2023年1月1日 「平和をつくる者の幸い」(マタイ5章9節) | 説教      

2023年1月1日 「平和をつくる者の幸い」(マタイ5章9節)

2022年に起きた出来事の中で、最もインパクトが大きかったのは、ロシアによるウクライナ侵攻です。何百万もの人が突然、自分の生活や生活の場を奪われ、その影響は全世界に広がっています。ウィル・デュラントという人が書いた「歴史からの教訓」という書物の中に、次のようなことが記されています。記録が残っている最古の時代から今日までの約3400年間の中で、全世界で戦争がまったくなかった年は268回しかなかったそうです。第二次世界大戦後、同じような戦争を繰り返さないために国連が造られたたり、様々な努力がなされましたが、2022年まで戦争がまったくなかった年はなく、今もウクライナだけでなく、いろいろな国や地域で戦争や争いが続いています。人間の文明は歴史が始まってから今日までの間に大いに進歩しましたが、戦争に関しては、人間は全く進歩していません。しかも、歴史的に英雄と見なされている人物の多くは、権力を持って他の国との戦争に勝利した者たちで、決して、謙遜で柔和な人物とは言えません。その典型的な人物として、今日ではトランプ大統領があげられると思います。彼のモットーは「アメリカファースト」ですが、これが、世の人の考え方とうまく合致するのです。というのは、聖書は、人間はみな罪人であると教えていますが、罪人の生き方は「自分ファースト」「自分第一」という生き方だからです。自己中心の生き方の人間が集まると、どうしても争いや憎しみが起こり、分裂が起こり、最終的には戦争につながります。従って、人間は平和を愛し、平和を求めていますが、人間的な努力だけでは、本当に平和な世界を創り出すことは不可能なのです。

主イエスが、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」と言われたのは、どのような意味があるのでしょうか。イエスが言われた「平和」とは、ただ、戦争や争いがないこと、憎しみがないことを意味するのではなく、神様によって与えられる平和を意味します。ユダヤ人の言葉へブル語では平和を「シャローム」と言うのですが、シャロームとは、何かがない状態という否定的なものではなく、人間の最高の幸福を創り出すすべてのものを意味していました。ユダヤ人は、人と出会った時に「シャローム」と挨拶をするのですが、その挨拶は、相手の人に悪いことが起こらないことを願うのではなく、その人にすべての良いことが起こることを願う挨拶です。しかも、そのすべての良いことを与えてくださるのは神様であることを意味します。ヤコブの手紙の3章16-18節に人間の知恵と神様の知恵とが比較されている箇所があります。「ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。しかし、上からの知恵は、まず第一にきよい物です。それから、平和で、優しく、強調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって、平和のうちに蒔かれるのです。」この世の知恵とは、この世の人々が大切にしている考え方ですが、それは、先ほども言いましたように、神から離れている人間の知恵は「自分ファースト」「自分第一」です。従って、16節にあるように、そのような人々が共に生きる世界では、妬みや秩序の乱れや邪悪な行いがあるのです。それは、今の社会を見れば明らかです。旧約聖書にバベルの塔の話がありますが、バベルの塔は人間の目から見れば素晴らしいものです。天にまで届くような高い建物を建てるのですから、人間の知恵の深さと技術の大きさを示しています。しかし、神の目には、彼らの行為は傲慢な考えから出た愚かなものでした。その結果、人々の言葉がバラバラになり、人々は分裂してしまいました。一方、神様から与えられる知恵は、清さ、平和、優しさ、強調性、憐みであり、偏見も偽善もありません。私たちは、自分たちが持っていないものを創り出すことはできません。従って、平和を創り出す人になるためには、まず、私たちが、神様からの知恵を受け取らなければなりません。そのためには、私たちが、神様の声を聞いて、その声に従うことが必要です。平和にとって最も大きな妨げになるのは人間の罪なのです。その罪が解決されていないと、人間は平和を創り出す人になることはできません。詩篇の85篇10節に「義と平和は口づけします」という言葉があるように、私たちは、自分の罪の問題が解決されて初めて、平和をつくる人になることができるのです。主イエスは、人となって私たちのところに来られた神様ですが、イザヤ書の預言では、この方は「平和の君」と呼ばれると言われています。主イエス・キリストは平和の君として、この世に来られました。人間は、最初の人間から神の命令に逆らったために、彼らから生まれてくる人間は、皆、神の怒りを受けなければならない者として生まれて来るようになりました。そのような人間と聖なる神様との関係を修復するために来られたのが主イエスです。私たちが受けるべき神の怒りを十字架の上で私たちの代わりに受けるために、主イエスはこの世に来て下さいました。イエスが十字架に掛けられたのは午前9時でしたが、福音書によると、午後12時から主イエスが息を引き取る午後3時まで、あたりは真っ暗になりましたが、その時に、主イエスは父なる神から見捨てられ、神の怒りを受けられたのです。十字架の上で、主イエスは、人間の罪、怒り、憎しみ、人間の心の中にあるすべての悪いものを背負って、自分のいのちを犠牲にされました。このイエスの十字架の犠牲が、私たちと神様との関係を修復することになり、私たちには神様との平和の関係が与えられました。私たちは、この神様との平和を持つことができた背景に、主イエスの十字架があったことを知っています。私のためにいのちを惜しみなく犠牲にしてくださった主イエスの愛を知る時、私たちの心は、感謝と喜びと平安で溢れます。この経験をする時に、私たちは、初めて、平和を創り出すことができる者になります。

 もっとも激しい嵐は海の上で発生します。その時、海の表面は荒れ狂います。しかし、海の深みに潜ると、海はだんだん穏やかになり、海の底はまったく何も動いていません。これはクリスチャンの心を示しています。自分の生活の状況が嵐の中のように厳しく苦しいものであるとしても、全知全能の神様の愛を知っている者には、すべての理解を超えた神の平安が、私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれるとパウロも述べています。(ピリピ4章7節)どんなに生活が順調で恵まれているとしても、神様を知らなければ、いつその状況が崩れるのか分からないので、本当の平安をもつことはできません。しかし、神の愛を知っている者には、いつも神の平安が与えられるのです。

 神様との平和を与えられた者へのメッセージとして、主イエスは言われました。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」主イエスは、クリスチャンである私たちに「平和をつくる者になりなさい」と命じておられます。主イエスの十字架によって神様との平和を受け取った私たちは、その平和を人々に伝える使命を委ねられています。私たちは、主イエス・キリストの大使として平和をつくる者として生きるというミッションを受けているのです。

 平和をつくる者は、第一に、神様との平和を持っていなければなりません。人間は、生まれつきの性質では、平和をつくることはできません。神との平和を持たない人は、他の人との本当の平和の関係をつくることはできません。主イエス・キリストの十字架を通して神様の平和を経験し、それを受け取ることが必要なのです。主イエスを信じる信仰によって心が新しくされ、そして、聖霊の力により頼むときに、私たちは初めて平和をつくる者になることができます。人間の罪の性質はそれほどに根深いのです。私たちは、他人の罪や過ち、欠点を見抜くのはとても上手ですが自分の罪やあやまち、欠点は、罪の性質のためによく見えないのです。しかし、私たちが神様との平和を持つときに、自分の本当の姿がはっきりと見えるようになり、私たちは、人を責める前に、まず自分自身をよく見直す者に変えられるのです。

 また、神との平和を持つ人は、すべての人は神様によってつくられた者であることを知ります。その人が自分にとってどのような人であれ、自分の性格と合う人であれ、合わない人であれ関係なく、すべての人は神によってつくられた者なので、神様にとっては、大切な一人の人間です。神様はその人のためにもひとり子イエスをこの世に遣わして十字架にかけられました。人を愛せない者は神を愛することはできません。神を愛しますと言いながら、他人を憎む人は、偽善者です。私たちは、相手の態度に関係なく、自分に関する限り、すべての人との平和を造られなければなりません。その人が神様によってつくられた人だからです。また、私たちは、自分を愛する人とだけ平和を持つ者であってはなりません。主イエスはマタイの福音書5章47節でこう言われました。「自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるのでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。」私たちは、自分と気の合う人同士でグループをつくりがちです。その関係が親しければ親しいほど、そのグループは他の人を除外しようとし、結果的に、分裂や分派が生じます。人間の罪の性質は根深いので、私たちは、いつも自分の考えや行いを点検しておかなければなりません。人との平和は、創り出さなければなりません。ただじっと構えているだけでは、平和はつくれません。私たちは、神との平和をいただいた者として、つねに自分自身の心を見直し、自分の心の中にある、平和を乱す一切のものを悔い改めて、取り除かなければなりません。そのために、私たちは、聖霊の助けを求めて祈り続けることが必要です。それは決して簡単なことではありません。しかし、一人一人がそのように生きる時に、本当に小さな働きかも知れませんが、私たちの回りに平和が広がって行くのです。それが積み重なれば、私たちは、この世において平和を創り出すことができます。

 主イエスは、「平和をつくる人は幸いです。」と言われましたが、どのような意味で幸いなのでしょうか。主イエスは、「その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」と言われました。この言葉には二つの意味があると思います。一つは、ヘブル語特有の表現から来る意味です。ヘブル語には形容詞が少ないので、何かを形容する場合に、形容詞を使わずに、「~の子」という言い方をします。新約聖書にバルナバという人が出て来ますが、この人の本当の名前はヨセフです。「バルナバ」とは「慰めの子」という意味です。バルナバは、人を慰める賜物があったので、彼は本名のヨセフよりも、慰めの人というニックネームで呼ばれることのほうが多かったのです。従って、神の子と呼ばれるということは、平和をつくる人は、平和の神がなされる業を行っていることを神様が認めてくださるという意味になります。神のように平和を創り出す人と神様ご自身が呼んでくださいます。もう一つの意味は、私たちは、平和をつくる者として生きる時に、父なる神ご自身によって、また、平和の君である御子イエスによって「神の子」と呼ばれます。神の子とよばれるのは、単に神の子というタイトルをもらったという意味ではなく、神の子として認められ、神の子として受け入れられ、神の子としてのすべての特権が与えられることを意味します。創世記に出て来るヤコブは末息子のベニヤミンを非常に愛していました。ヤコブはベニヤミンの兄のヨセフをも非常に愛していましたが、彼は幼くして行方不明になってしまったので、ヤコブはいっそうベニヤミンを愛するようになりました。それで、ヤコブの他の息子は、ヤコブのいのちはベニヤミンのいのちと結ばれていると言いました。親の子に対する愛はそれほど強いのです。神様は、そのような強い愛で、神の子である私たちを愛してくださるのです。そして、神様は、終わりの日に、私たちは御子イエスとともに天においてすばらしい栄光を受けることを約束しておられます。平和をつくる人は、この世においては十分に評価されないかもしれません。批判されることがあるかもしれません。しかし、この世の人々が私たちをどのように取り扱うとしても、関係ありません。神の子どもは、永遠に朽ちることのない栄光を受けることが約束されているからです。争いや分裂が広がっている今の時代こそ、私たちは、自分に関する限り、すべての人との間に平和をつくることを目指しましょう。

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