる」ことを預言しておられたことを知っていました。彼らは、イエスの弟子たちがイエスの死体を盗んで、イエスの復活を宣伝されると困るので、ピラトに願い出て、イエスの墓の前にローマの兵隊が見張りとして立つことになりました。もっとも、イエスの弟子たちは、ユダヤ人を恐れていたので、イエスの死体を盗もうと考える弟子はいませんでした。そして、ローマの軍隊は当時、絶対的な力でエルサレムを支配していましたが、イエスの死体を発見することはできませんでした。イエスの墓が空であったこと、イエスの遺体が見つかっていないことに加えて、最も強力な証拠は、弟子たちの変化です。イエスの12弟子たちは、イエスが十字架に掛けられる前、イスカリオテのユダの裏切りでイエスがローマの軍隊によって逮捕された時、皆、イエスを見捨てて逃げて行きました。イエスが復活した日も、弟子たちは、誰もイエスの復活を信じておらず、誰もイエスの墓を見に行きませんでした。また、自分たちも捕まえられるのではないかとユダヤ人を恐れていたので、弟子たちは、エルサレムのある部屋に隠れていました。そんな弟子たちが、イエスの復活の後、すっかり変わってイエスの復活を大胆に証言する者に変えられて、キリスト教はローマ帝国の東の果てにあったエルサレムから、アッと言う間にローマ帝国全土に広がり、30年後には首都のローマの町にも、皇帝が恐れを感じるほど多くのクリスチャンがいました。主イエスの復活が作り話であったら、歴史はこのように動いていたでしょうか。当時のクリスチャンに対する迫害は非常に厳しいものでしたが、信仰者はどんどんと増え、また、彼らの多くが、イエスの復活を信じる信仰のゆえに殺されました。ローマにあるコロッセオは、そのころ、クリスチャンの処刑場として用いられていました。多くのローマ市民が集まって、処刑の現場を見ていました。そんな中、木にはりつけにされて火をつけられて焼き殺されたクリスチャンは、皆、堂々と讃美歌を歌いながら死んでいったそうです。イエスの復活が偽りであることを知っていながら、人々はこのような死に方ができるでしょうか。やはり、イエスの復活があったと思わざるを得ません。

 イエスは、初穂としてよみがえられましたが、その後に、クリスチャンたちもイエスと同じように復活します。イエスが復活された時、イエスの姿は以前と同じでしたが、その体の質が完全に変わっていました。聖書は、栄光の体で復活したと教えています。復活の前のイエスの体は、私たちとまったく同じ体でしたので、主イエスは、たちと同じように空腹やのどの渇きや疲れを覚えておられました。しかし、復活後のイエスは、すべて戸が閉じられた部屋の中に突然現れたり、突然姿を消したり、不思議な動きをしておられます。それは、イエスの体がいろいろな弱さを持つ肉体ではなく、栄光に満ちた体に変わっていたからです。イエスを信じる者たちも、それと同じように、今の体は弱い体であり、やがて朽ち果てる体ですが、復活するときは、栄光の体、朽ち果てることのない体で復活します。いつクリスチャンは復活するのでしょうか。23節に「次に、その来臨の時に」と書かれています。聖書には、主イエス・キリストがもう一度この世界に来られると繰り返し預言しています。主イエス・キリストは、一度目は誰にも知られない姿で密かに来られましたが、2度目は、誰もが分かる方法で、しかも力と栄光を示しながらこの世に来られます。これを主イエスの再臨と呼びますが、この出来事の時に、クリスチャンは皆、栄光の体を与えられて復活します。その時に、すでに死んでいた人は、その時に、魂に新しい栄光の体が与えられて復活します。そして、再びこの世に来られたイエスのもとに行きます。そして、それに続いて、その時、まだ生きているクリスチャンたちは、突然、体は新しい栄光に満ちた強い体でよみがえり、天におられる神様のもとへ移されます。その後、世の終わりの時には様々な出来事が起きることが預言されていますが、最終的には、24節に記されているように、「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。」聖書は、将来、世の終わりの時に、神様の完全な支配が完成することを預言しています。25節から28節に書かれているのは、そのことなのです。28節は「神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」現在の世の中は、本当に戦争が起きるかも知れない状況です。聖書は、2000年前から、世の終わりの時に「ハルマゲドン」と呼ばれる最終戦争が起こると預言しています。「ハルマゲドン」は新約聖書の言葉、ギリシャ語なのですが、もともとはユダヤ人の言葉であるヘブル語の「ハルメギド」から来ています。「ハルメギド」とはヘブル語で「メギドの丘」という意味です。メギドはイスラエルにある地名です。従って、世の終わりを決める戦争がイスラエルから起きることを聖書は2000年前から預言しています。しかし、何が起きるとしても、主イエスを信じる者は永遠のいのちが与えられ、世の終わりの時に、主イエスと同じように栄光の体が与えられて復活することが約束されています。私たちの人生は、この地上で終わるのではありません。その後に、永遠の生活があります。私たちの信仰の先輩たちは、すでに魂が神のもとに移されて、今は世の終わりの時に栄光の体をもって復活する時を待っているのです。

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