2022年12月11日 『救い主の道備え』(イザヤ40章3-5節) | 説教      

 2022年12月11日 『救い主の道備え』(イザヤ40章3-5節)

 主イエスの誕生は、普通の人の誕生とはまったく異なっています。それは、たくさんの預言が伴う誕生だったからです。聖書は、人間を本当に不自由にしているのは、政治が悪いからではなく、教育が悪いからでもなく、自分自身に問題があるからだと教えています。それは自己中心という性質であり、聖書は罪と呼んでいます。自己中心の性質は、自分がやりたいようにやらなければ怒りを感じたり、自分が一歩下がれば問題がないのに、一歩下がれなくて他人とぶつかったり、自分をコントロールできなくします。その原因は、私たち人間が神を信じ従わず、神の言葉よりも自分の気持ちを第一にするからです。誰もが自分ファーストだと、どうしても社会の中で、私たちは誰かとぶつかってしまいます。そのような状況、罪の生き方から私たちを救うために、十字架にかかるために、主イエスはこの世に来られました。このことは、実は、最初の人間アダムとエバが神様に対して罪を犯した時から神様は計画しておられました。主イエスに関するの最初の預言は、二人が罪を犯してエデンの園から追放される時に与えられました。エバを誘惑した悪魔に対する神様の裁きの言葉が主イエスの最初の預言となりました。創世記3章15節の言葉です。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫との間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」ここで、女の子孫と言われているのが主イエスを指しています。従って、旧約聖書は、最初の創世記から最後のマラキ書に至るまで、つねに、救い主をテーマにしていると言うことができます。イスラエルの民の歴史が進む中で、主イエスに関する預言はだんだんと具体的で、細かなものになって行きます。神様が選ばれたイスラエルの民には12の部族がありますが、創世記の49章で、救い主はユダ部族から生まれることが預言されました。さらに、イエスが来られる1000年前のダビデ王の時代、救い主は、ユダ部族の中でもダビデの家系から生まれることが預言されました。さらにそれから250年後、神様は預言者ミカを通して、救い主はベツレヘムで生まれると預言されました。

 神様は、旧約聖書の時代を通じて、長い時間をかけて、救い主をこの世に遣わす準備をしてこられました。しかし、主イエスが生まれる400年ほど前に、旧約聖書はマラキ書をもって終わります。

旧約聖書の最後の言葉は次のような言葉です。「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向かわせ、子の心をその父に向かわせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の者として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」、マラキが死んだ後、主イエスが来られるまでの400年間、一人の預言者も現れませんでした。ユダヤ人に対する神様のメッセージがなくなってしまいました。しかし、その間も、神様は救い主を遣わす時を見計らい、救い主が来られるための準備を続けておられました。主イエスが、最善の時に、この世に遣わされるための準備でした。実は、主イエスが来られた今から2000年前は主イエスの救いの知らせが人々に届けられるのに最も適した時代だったのです。当時、世界の中心はローマ帝国でしたが、文化的にはヘレニズムと呼ばれるギリシャ文化が支配しており、世界の公用語としてギリシャ語が使われていました。今の英語のようなものです。新約聖書はギリシャ語で書かれているのはそのためです。ローマ帝国はしばらく内戦が続いており、ジュリアスシーザーが暗殺されるなど、不安要素がいっぱいありました。しかし、皇帝アウグストが支配するようになってから、内戦が終わり、100年にわたってローマの平和という時代が続きました。さらに、ローマ人は建築が得意で、帝国中に道路網を建設して、「すべての道はローマに通ず」と言われました。平和な世界と道路網の発達により、イエス・キリストの福音は、この時代に非常に早く広い地域に広まっていくことができました。このような状況が整った時に、救い主はお生まれになりました。

 神様が、救い主を遣わす計画は細かいところまで考えて造られた計画でした。神様は、いきなり救い主を遣わすのではなく、人々が救い主を受け入れることができるように準備をする者を遣わされました。そのことが預言されているのが今日読んだイザヤ書40章の3節から5節なのです。イザヤが直接語り掛けているのは、バビロンに囚人として連れて行かれたユダヤ人たちです。紀元前6世紀に、東の大国バビロンがユダヤに侵略し、エルサレムを完全に破壊して、大部分のユダヤ人を無理やりバビロンに連行しました。これはユダヤ人のバビロン捕囚と呼ばれる出来事で、世界史でも学びます。実は、イザヤは、バビロン捕囚よりも約200年前に活躍した預言者なのですが、彼が黙示録を書いたヨハネと同じように、神様から幻を与えられて、200年後、さらにその後に起きる大きな出来事について預言をしているのです。現在のウクライナ人のように、バビロンとの戦争に破れたユダヤ人たちは、自分の家も生活も奪われて、遠い外国で生活しなければなりませんでした。彼らにとってそれはどれほどつらいことだったでしょう。当時のバビロンはネブカデネザルというプーチン大統領のような独裁者的な国王がいたので、ユダヤ人たちの将来にはまったく希望がありませんでした。イザヤの預言はそのような苦しみの中にあるユダヤ人への希望のメッセージでした。ユダヤ人たちは、バビロンに滅ぼされる以前、アッシリアという国からも攻撃を繰り返し受けていて大きな苦しみを味わっていました。そして、アッシリアが滅んだ後、バビロンによる苦しみを味わい、戦いに破れた後は、70年間、バビロンに強制的に移動させられて、見知らぬ土地での生活を強制されたので、彼らは合計すると200年近くずっと苦しみを味わっていました。そんなユダヤ人たちに、神様は、40章の1-2節で、預言者イザヤを通して、ユダヤ人の苦しみが終わる時が来ることを告げ知らせて下さいました。40章は「慰めよ。慰めよ。」という言葉で始まっています。神様やイザヤにエルサレムに優しく語り掛けなさいと命じています。エルサレムとは、神様に選ばれた人々を指しています。これまでユダヤ人たちが長い間大きな苦しみを受けたのは、彼らが神様の教えに従おうとせず、自分の願いを満たすことばかりを考えていたからです。そのために、神様は、彼らの信仰の目を開かせるために、厳しい罰をお与えになりました。しかし、神様は、決して彼らを見捨てることはありません。彼らには十分な罰を加えたので、神様は、次に、彼らを回復させようとしておられるのです。聖書の神様は、聖なる方であり、義なる方ですから、人間の自己中心や不従順の罪を見逃すことはありません。しかし、そのような不従順な民であっても、神様の愛は変わることはありません。彼らを見捨てることはありません。彼らがバビロンで自分たちの不従順を悔い改めたのを見た神様は、彼らを救い出す動きを始められるのです。神様はバビロンの東隣の国、ペルシャ王クロスを起こして、バビロンを滅ぼしました。神に用いられたペルシャ王クロスは、ユダヤ人に憐みを示して、祖国に帰ることを進め、彼らに経済的な援助も与えました。二度と自分の国に帰ることはないとあきられめていたユダヤ人には、思いがけない希望が与えられたのです。神様は一度選ばれた民を見捨てることはありません。そして、苦しむ者を慰めてくださる神です。私たちに当てはめてみても、神様が私たちを見捨てることは絶対にありません。聖書は、信仰を持ったら人生すべてがバラ色になるとは約束していませんが、神様は、いつも私たちを見ておられ、私たちのために働かれ、私たちが苦しむ時、悲しむ時は私たちを慰めてくださる神様です。聖書の中には、私たちを慰める言葉が一杯あります。友だちからの慰めの言葉もとても嬉しいものですが、全知全能の神様、現在も将来をも支配しておられる神様から受ける慰めは特別なものです。人間的にどうすることもできないような状況になったとき、私たちの心を本当に慰めるのは神様のみ言葉なのです。私の父がガンの手術を受ける時に、慰めの言葉として受け取ったのは家族の励ましの言葉ではなく、聖書に記された神様の言葉でした。

 このように神様は、イザヤの時代の人々に慰めを与えられましたが、彼の預言はさらにその先の時代の人々にも関係するものでした。イザヤ書40章の預言には、その時代の預言に加えて、主イエスに関する預言が加えられています。神様の慰めの対象が、ユダヤ人から全世界の人々に広げられました。全世界の人々のために、救い主がこの世に来られるという預言が含まれていました。それは、どのような慰めのメッセージなのでしょうか。

 第一に、3節に「荒野で叫ぶ者の声がする」と書かれていますが、荒野とは苦しみの場所を表しています。イザヤが預言した時代のユダヤ人にとってはバビロンでしたが、イエスの時代も、多くのユダヤ人はローマ帝国の支配の中で苦しみを味わっていました。また、さらに、今日の世界を見ると、ウクライナの人やパレスチナの人、ミャンマーやアフガンや多くの国の人々が荒野のような苦しい場所で生きることを余儀なくされています。苦しみの中にいる人々に神様がメッセージを与えられましたが、それは、荒野で叫ぶ者の声を聞けというメッセージでした。この預言は、主イエスの時代、洗礼者ヨハネ、別名バプテスマのヨハネという預言者が現れて、実現しました。彼は主イエスが30歳になって神の子としての働きを始める直前にイスラエルに現れ、イザヤ書40章に記された「荒野で叫ぶ者」のとなりました。バプテスマのヨハネはユダヤの人々に現れて、イザヤが預言したのと同じメッセージを人々に語りました。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。」「主の道を備えよ」とありますが、この言葉は「主なる方が来られる」ということを表しています。苦しみの中にいる人々がいる場所に主なる方、救い主が来られるという意味です。聖書の神様は、私たち人間に、神の所までやって来いとは言われず、神様の側から私たちがいる場所に来てくださるのです。私たちが、自分の友が悩んでいたり病気で倒れている時に尋ねて上げたいと思うのは、その人を愛しているからです。神様は、私たちを愛しておられるので、神様の側から私たちに近づいてくださいます。ただ、私たちの心を整えておかないと、神様を受け入れることができません。最初の人間、アダムとエバが罪を犯したとき、彼らは神様から隠れました。それは、彼らの心に自分たちが神の掟を破ったとの自覚があったからです。二人は自分たちの行いを隠していたので、神様に近づくことはできませんでした。神様は二人が何をしたのか、なぜ隠れているのか、すべて知っておられましたが、何もしらないようなふりをして、二人に近づいて、「アダムどこにいるのか」と尋ねられました。その時、アダムは自分がしたことを正直に言えばよかったのですが、彼は、神様に向かって、「神様が造った自分の裸の体が恥ずかしいから隠れているのだ」逆に神様に文句を言って自分の行いを隠しました。これが人間の心の中にある罪の本質なのです。罪を持つ心は神を受け入れることができません。だから準備が必要です。

 どんな準備が必要なのでしょうか。荒野で叫ぶ者はこう言いました。「大路をまっすぐにせよ。」荒野の叫ぶ者の務めを果たしたのがバプテスマのヨハネですが、彼が、人々に救い主を迎える準備として命じたのは、「悔い改めなさい」というメッセージでした。私たちが、救い主イエスをお迎えするために、私たちに必要なことは一つだけです。それは、神様の前に悔い改めるということです。これは言い換えると神様の前に、自分のことを正直に認めることです。旧約聖書には、神様が人間に守るように求めている律法があります。一番代表的なものは、モーセが神から与えられた10の戒めの十戒です。しかし、旧約聖書にはそれ以外にも神から与えられた律法が数多くあります。パウロは、律法の役割は、私たちの現実の状態を示すことであると教えています。例えで言えば、律法とはレントゲンのようなものです。律法は神様が求める正しさの基準なのですが、私たちは皆、アダムから受け継いだ自己中心のDNAが入っているので、100%神様の律法の基準に達することはできません。旧約聖書の律法は、私たちが神様の前には不完全な者であることを示す働きがあります。レントゲンは私たちの体に病気がある時に、病気であることを示してくれます。しかし、レントゲンを受けたからと言って、病気が治る訳ではありません。病気があれば治療を受けなければなりません。それと同じように、旧約聖書の律法は私たちが神様の前には罪人であることを教えてはくれますが、私たちを義人にすることはできません。ドクターが病気の人を治療するように、救い主は私たちの心を新しくするために働いてくださいます。しかし、病気の人がレントゲンの結果を見ても、それを信じないで治療を受けなければ、その人の病気は治りません。同じように、私たちは、イエス・キリストを信じることをしなければ、私たちの心が新しくなることはなく、罪人のままで生きて行くことになります。悔い改めというのは、聖書が示す正しさの基準に、自分が到達できないことを認めて、神様が求めるような生き方をしたいという願いを持って、主イエス・キリストによって新しくされることを求めることです。キリストによって新しくされたいという心の願いがないと、人はイエスを救い主とて受け入れることをしようとしません。その意味で、バプテスマのヨハネは、人々に、罪を認めて悔い改めるようにと荒野で叫びました。悔い改めとは、救い主を受け入れる心の備えをすることなのです。

 私たちが、救い主を受け入れるとどのようになるのでしょうか。4節には「すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。」と記されています。私たちの人生には山の時もあれば谷の時もあります。すべての谷は引き上げられるとあります。私たちは、いろいろなことで心が谷の底のように落ち込むことがあります。しかし、主イエスは、落ち込んだ心を引き上げてくださる方です。また私たちは、人生が自分の思い通りに進むと高慢になりやすく、そんな時、他の人を軽く見たり見下すことがよくあります。神様は私たちの中にある高慢なものを取り除いて平らにしてくださいます。また、ものごとを真っすぐに見ないで、曲がった生き方をする人もいます。そのような人の生き方もまっすぐに変えられるのです。ここに、キリストによる救いがあるのです。神の救いが現れる時、人々は神の栄光を見ます。イザヤの時代、バビロンで苦しんでいた人々は、神様が立てられたペルシャ王クロスによって、神の栄光を見ました。ペルシャ王クロスはバビロンを滅ぼし、バビロンにいたユダヤ人を解放して祖国に帰るように勧めました。それだけでなく、エルサレムの神殿を再建することを命じて、その働きを援助することをユダヤ人に約束しました。滅びの中にいたユダヤ人は神の力、神の栄光を体験しました。しかし、イザヤの預言の最終的な成就は、主イエスが神の子としての働きを始められた時に成就しました。人々は、イエスの教えとイエスの働きをとおして神の栄光を見ました。イザヤがユダヤ人がバビロンから解放されることを預言した時は、ユダヤ人がバビロンに強制的に連れて行かれる前でした。イザヤの預言を聞いたユダヤ人たちは、自分たちにそのようなことが起きるとは信じることができませんでした。しかし、実際に歴史はイザヤが預言したように動きました。それは、5節に記されているように、まことに主の御口が語られることは必ず成就するからです。イエスの時代の人々も、主イエスを神様から遣わされた救い主とは信じませんでしたが、確かに、イザヤの預言のとおり、主イエスが救い主としてこの世に遣わされてきました。まことの神様が語ることは真実ですから、かならず実現するのです。もし、聖書の語っていることが真実であるならば、私たちは、救い主を迎えるために心の準備をしなければなりません。主の言葉を信じ、主の約束を信じ、主に信頼して生きること、それが、私たちに与えられている最も確かな生き方なのです。あなたは、救い主を心の中に迎える用意ができているでしょうか。

2022年12月
« 11月   1月 »
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

CATEGORIES

  • 礼拝説教