2022年11月27日 『不思議な救い主の誕生』(イザヤ書9章1-8節) | 説教      

2022年11月27日 『不思議な救い主の誕生』(イザヤ書9章1-8節)

 今日読んだ、旧約聖書のイザヤ書を記した預言者イザヤはエルサレム出身の貴族だったと考えられています。彼は紀元前740年ごろ、20歳の時に神様から預言者になるように召しを受けました。彼は、その後、約50年間預言者としての活動を続けます。彼が預言者に召された時、イスラエルの民が置かれていた状況は非常に緊迫していました。当時、イスラエルは、北イスラエルと南ユダという小さな2つの国に分裂しており、かつてのダビデやソロモンの頃の力を完全に失っていました。東には「アッシリア」という国があったのですが、ティグラテ・ピレセル3世が王になってから急速に勢力を拡大し、北イスラエルや、南ユダの領土を奪おうと進撃し始めていました。もともと、アッシリア人は非常に残酷な国民で、敵を火あぶりの刑にしたり、串刺しの刑にしたりしていました。そのため、北イスラエルや、南ユダの人々は、つねにアッシリアに対する恐怖におびえていました。地図を見ると分かりますが、北イスラエルと南ユダの東側には広大なアラビア砂漠が広がっています。従って、東の国が両国を攻め入る時は、必ず、いったん、メソポタミアの2つの大きな川にそって北に上り、北から攻めて来ました。そのため、最初に滅んだのは、北イスラエルでした。紀元前722年のことです。この時、アッシリア王は北イスラエルの全住民をアッシリア帝国のいろいろな地方に強制的に移動させました。この民族大移動の結果、イスラエル民族を構成していた12部族のうち、北イスラエルに属していた10の部族が完全に歴史の中から姿を消してしまうことになるので、「失われた10部族」と呼ばれます。さらにアッシリアはイスラエル人の代わりに、別の民族を北イスラエルに住まわせました。これらの人々はサマリヤ人の祖先となります。今日読んだイザヤ書9章は、そのような状況で、アッシリアの恐怖にさらされて暗闇の中を歩んでいたイスラエルの民に向かって、預言者イザヤが語った神様からの預言の言葉です。

 1節は、「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。」という言葉で始まっていますが、その苦しみとは、北イスラエルがさらされていた、アッシリアが攻撃してくるという大きな恐怖の苦しみのことです。実は、1節の言葉は9章2節以下と8章をつなぐ役割を果たしています。8章には、アッシリアに対する恐怖の暗闇が記されています。一方9章の2節以下には、その暗闇を光に変える希望が預言されているのです。実は、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされたのには理由がありました。北イスラエルの王たちも民も、神様の言葉に従わず神様に反逆していたので、その音に対する罰として、神様はアッシリアを用いられたのです。しかし、神様はいつまでも、イスラエルの民を懲らしめる方ではありません。神様は、ご自分が選んだイスラエルの民に対して、一時的に懲らしめられますが、永遠に彼らを見捨てることはありません。今は、暗黒の中にあるイスラエルの民にも、光を与えてくださるのです。

 一節の後半に、「ゼブルンの地と、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向う、違法の民のガリラヤは栄誉を受ける。」と書かれています。ここにゼブルンとナフタリという地名が出て来ますが、イスラエルの国は、もともとイスラエル民族の12部族に土地が割り当てられていました。ゼブルンもナフタリもイスラエルの12部族の名前であり、彼らに割り当てられた土地もゼブルン、ナフタリと呼ばれていました。この2つの部族は、北イスラエルでも、一番北側にありました。従って、このふたつの地が最初にアッシリアの攻撃にさらされて、アッシリアから辱めを受けた場所だったのです。このゼブルンとナフタリはガリラヤ湖の西側にあります。1節では、ゼブルンとナフタリを、海沿いの道、ヨルダンの川向うと表現しています。また、この地域は隣の国シリアにも近かったので、多くの外国人も住んでいました。これらの地域は、イエスが来られた頃は、ガリラヤ地方と呼ばれていました。その地域が、まず、アッシリアが侵略してきた時に、真っ先にその被害を被った場所でしたが、9章1節の言葉は、アッシリアの屈辱を受けた地が栄誉を受けると預言しています。2節から7節の言葉は、主イエスの誕生の預言の言葉です。暗闇の中を通っていたイスラエルの民は、この後、700年以上にわたって、外国の支配を受ける暗闇の時代を通って行きます。その後に、この預言が成就します。神であるお方が、すべての栄光と権威を捨てて、私たちを罪の裁きと力から解放する救い主として私たちの世界に来てくださいました。そのころ、イスラエル12部族の生き残りであったユダヤ人はローマ帝国の支配の中にありました。当時も、ユダヤ人の都はエルサレムでしたが、主イエス・キリストは、ユダヤの北のガリラヤ地方を活動の中心とされました。このガリラヤこそ、1節に言われているゼブルンでありナフタリなのです。マタイの福音書は、4章の12節から17節で、イザヤ書1節の言葉が、イエスによって成就したことを記しています。聖書には数多くの預言があります。主イエスに関する預言が数多くありますが、その預言が一つ一つ成就しています。預言の中には、まだ成就していないものもあります。それは、これから成就するのです。イザヤの時代を生きた人々は、700年後に救い主が来ると言う預言を聞いても、ピンと来なかったかも知れません。彼らは預言の成就を見ることがありませんでした。そして、イスラエルの民には、その後も苦しみの歴史が続きました。しかし、時が満ちて神の預言は成就しました。聖書の預言はこれまでことごとく成就しているのです。私たちの時代も、当時のイスラエルの民に似ています。世界の情勢は暗くなるばかりです。日本は、ロシア、中国、北朝鮮に囲まれて、いつどんな危機が起きるか予測ができない時代になりました。しかし、聖書の預言は必ず成就します。私たちは、自分の目で、それを見ないかも知れませんが、聖書の預言は必ず成就します。先週、お話ししましたが、この後、起きるもっとも重要な出来事は、主イエスがもう一度この世に来られること、イエスの再臨です。その時、私たちは、生きていても死んでいたとしても、栄光の体で復活して、主イエスのもとへ移されます。これから私たちの世界にどんなことが起きるか分かりません。もしかすると、私たちは、今のウクライナの人々のような苦しみを受けるかも知れません。しかし、たとえ、そのようなことが起きたとしても、主イエスを信じる者には永遠のいのちが与えられ、栄光に満ちた世界で永遠に生きることが預言として約束されています。主イエスの誕生は、聖書の預言が真実であることを保証するものなのです。

 3節からイザヤは神様に向かって語りかけています。「あなたはその国民増やし、その喜びを増し加えられる。」イザヤは、神様が大いなることをして下さるのを知って大いに喜んでいます。国民を増やすことは、イザヤの時代に関係することとしては、バビロンに捕虜となって強制連行されていたユダヤ人たちが、バビロンの崩壊によって、祖国に帰ることができた時に、この預言は成就しました。バビロンが南ユダ王国を滅ぼした時に、バビロンは主だったユダヤ人をバビロンに連れて行ったため、ユダヤ人の土地は人がいなくなり、荒れ果てていました。しかし、神様がペルシャ王クロスによってバビロンを滅ぼしたため、ユダヤ人たちは自分の国に帰ることができたのです。その時、民は喜び、空白となっていた国に人々が溢れました。これが3節の預言の第一の成就なのですが、聖書の預言は、ただ一つの時代だけの預言とは限らず、二重、三重に重なっての預言が多くあります。この預言も、バビロンの崩壊の時だけではなく、本当の意味で成就するのはそれから500年後に、神であるイエス・キリストがこの世に来られた時に成就しました。主イエスの働きによって、神を信じる民が一気に増えました。イエス・キリストによって救われた人々は互いに喜びに満ちていました。その喜びは、農夫が刈り入れの時に感じる喜びのようであり、また、兵士が戦争に勝った時に、敵の持ち物を奪って分け合う時の喜びに似ているとイザヤは言います。4節に「あなたが、彼が負うくびきと肩の杖、彼を追い立てる者のむちをミディアンの日になされたように打ち砕かれたからだ。」と記されています。これが人々が大いに喜んでいる理由です。「負うくびき」「肩の杖」とは、重荷や束縛を意味しています。つまり不自由な生活です。これは自分の欲望に支配された罪人の姿を表しています。「追い立てる者」は悪魔のことであり、そのムチとは、悪魔が私たちを倒そうとして攻撃してくることを表しています。私たちは、このように罪に縛られて、悪魔の攻撃や誘惑にさらされています。しかし、神様は主イエスをとおして、私たちを完全に自由にしてくださるのです。神様が私たちを不自由な生き方から救出してくださる方法が、ミディアンの日のようだとイザヤは言っています。ミディアンとはイスラエルに敵対する民族ですが、旧約聖書の士師記の時代に、しばしばイスラエルに攻撃をしかけてきた外国の王様です。この時、ミディアンの一方的な侵略に苦しんでいたイスラエルの民を救い出すために、神様はギデオンという人物をリーダーにしてミディアンとの戦いに勝利します。ただ、その戦い方が独特でした。イスラエルの民は武器を持っていませんでした。神様は、ギデオンの軍隊とミディアン人の軍隊の戦いに勝利をもたらすのは神様ご自身であることを証明するために、特別な作戦をたてられました。ミディアン軍13万5千人に対して、ギデオン軍は兵士300人、そして、彼らが持っていたのは壺とその中に隠した松明と角笛だけでした。ところが、ギデオンの合図で、300人の兵士が一斉に角笛を吹き鳴らし、壺を割り、その中から松明の光が同時に照り輝いた時、ミディアンの兵士はパニックに陥り、暗闇の中で手当たり次第に人間を殺していったために、同士討ちが起こり、ミディアン軍は戦いに破れました。その時と同じように、神の民が、自分のうちに主イエスの光を持ち、一人一人が、犠牲を払って、主イエスの光を輝かせるならば、悪魔の攻撃を打ち破り、悪魔に支配されている人々を救い出すことができます。イザヤは、そのことを想像するだけで、心の中で喜びがあふれ出ていました。

 このような勝利、大きな救いはどのようにして実現するのかという問いに対して、イザヤは6節からの預言で答えています。「一人のみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」聖書の中に、人間の考えと神様の考えはまったく違うと書かれています。神様が行われることはびっくりすることが多いです。人類の救いをもたらすのは、神が力と栄光を帯びて天から下ってくるという方法ではなく、隠れたところに、ひそかにひとりの赤ちゃんを生まれさせるという方法によるものでした。たきぎを燃やすのに、たきぎの上に火をつけると全部を燃やすことができません。薪の下の部分に火をつけると全部を燃やすことができます。いわば、そのようにして、神様は、御子イエスを人間の社会の一番低いところに送って、そこから救いの火を燃やしてくださいました。イザヤが預言者として活躍した時代、イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれており、人々は神をあがめず、信仰的に非常に堕落していた時代です。預言者としては絶望的な時代でした。しかし、イザヤの目には、800年後の主イエスの姿を見ることができました。そのために、イザヤの心は、真っ暗闇の時代の中でも、喜びに満ちていました。イザヤの信仰の目には、生まれて来る赤ちゃんの中に救い主を見ていました。イザヤは、この赤ちゃんで十分だと確信していました。このお方が私たちのすべての重荷を背負ってくださることをイザヤは見抜いていました。

 救い主は、見た目には貧しい若い夫婦から生まれたばかりの赤ちゃんにすぎませんが、その方は大きくなると救い主として働かれることをイザヤは見抜いていました。イザヤは、その救い主には4つの名前が与えられていると預言しました。第一に、その救い主は不思議な助言者と呼ばれています。英語ではワンダフル・カウンセラーとなっています。素晴らしい相談相手と訳せば良いかもしれません。パウロはコロサイ人への手紙の中で「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」と書いています。すべての知恵と知識を持っておられる方が、私たちの相談相手になってくださるのなら、私たちは安心です。私たちの人生において、相談できる人がいることは大きな祝福ですが、私たちには完全な相談相手がおられるのです。次に、キリストは「力ある神」です。力ある神は、敵である悪魔をやっつけてくださいます。私たちは、キリストの後ろに実を隠していれば安全です。また、力ある神ですからその王座は永遠に続くことを示しています。そして、キリストは「永遠の父」と呼ばれています。これは、御子イエスが同時に父なる神であるという意味ではありません。ヘブル語では、「父」という言葉には、「源」とか、「初めに創り出す者」という意味を持っています。したがって、「永遠の父」の意味は、永遠のものを創り出す方。永遠のものの源である方、という意味があります。私たちが、何か永遠に続くものを求めるなら、キリストこそが、永遠のものを与えてくださるという意味です。そして、最後に「平和の君」です。エペソ書2章14節には次のような言葉があります。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは、私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において隔ての壁である敵意を打ち壊された。」と書かれています。キリストは、神様と人間の間にある壁を打ち壊された方です。キリストの十字架は、私たちの罪の刑罰を身代わりに受けたキリストを示しています。キリストの犠牲的な死が、人間と神との間の隔ての壁を壊して、すべての人はキリストを信じる信仰によって、神様と平和の関係を結ぶことができます。また、私たち人間は、なかなか、他の人と本当の平和の関係を結ぶことができません。イエスの時代のユダヤ人は、ユダヤ人以外の人間を人間と思っておらず、犬と同じようなものと考えていました。しかし、キリストの十字架は、ユダヤ人と異邦人との間の壁も打ち壊してしまいました。キリストを信じる信仰においては、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人の区別もなく、男と女の区別もありません。キリスト・イエスにあってすべてのひとは一つだからです。この平和の君を自分の個人的な救い主としてしっかり握りしめていれば、周囲がどのような状況であっても、平和と喜びにあふれることができるのです。主イエスの誕生は、誰にも知られることなく、誰にも誉めたてられるものではありませんでした。しかし、主イエスによって、私たちは、神様との平和を持つことができるようになりました。私たちはそのために、主イエスキリストがどれほど大きな犠牲を払われたのか、どのような苦しみを味わわれたのかということを思って、常に、キリストの十字架だけを誇りとして歩んで行きたいと思います。

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