2022年12月25日 『馬小屋で生まれた救い主』(ルカ2章1-7節) | 説教      

2022年12月25日 『馬小屋で生まれた救い主』(ルカ2章1-7節)

 1節にはこう書かれています。「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスゥスから出た。」当時のイスラエルはローマ帝国に支配されていましたが、時の皇帝はアウグストゥスゥスという人物でした。彼は紀元前27年から約40年間、ローマ皇帝として世界を支配しました。彼のもとでローマ帝国の領土は最も大きくなり、当時の世界のほとんどがローマ帝国に支配されていました。そして、アウグストゥスが皇帝になって、ようやくジュリアス・シーザーが暗殺されてから続いていた権力争いが終わり、ローマ帝国内に、争いのない平和な時代が訪れました。ローマの人々は皇帝アウグストゥスを神とあがめました。ある時、皇帝が人口調査をするようにとの命令を出しました。人口調査の目的は住民の数を正確に調べて、兵士を集めることと、一人一人に税金をかけることでした。ローマ皇帝が出した命令には、すべての人が従わなければなりません。ユダヤ人の場合、住民登録は、自分の部族が属するの町、日本風に言うと本籍がある場所に行って行う必要がありましたので、大勢の人がそのために旅行をしなければなりませんでした。 表面的に見ると、皇帝アウグストゥスが出した住民登録の勅令は、彼が税金と兵隊を集めるために出した命令で、マリヤとヨセフはその命令に振り回されているように見えます。しかし、実は、この出来事は神様の計画に、皇帝アウグストゥスが動かされている出来事でした。神様が救い主をこの世に送ることを決められた時に、救い主がいつどこで生まれるのか、神様はすべて決めておられました。そして、ご自分の計画を実行するために、神様はアウグストゥスゥスの勅令を用いられたのです。もちろん皇帝自身は、自分が神と同じ権威と力を持っていることを示すために、この勅令を出したのですが、実際には、彼の行動は神様が自分の計画を実行するために用いられていたのです。旧約聖書には、救い主が生まれる場所がはっきりと預言されていました。旧約聖書のミカ書という預言書の中に次のような預言が記されていました。「ベツレヘム、エフラタよ。あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」エフラタというのはベツレヘムの古い名前です。神様のご計画の中で、救い主は、ダビデ王の子孫から生まれることが決まっていましたが、ベツレヘムはダビデ王のふるさとでした。すべてのことは、全能の神の支配の中で行われたのです。もし、この時に、アウグストゥスゥスが住民登録を行わなかったら、救い主はベツレヘムで生まれることはなかったでしょう。人間の歴史は、人間が自分の思いのままに動かしているように思いますが、実は、神様の支配のもとで動いているのです。

 マリヤとヨセフが住んでいたのはイスラエルの北にあったナザレと言う町でしたが、彼らの本籍地は、エルサレムの南のベツレヘムでした。ナザレからベツレヘムまでは約150キロありますので、ずっと歩き続けても4,5日かかる距離でした。ナザレはガリラヤ地方の山の中腹にある町でした。ナザレからベツレヘムに行くためには、いったん山をおりて平地に行き、またベツレヘムの近くで山を上って行かなければなりません。出産の時が近づいていたマリヤにとっては大変辛い旅であったに違いありません。若い二人が旅をする姿は、一般の人の目には哀れに見えます。二人は、ユダヤ人が軽蔑していたガリラヤ地方のナザレ出身の貧しい夫婦であり、ローマ皇帝が出した勅令のために、マリヤの出産の時が近づいているのに大変な旅をしなければならなかったからです。しかし、この旅の間、二人はどのような気持ちだったでしょうか。二人は、世の中の人が誰も知らない秘密を知っていました。それは、マリヤのお腹の中にいるのは、自分たちの子どもではなく、神様から遣わされた救い主であることでした。したがって、人の目には哀れに見える二人の旅ですが、マリヤとヨセフは、いよいよ救い主が生まれる時が来たことを知って、大きな希望と期待を抱いていたことでしょう。二人は、救い主をこの世に送り出す親となるために神様に選ばれましたが、マリヤのお腹が大きくなるにつれて、真実を知らないナザレの人々から多くの批判や、嘲りの言葉を受けてきたに違いありません。しかし、二人は、神様から与えられた使命を光栄なことと受け止めて、困難な状況の中で救い主が生まれる日を待ち望んでいました。

 マリヤとヨセフが150キロの旅を終えてベツレヘムに着いた時、二人は心身ともに疲れ果てていたことでしょう。特に、出産を控えていたマリヤはすでにお腹の痛みを感じていたかも知れません。世の人々を罪から救う救い主がこの世に生まれる誕生でしたが、その誕生には何の栄光も、輝きも、ファンファーレもありませんでした。誰に知られることもなく、しかも誰からも歓迎されない、そんな誕生でした。ルカは、その様子を、ひどく簡単に述べています。6,7節を読みましょう。「ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」7節に「宿屋」という言葉がありますが、当時の宿屋は、非常に粗末なものでした。粗末な小屋が並んでいて、外には、旅に連れて来た家畜をつないでおく場所が用意されているだけでした。ヨセフとマリヤが、ベツレヘムに着いた時、そのような粗末な宿屋もすべて一杯になっていました。ベツレヘムの町は、二人と同じように自分の故郷で住民登録をするために集まって来た人々でごった返していたのです。救い主がこの世に来てくださると言うのに、この世には救い主の誕生を迎える場所は用意されていませんでした。

 7節に、マリアは男の子を産んで、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせたと書かれています。当時、人々は生まれたばかりの赤ちゃんの体全体を、布でしっかりとくるんでいました。それは、赤ちゃんを守るためでした。お母さんの胎内にいる時には、赤ちゃんは安全でしたが、外に出ると、赤ちゃんにとって危険なものがたくさんありましたから、赤ちゃんは布でぐるぐる巻きにされたのです。また、7節に飼葉桶寝かせたと書かれているので、私たちは、救い主は馬小屋で生まれたのだと理解しています。ただし聖書には馬小屋という言葉は書かれていません。アメリカでは、クリスマスが近づくと、教会の前庭に救い主が生まれた場面を再現した飾りを飾ります。小さな馬小屋の中に救い主とヨセフとマリヤと羊飼いの人形が置かれています。私たちは馬小屋と聞くと、小さな建物を思い浮かべますが、実際は、当時、家畜が繋がれていた場所は、小屋ではなく岩場に掘られた暗い洞穴でした。洞穴の中に動物のエサである藁を入れるためにレンガで造った丸いくぼみがありました。それが飼葉桶でした。したがって、二人にとって、救い主の出産は本当に大変なものでした。そして、生まれて来た救い主にとっても、非常に居心地の悪い場所での誕生でした。

 7節の「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」という言葉は、ただ単に、場所がないということだけではなく、この世の人々の心が神を受け入れない姿を象徴的に表しているように思います。当時は、一般の家庭でも、赤ちゃんが生まれると、人々が集まってお祝いの歌を歌ったそうです。宮殿で王子が生まれると、国をあげてお祝いをしました。メサイアの「ハレルヤコーラス」の中で、「王の王、主の主、とわに主治めたまわん」と賛美されている救い主の誕生は、世界の歴史を、イエスの誕生前の紀元前と誕生後の紀元後に分けるほどの大事件だったのですが、その日、ベツレヘムの暗い洞穴の中で起きている出来事を知る人は一人もいませんでした。この日、世界中で生まれた赤ちゃんの中で、主イエスの誕生は、最も哀れな誕生だったと言えるでしょう。神のひとり子である救い主イエスは、ローマ皇帝アウグストゥスのような権力も栄光もなく、貧しい家庭の赤ちゃんとしてこの世に生まれてくださいました。しかも、この世には、救い主の誕生を喜んで迎える人はいなかったのです。今、主イエスは、目には見えない聖霊と言うお姿で私たちの心の中に入ろうとしておられます。私たちの心には、救い主イエスを迎え入れる余地があるでしょうか。ヨハネの黙示録3章20節に、主イエスが私たちの心に入ろうとしておられる姿が描かれています。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼も私と食事をする。」この言葉は、キリスト教が生まれてすぐの時代に、ラオデキアという裕福な人々が住む町にあった教会の人々に向けて語られた言葉です。ラオデキア教会の人々は、知識が豊富で、お金があり、自分たちは敬虔な信者だと思い込んでいましたが、彼らの多くが地上での豊かな生活に満足して、その信仰はなまぬるいものでした。神様は、彼らを吐き出したいと言われましたし、彼らも、自分たちの生活から主イエスの存在を追い出していたのです。そのために、イエスは彼らの心の外に立っておられて、彼らの心に入ることを求めて心の扉をノックしておられるのです。イエスが彼らの心の扉をノックしつづけても、彼らはこの世の生活のこと、例えば、この世で成功、豊かな生活、持ち物を自慢する思いなどで頭が一杯なので、ノックの音が聞こえず、主イエスを自分の心に迎えようとはしませんでした。ロンドンのウェストミンスター寺院の中に、この言葉を描いた有名な絵が飾られています。その絵は、家の扉をノックしている主イエスの姿を描いたものです。

絵を見てみましょう。イエスがなぜドアをノックして、中に入るようにとの招待を待ったのか、疑問に思っている人がいるかもしれません。 それは、イエスは人や教会に突入したり、、押しいったり、無理やり扉をこじ開けて中に入ることのない方だからです。イエスは、雑草と枯れた花に囲まれた建物の取っ手のついていないドアをノックしています。画家は意図的にドアノブを描きませんでした。それは、ドアの向こう側にいる人々が 2 つのことをしなければならないことを強調したかったからです。第一にイエスの声を聞かなければなりません。第二に、その声を聞いてドアを開けなければなりません。イエスは、内側にいる人が中からドアを開いたときだけ中に入られるのです。また、イエスを取り巻く光が、周囲の闇と対比されていることに注目してください。 主イエスがおられる所は光輝いています。一方、その外側は暗い夜です。イエスから離れた世界は罪の世界、闇の世界であることを示しています。また、建物には、つたの葉が絡みついています。 建物の前には雑草、植え込み、イバラ、アザミ、枯れかけた花があります。 これらは、裕福なラオディキアの教会の人々の心を描いています。彼らは人生にとって最も大切なものを忘れて、この世のものに心を奪われていました。それらのものに心を奪われていた人々はイエスを生活の外に追いやり、中に入れようとしなかったのです。しかし、彼らの心を奪っていたものはやがて枯れてしまい、消えて行く、はかないものにすぎません。この世の中に良いものはいろいろありますが、主イエスが与えるもの以外はすべて一時的なものであり、やがて消えゆくもの、手放さなければならないものばかりです。主イエスは、いま、あなたの心のドアの外に立っておられませんか。あなたはそのイエスの声を聞いておられますか。心の扉を開きませんか。黙示録3章21節には、その扉を開いた者に大きな報いが約束されています。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」イエスの声を聞いてイエスを救い主として信じる者は、ただ、単に、永遠のいのちが約束されているだけではなく、主イエスが座っておられる天国の王座に、イエスを並んで座ることが許されるという約束です。つまり、主イエスを信じる者は、天において、イエスと共に天国を支配する者になるという、私たちの想像をはるかに超えるものすごい祝福です。今年のクリスマス、あなたはイエスに心の扉を開いていますか。それとも、この世のことに縛られて開けられないままでいるでしょうか。主イエスは、今もあなたの心の扉をノックしておられます。

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