2023年1月15日 『互いに愛し合いなさい』(1ヨハネ4章7-11節) | 説教      

2023年1月15日 『互いに愛し合いなさい』(1ヨハネ4章7-11節)

 この手紙を書いたイエスの弟子ヨハネには、ボアネルゲ(日本語に訳すと雷の子)というニックネームがつけられていました。「雷の子」とは、「雷みたいな人」という意味なので、おそらくヨハネは、短期で怒りっぽい性格の持ち主であったと思います。イエスと弟子たちが、ある時、ガリラヤからエルサレムに向かって旅をしてたら、サマリア人たちは彼らが自分たちの領土に入ることを許しませんでした。それを見たヨハネと兄弟のヤコブは、サマリア人に対して激しく怒り、主イエスに「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言う場面があります。このように、ヨハネも兄弟のヤコブも非常に怒りっぽい性格の人物でした。しかし、二人が、主イエスの弟子となって、様々なことを教えられ、体験したことによって、ヨハネは「愛の弟子」呼ばれる人物に変わりました。ヨハネは、主イエスが十字架に掛けられた時に、弟子の中でただ一人、十字架の前に立っていました。彼は、主イエスが十字架で苦しまれる様子を目撃し、また、主イエスが十字架で語られた7つの言葉を近くで聞きました。彼は、主イエスの十字架の苦しみは、自分に対する本当に大きく深い愛であることをただ頭で理解したのではなく、体と心の全体で感じ取りました。この体験が、ヨハネを「雷の子」から「愛の弟子」に変えました。彼は、この手紙の中に何度も繰り返して「愛」について語っています。イエスの弟子として生きるのに、最も必要なことは愛することであることを知ったからです。今日の箇所では、ヨハネは、クリスチャンがどのように愛しあうべきかを教えています。

  • 完全な愛と神のご性質(7-8)

 ヨハネは、手紙の読者に向かって「愛する者たち」と呼び掛けていますが、ギリシャ語では「愛されている人々よ」と書かれています。しかも、ギリシャ語には「愛」を表す言葉がたくさんあるのですが、ここでは「アガペー」の愛で愛されている人々と書かれています。ギリシャ語には、男女の愛を表す「エロス」、親子の愛情を表す「ストルゲー」兄弟愛や仲間同士の愛を表す「フィレオ―」という言葉があります。これらはどれも、人間が心に感じるものであり、受け身的なものと言えます。しかし、ギリシャ語にはもう一つ「アガペー」という言葉があって、これは、犠牲を払って表す愛であり、相手が愛するのに好ましい人物であるかどうか関係なく、自分から愛を与えて行く、そのような愛を意味します。ヨハネは、クリスチャンは、みな、神様からこの「アガペー」の愛で愛されている者であることをここに表しているのです。ヨハネは、なぜ、エペソ教会のクリスチャンに向かって「私たちは互いに愛し合いましょう」と勧めているのでしょうか。

 第一に、愛は神から出ているからです。それは、神はいのちである方であり、私たちに永遠のいのちを与えてくださいます。また、神様は光である方です。イザヤ書60章19節にステキな言葉があります。「太陽はもはやあなたの昼の光とはならず、月の明かりもあなたを照らさない。主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの輝きとなる。」そして、神様は愛なるお方です。主イエス・キリストを信じて、私たちは新しく神の子として生まれされていただきました。私たちは神の子ですから、神の子は父なる神に似るはずです。私たちは、互いに愛し合う時に、愛なる神の子としてふさわしい者となるのです。7節に記されているように、「愛がある者はみな神から生まれ、神を知っている」と言うことができます。

 さきほども言ったように、神の愛とは「アガペー」の愛です。相手が自分の好みに合う合わないに関係なく、相手のために最善のものを与えようとする愛です。イエス様も、山上の説教の中で、こう言われました。「あなたがたの敵を愛し、迫害する者たちのために祈りなさい。」この教えを聞いたユダヤ人たちはびっくりしました。旧約聖書のレビ記には、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」という律法がありました。この律法を理解するために、ユダヤ人たちは、「隣人」を自分の同じユダヤ人に限定して、レビ記の律法には書かれていないのに、「隣人を自分自身のように愛しなさい。」に「あなたの敵を憎みなさい。」という教えを加えていました。しかし、主イエスは、「あなたがたの敵を愛し、迫害する者たちのために祈りなさい。」と言われたのです。ユダヤ人たちが解釈していた教えとはまったく反対の教えです。私たちは、人を愛する時に、自分にとって愛するだけの価値がある人を愛する傾向があります。それは、自分を愛してくれる人であり、自分に何か利益をもたらす人です。人間の愛は、その奥底には自己中心の思いがあります。主イエスにとって、隣人とは、相手が誰であるかに関係なく、一切の差別を取り去った、敵も味方も関係なく、文字通りすべての人なのです。イエスはこの命令の後にこう言われました。マタイの福音書5章45節です。「天におられるあなたがたの父のこどもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます。」神様は、100%公平な方です。神様は悪人と善人をちゃんと区別しておられます。だれがどのような生き方をしているのかすべてご存知です。しかし、善人と悪人を区別したうえで、すべての人を公平に愛しておられます。私たちは、神の子どもとして新しく生まれた者ですから、父なる神と同じ心を持ち、同じ生き方をするのが当然です。

(2)神の愛はどのように表されたのか(9-10節)

 神様のご性質が愛そのものです。その神の愛はどのようなかたちで表されているのでしょうか。9節を読みましょう。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」第一に、父なる神はそのひとり子を遣わしたと書かれています。神様と人間の関係は、最初の人間アダムとエバが神様の命令を破ったために切れてしまいました。人間の側に、この関係が壊れてしまった責任があります。人間が罪の問題を引き起こしました。普通、何か問題が起こった時、問題を引き起こしたが被害を受けた人に謝ります。誰かが人の足を踏んだら、踏んだ人が謝ります。踏まれた人が「すみません」とは言いません。神様は、罪を犯して自分との関係を壊した人間が、彼らから神のもとへ罪の赦しを求めて近づくのを待つのではなく、自分から、人間との関係を回復するための行動を起こされました。第二に、そのために、父なる神は、ひとり子イエスをこの世に遣わされました。神様は、み使いを遣わすのではなく、アブラハムやモーセを遣わすのでもなく、ご自身のひとり子を遣わされました。この部分、日本語訳では「神はそのひとり子を遣わし」と普通の感じの文章ですが、ギリシャ語では、「子」という言葉を強調した表現になっています。ギリシャ語の順番通りに訳すと、「子を、そのひとり子を、神は遣わされた」となります。親にとって子どもを失うことほど大きな悲しみはありません。私の家族には5歳で亡くなった芳郎という兄がいました。私の父は8年間も戦争に行き、ビルマで終戦を迎えました。青春時代を戦争で失ったのですが、母と結婚して、子どもが生まれて、父はささやかな幸せを感じていました。芳郎ちゃんは特に父になついていたみたいで、父が家に帰ってくると、寝ていても起き上がって玄関まで迎えに行ったそうです。芳郎ちゃんは骨肉腫にかかり5歳で死にました。芳郎ちゃんが死んだ時、父の髪の毛は、一気に白髪になったそうです。父は私にそのことを一言も話しませんでしたが、母からその話を聞きました。親にとって、子どもを失うことはそれほど大きな悲しみなのです。神様の愛の大きさ、深さは、私たちのような神様に反逆しているような者のために、自分にとってもっとも大切なひとり子のいのちを犠牲にしてくださったことの中に現れています。

 神様が払ってくださった犠牲については、10節に記されています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」特に、注目すべき言葉は「宥めのささげ物」という言葉です。宥めるとは、「怒りを静める」という意味ですが、なぜ、神様は怒っておられるのでしょうか。神は聖なる神であり、正義の神です。したがって、神の掟を破ろうとする人間の罪の性質に対して怒りを抱いておられます。神の掟である律法は、例えで言えば、スポーツのルールのようなもので、律法がなければ、世の中は混乱してしまいます。もし、サッカーの試合で、選手が皆ルールを破って好き勝手にプレーすれば、試合自体が成り立ちません。そのように、神の正義、神の律法がなければ、世の中は大混乱に陥ります。神様は罪と罪人に対して怒りを感じておられます。しかし、同時に、神様は自分が造ったいのちである一人一人の人間を愛しておられます。普通の人間であれば、誰かに対して愛と怒りを同時に感じることは考えられませんが、聖なる神様には、それが可能なのです。神様は一人一人の人間のために、自分が持っているものをすべて投げ捨ててもよいと思うほどに、私たち一人一人を愛しておられます。そこで、神様が考えられたのは、人間が受けなければならない罪の罰を自分が受けることによって、人間が自分の罪の刑罰を受けなくてもよいようにすることでした。そこで、父なる神は、私たちの罪の罰を受けさせるために、御子キリストをこの世に遣わされたのです。神様は、すべての人が、罪を赦されて、神の子どもとなって生きることを願っておられます。この世でどんなに悪いことをした人であっても、神様は、その人を愛しておられます。そこには一切の差別がありません。神様は世界中のすべての人を罪の滅びから救いたいと願っておられます。一方、罪人である私たちには、神様から赦しを受けるためにできることは何一つありません。私たちは、神様の前で、100%正しい人間になることはできないからです。人間にできないことを、神様がイニシアティブを取って、神様の側から動いてくださいました。主イエスが十字架に掛けられた6時間、主イエスは、すべての人間の罪に対する神の怒りを、私たちの身代わりとなって受けてくださいました。主イエスの十字架が、神の怒りを宥めたのです。その宥めのそなえ物になったのが主イエス・キリストです。

(3)私たちは愛を実践しましょう(11節)

 ヨハネは、9節と10節で、神の愛がどのように表されたのかを述べた後で、結論として11節を記しました。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」私たちのいのちが造られたのは、神様の愛によるものです。私たちが罪を赦されたのも神の愛によるものです。そして、クリスチャンは、今、神の愛を受けて生きています。しかも、神様はヨハネが「これほどまでに」と言うほど、私たちを深く、広く、長く、愛してくださるのです。私たちは、神の子どもです。子どもは親の性質を受け継いでいます。私たちが、本当に神様の子どもであるかどうかは、その人のうちに神様の愛があるかどうかで決まります。神様が私たちに求めておられるのは、神を愛し、他の人を愛することです。私たちが奉仕すること、伝道すること、献金すること、聖書を学ぶこと、どれも大切なことですが、神様が一番求めておられるのは、私たちが愛を実践しているかどうかということです。

 主イエスは、マタイの福音書の5章の後半で、旧約聖書の律法から6つの教えを取り上げて、当時のユダヤ人たちがその教えを間違って理解していたことを示して、人々に神様が与えた律法の正しい解釈を教えられました。主イエスは6回同じ言い方をしておられます。「あなたがたは、昔の人々から~と聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。」これは非常に権威に満ちた言葉です。というのは、律法を正しく解釈する権威を持っておられるのは主イエスお一人だからです。主イエスは、当時のユダヤ教の指導者たちを激しく批判しておられますが、それは、彼らが律法を教える立場の人間でありながら、律法を正しく解釈せずに自分に都合の良いように解釈していたからです。これは律法学者だけの問題ではなく、私たちも聖書の教えを読むときに、自分に都合の良いように解釈することはありうるので十分に注意しなければなりません。」主イエスが取り上げた6つの律法の最後が「愛」に関する律法でした。というのは、神様が私たちにもっとも大切なものとして求めておられるのは愛であり、愛はすべての律法をカバーするからです。私たちが、本当に神を全力で愛し、自分の隣人を自分自身のように愛するなら、すべての律法を守ることになるのです。主イエスは言われました。「あなたの敵を愛し、迫害する者たちのために祈りなさい。」これは、主イエスご自身が十字架の上で実践されたことです。十字架にはりつけにされた主イエスは、自分をはりつけにしたローマの兵士たちのために祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです。」そして、言われました。「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。」クリスチャンの価値観はこの世の価値観とまったく異なります。この世の人々は、自分を愛する人を愛します。自分が愛したいと思う人を愛します。すべて自分にとって得なのか損なのかという計算が働いています。取税人は、今の時代のやくざみたいな存在でした。やくざの世界でも、自分を愛する人を愛することはきちんと行われています。主イエスキリストから、犠牲をともなうアガペーの愛で愛された私たちは、アガペーの愛で愛し合わなければ意味がありません。この世と同じ愛し方は、塩気を失った塩みたいなものです。愛し憎い人を愛することは難しいです。だから、主イエスは言われました。「迫害する者のために祈りなさい。」自分たちのうちにはもともとアガペーの愛はないのです。だから、敵を愛することができるように、自分と何となく合わない人、考え方が合わない人を愛せるように、まず祈ることから始めましょう。敵を愛することは決して簡単ではありませんし、時間がかかります。しかし、これを目指す人と最初からあきらめた人では、明らかに結果が変わります。今年のテーマは「平和をつくる者になる」です。平和を創りだすためには、敵を愛そうとする心を持ち、迫害する人のために祈るこころがなければ、絶対に実現しません。愛なる神様の子どもなった私たちは、父なる神様からの愛を日頃の生活の中でもっと多く、もっと深く味わいながら、父なる神のご性質を少しずつ身に着けて行きましょう。

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