2022年12月18日 『私たちと共におられる神イエス』(マタイ1章18-25節) | 説教      

2022年12月18日 『私たちと共におられる神イエス』(マタイ1章18-25節)

 聖書には旧約聖書と新約聖書があります。ユダヤ教の人は旧約聖書だけを信じています。キリスト教の人は旧約と新約聖書の両方を信じています。旧約聖書のテーマは、神様が決められた時に、人間を本当に自由にするために救い主(ヘブル語でメシア)が来るというものです。そして、今から2000年前にイエスが来られた時に、この方こそ旧約聖書に預言されたメシア(救い主)だと信じたのがキリスト教です。しかし、ユダヤ人の多くはイエスが自分たちが求めていたメシアと違ったので、イエスを救い主として受け入れず、いまなお、救い主が来るのを待っています。新約聖書には、救い主イエスがどのように生まれ、どのような働きをし、そのような教えをされたか、その後、クリスチャンたちがどのように生きたのか、クリスチャンの将来はどうなるのか、そのようなことが書かれています。今日読んだ、マタイの福音書は、4つある福音書の中で、ユダヤ人に向けて書かれた福音書です。旧約聖書を知っていながら、イエスを救い主メシアとは信じなかったユダヤ人たちに向かって、イエスの弟子であったマタイは、このイエスこそが約束の救い主で、旧約聖書に記された数多くの預言が、イエスによって成就したことを証明するために福音書を書きました。1章の前半に書かれているのは、イエスの人間として旧約聖書が預言していたようにダビデの子孫として生まれたことを証明するイエスの系図です。今日読みました1章の後半には、イエスが確かに神であることを証明するために書かれています。イエスが真実の人間であり同時に真実の神としてこの世に来られたという事実、これが聖書の教え、言い換えると福音の土台になります。神が人となってこの世に来られて、神から離れて生きていて様々な問題に縛られている人間を自由にしてくださるという福音を、マタイは記しています。従ってこの土台がなくなれば、イエスの教えも、イエスの十字架も、イエスの復活も、世の終わりの出来事に関する約束もすべてが崩れてしまうのです。

 主イエスは、特別な方法で人としてこの世に生まれました。それは、主イエスが完全な人であると同時に神であるために必要なことでした。神様が人となってこの世に来られるのであれば、いろいろなかたちがあったでしょう。たとえば、最初から栄光に満ちた大人の姿で来ることもできたはずです。しかし、それでは、真の人間とは言えません。人間が経験するすべてのプロセスを経験していないからです。そこで、神様は、母の胎内からいのちを始めることを選ばれました。栄光に満ちた神様が普通の人間のように赤ちゃんとして生まれてくださったのです。一方、もし、イエスが普通の赤ちゃんと同じように、マリヤとヨセフの間の子どもとして生まれるとすれば、どうしても、人間が持っている罪の性質を持って生まれて来ることになります。イエスは、罪の性質を持つことはできません。聖なる神でなければならないのです。人間をいろいろと束縛する罪、言い換えると自己中心の性質は、よく借金に例えられます。罪があれば、神様の裁きがあります。それが亡くならない限り、神様は私たちを裁きます。借金も、最後の1円を返すまえでは金を貸した人から「返しなさい」と責め続けられます。しかし、誰からが借金を肩代わりしてくれれば、借金から解放されますが、借金を帳消しにするためには、借金のない人が肩代わりをしなければなりません。同じように、私たちの罪が帳消しにされるためには、罪のない方が肩代わりをしなければならないのです。だから、主イエスが罪の性質を持って生まれることはできませんでした。それで、神様は、いわゆる処女降誕というややこしい方法でイエスが生まれることを計画されたのです。処女降誕は、イエスを神とするために考えられた伝説ではありません。もし、そうだとすれば、イエスの誕生は、もっとドラマチックに、もっと人がびっくりするような派手な誕生であったはずです。しかし、マタイは、この処女降誕という特別なイエスの誕生をごくあっさりと書いています。「母マリアはヨセフと婚約していたが、 二人がまだ一緒にならないうちに、 聖霊によって身ごもっていることが分かった。」そこには、天からの光も、ラッパの響きもありません。処女降誕ということは2000年前の人間でも、信じられないことですから、もし、作り話なら、信憑性を高めるため、イエスの誕生に箔をつけるために、いろいろな劇的なエピソードを付け加えるはずですが、これ以外のことは何も書かれていません。これも、イエスの誕生が作り話ではないことの証拠です。

 18節を読みましょう。「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」イエスの母となるマリヤは当時14,5歳であったと思われますが、ヨセフという男性と婚約していました。ユダヤの習慣では、結婚は2段階になっていて、まず婚約をして、それからだいたい1年後に結婚式を挙げて二人は夫婦としての生活を始めることになっていました。婚約を決めるのは親同士で、昔の日本みたいに本人同士は何も知らない間に、結婚が決められることが多かったようです。この婚約の期間中に、女性が婚約相手以外の男性との間にこどもを身ごもるようなことがあった場合、旧約聖書の律法では、町の外で石を投げつけられて殺されることになっていました。従って、18節の出来事は、若い二人にとって、とんでもないことが起きてしまったのです。

 19節を読みましょう。「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」ここに、ヨセフは正しい人であったと書かれています。彼は正しい人であったので、この時の彼の悩み・苦しみはどれほど深刻なものだったでしょう。ルカの福音書によれば、マリヤが救い主を身ごもることがまずみ使いによってマリヤに知らされました。マリヤは非常に驚きました。彼女はこれから自分にどんなことが起きるか想像できたと思いますが、神様のみこころを受け入れ、み使いに対して「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と答えました。そこにはマリヤの大きな信仰と決意がありました。彼女はすぐにこのことを婚約者のヨセフに話したはずです。ヨセフには、とうていマリアが聖霊によって赤ちゃんを身ごもるという話を信じることはできません。しかし、ヨセフは彼女が嘘を言う女性ではないこと、自分に隠れて他の男性と関係を持つことなどありえないことは分かっていました。ただ、彼には何が真実なのか分かりませんでした。マリヤが身ごもっている赤ちゃんが自分の子供ではないことは明らかなので、ヨセフは、このまま結婚することはできないと考えました。彼は、マリヤが人前で屈辱的な扱いを受けることのないように、マリヤを密かに遠くに行かせて彼女を守ろうと考えました。ヨセフには、苦しみや葛藤がありましたが、彼は自分のことよりもマリヤを守ることを第一に考えていました。

 そのような重苦しい時を過ごしていたヨセフにみ使いが現れました。20節を読みましょう。「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」み使いはヨセフのことを「ダビデの子ヨセフ」と呼びました。マタイの福音書の冒頭に非常に長いイエスの系図がありますが、この系図は、救い主が旧約時代の英雄であったダビデ王の子孫として生まれるという預言の成就の証拠として書かれています。ヨセフはダビデの家系の子孫でしたので、イエスがヨセフの家系から生まれることによって、イエスの誕生に関する一つの預言が成就しました。そして、み使いはヨセフに「その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」と言いました。マリヤが妊娠したのは、彼女に何か落ち度があったのではなく、聖霊の働きの結果でした。聖霊とは神ご自身です。天地創造の神が何もないところからこの世界を創られた時にも聖霊が現れています。創世記の1章1、2節にはこう書かれています。「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」ここに、神の霊が動いていたと書かれています。最初は混とんとしていた世界に、神の霊が働いて、形と秩序を持った世界が生み出されたのです。聖書の神様は全知全能の神で、私たちとはまったくレベルが違います。神にはどんなこともできるのです。

 さらに、み使いはヨセフに21節でこう言っています。「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」神様の特別な働きによってマリヤは男の子を生みますが、その名前をイエスとつけるようにとみ使いはヨセフに命じました。イエスというのは新約聖書が書かれているギリシャ語発音の名前ですが、ヘブル語では、ヨシュアと発音します。ヨシュアとは、ヘブル語で「神は救う」という意味です。ここで、主イエスがこの世に来られた目的がはっきりと示されました。世の中の人々を罪から救い出すために、神ご自身が人間の世界に来てくださったのです。罪人が他の罪人を救い出すための身代わりにはなれません。罪のない者にしかできないのです。そのために、救い主イエスは私たちと同じ人間でありながら、まったく罪のない者として生まれなければなりませんでした。

 マタイは22,23節でイエスの誕生が旧約聖書の預言の成就であることを示しています。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」救い主の不思議な誕生は、神様が800年も前に預言者イザヤをとおして語っておられた神の約束の成就であったのです。マタイの福音書には、何度も繰り返して、イエスに関するいろいろな出来事が旧約聖書の預言の成就であると述べています。しかし、当時のユダヤ人の多くは、ローマ帝国の支配の中で生活が苦しかったために、もっと強い救い主、ローマ帝国を滅ぼしてくれるような救い主を期待していたので、主イエスを救い主と認めませんでした。そのようなユダヤ人に対して、イエスこそが旧約聖書が預言していたメシヤであるとマタイは訴えています。

 そして、生まれてくる男の子は「インマヌエル」と呼ばれるとみ使いが言いました。21節では、み使いはヨセフに生まれて来る男の子に「イエス」という名前をつけるように命じていますが、ここでは、「インマヌエル」と呼ばれると言われています。「インマヌエル」とは名前と言うよりも、イエスがどんな方なのかを示すものと考えると良いと思います。その意味は「わたしたちとともにおられる神」です。主イエスが「インマヌエル」と呼ばれる理由は、神であるお方が、神としての栄光と権威のすべてを捨てて、一人の人間という小さな低い姿になってくださって、私たちの間で生きるためにこの世に来られたからです。神様は上から下にいる私たちにむかって「ああしろ、こうしろ」と指図する神ではありません。私たちとまったく同じ生活をしながら、私たちを教え、そして、最終的には、私たちの身代わりとなって自分のいのちを犠牲にして十字架にかかってくださいました。今は、主イエスは聖霊というお姿で、信じる者一人一人に寄り添っておられます。私たちは、日々の生活の中で、いつでも主イエスに語りかけることができます。恐れや不安で心が落ち着かないとき、インマヌエルの主がいつも自分のそばにいることを感じることができます。私たちの本当の友となるために、主イエスは、神の栄光と権威の全部を捨てて、私たちとまったく同じ者になってくださいました。そこに主イエスの私たちに対する大きな愛があるのです。あなたの本当の友となるために、すべてを犠牲にしてあなたのところに来てくださる方、それが主イエスキリストです。私たちは、その愛を知り、その愛に答えて生きるとき、私たちは、自己中心の思いから解放されて、自由な生き方ができる者に変えられます。

 かつてハワイのモロカイ島にハンセン氏病患者のために生涯をささげたダミアン神父という方がおられました。ダミアン神父が初めてモロカイ島に行った時、島は地獄そのものでした。神経を犯された患者たちは強い酒を飲み、政府の役人が桟橋に投げおろす食べ物をギャンブルで奪い合うような状況でした。ダミアン神父は、神を恨み人を呪っていた患者たちの友となり、傷口をあらい、彼らに慰めの言葉を語り彼らのために祈りつつ、主イエスによる救いの道を語っていました。彼は自分の手で1600の墓穴を掘り、1000個の棺桶を造って、彼らを丁重に葬りました。彼の働きで島の状況はすっかり変わりました。しかし、彼は、それでも、患者たちとの間に壁があるのを感じていました。そんな時、彼自身がハンセン氏病にかかりました。その時、彼は非常に喜びました。患者たちとの間の壁がなくなると感じたからです。彼は兄に手紙を書きました。「私は以前から、イエスのためにハンセン氏病にかかることを願っていました。自分が彼らと同じ病人になって初めて、私は、彼らの痛みを自分の痛みとし、彼らの苦しみを自分の苦しみとすることができました。私は、彼らの本当の友となることができたことを神に感謝しています。」キリストの犠牲的な愛を知ったダミアン神父は、キリストの愛に生かされて49歳までの生涯を全うしました。インマヌエルの主イエスとともに生きる時、私たちは、本当の愛を知り、また、人を愛する心を持つことができるのです。

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