2023年1月22日 『愛する人になりなさい』(1ヨハネ4章12-21節) | 説教      

2023年1月22日 『愛する人になりなさい』(1ヨハネ4章12-21節)

(1)神が私たちのうちにとどまっておられる

 先週もお話ししましたが、神様がクリスチャンに第一に求めていることは愛する人になることです。クリスチャンにとって最も大切な2つの命令は、第一に全力で神様を愛することであり、第二、隣人を自分自身のように愛することです。12節で、ヨハネが言おうとしているのは、私たちのうちに本当に神様が宿っておられるのか、聖霊が私たちを支配しておられるのか、それを証明するのは、私たちのうちに愛があることだということです。イエスの12人の弟子たちは、主イエスに直接選ばれた12人でしたが、主イエスの期待に答えた弟子とは言えませんでした。彼らの中にはライバル意識がいつもありました。最後の晩餐の時、主イエスが明日十字架にはりつけになるという時でさえ、弟子たちは「自分たちの中で一番偉いのは誰なのか」と議論していたのです。主イエスは、彼らの心の思いをすべて見抜いておられました。それで、その晩餐の席で主イエスは弟子たちに言われました。「互いに間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることをすべての人が認めるようになります。」(13章35節)ヨハネもその時は、他の弟子たちと同じようにライバル意識を持って、他の弟子たちと張り合っていたと思います。しかし、彼は、十字架のイエスの姿、イエスが死んだ時に起こった出来事、そしてキリストの復活、聖霊が送られて来たペンテコステという出来事を通じて、彼が本当に主イエスが願っておられたような弟子に変えられたのです。彼は12節でこう言いました。「私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」これはどういう意味でしょう。一つには、神によって愛を受けた人たちが、回りの人々への愛を実践する時、神様の愛が、その人のうちにあって、神の願っておられる目標に達するということを表しています。これは、言い方を変えると、隣人を愛する人こそが、本当の意味で神様を愛する人になれるのだということだと思います。ヨハネは、繰り返して「全うする」「全うされる」という言葉を用いていますが、これは「完全」という意味を持つ言葉です。ただ、愛の完全とは、モラル的に一点の汚れもあやまちもない完全という意味ではなく、十分に成熟したという意味です。人間が、神様の愛を生活の中で表すのに、もっともふさわしいのは、私たちが他の人との関係において、神の愛であるアガペーの愛を実践することなのです。アガペーの愛とは、人が自然に感じる感情としての愛ではなく、犠牲を払ってでも実践する愛、犠牲をともなう愛です。その愛を実践することを目標として生きる時に、わたしたちの内に、神の愛が完全に成熟するのです。もう一つは、私たちが隣人をアガペーの愛で愛する時、そのことによって、その人のうちに神がおられることが明らかになります。ヨハネは「とどまる」という言葉をよく使います。福音書にも手紙にも多く使われています。12節から16節の間だけで6回出て来ます。ヨハネが「神が私たちのうちにとどまる」と言う時、それは、私たちと神様との間の関係を言うだけではなく、私たちが、神様の命令に従って生きる姿勢、生きる決意を持っていることをも表しています。つまり、私たちのうちに神様がとどまっておられる時、私たちは、神の子どもとしてふさわしい生活ができるということを意味するのです。

(2)聖霊による証し

 13節で、ヨハネは次のように言いました。「神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。」ヨハネが言おうとしていることは、神様が私たちに聖霊を遣わして、私たちのうちにとどまるようにしてくださったことによって、私たちは、自分が本当に救われていると確信を持つことができるようになったということです。私たちのうちに聖霊がとどまっていることによって、私たちは本当にキリストとつながっていることを確信できるのです。聖霊は、いつ私たちのうちにとどまってくださるのでしょうか。聖書は、私たちが主イエスを信じると告白する時に、聖霊が私たちのうちにとどまると教えています。私たちは、イエスを信じる信仰告白をする時、私たちは神の子どもとして生まれ変わります。これを新生と呼び、英語ではborn againと言います。そして、私たちは聖霊によって生まれ変わり、キリストの体である教会の一員となります。この時の教会とは、北本福音キリスト教会ではなく、世界中のクリスチャンの家族としての全体的、普遍的な教会のことです。使徒信条の中に「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、、、を信ず」という箇所がありますが、この「聖なる公同の教会」がキリストの体なる教会のことです。第一コリント12章13節にはこう記されています。「私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」地上にある教会、私たちの教会もその一つですが、そこには様々な背景を持つ人々が集まっています。一人一人の性格、能力、賜物、関心のあること、趣味、みんなばらばらです。しかし、いろいろな違いがありますが、私たちは一つの点においてみな同じです。私たちは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰において一つです。私たちは、イエス・キリストを信じる時に、聖霊によるバプテスマを受けて、信者の集まりである公同の教会というキリストの体に加えられました。だからと言って、私たちは自分の個性を失う訳ではありません。私たちは、それぞれが違った個性、能力、賜物、関心事、趣味を持ち続けていますが、その違いを超えて、私たちはキリストにあって一つとされています。私たちは、みな、同じ一つの御霊を飲んだので、私たちのうちには同じ聖霊がとどまっているのです。公同の教会に属する一つの教会が北本福音キリスト教会です。教会の中に、様々な人がいるのは当然のことです。私たちは、考え方、ものごとのやり方、得意なこと、みな違いますが、どれが良くてどれが悪いということはありません。その違いを超えて、私たちは、キリストにあって一つとされているのです。

(3)聖霊がとどまっていることの証拠

 聖霊が私たちの内側にとどまっておられることが、私たちが主イエスを信じて神の子どもとなったことを証しするとヨハネは13節までのところで語ったのですが、その事実は、神の子どもとなったクリスチャンにはどのような影響を与えるのでしょうか。ヨハネは2つのことを14節以下で記しています。一つは、その人は神を証しする人になるということです。14節にはこう書かれています。「私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。」 ここで「世」と言われているのは、単なる私たちが今住んでいる世界という意味ではなく、神に従おうとしない罪人が中心となって動いている世界、言い換えると神様の敵である悪魔が支配している世界です。この世の人々は、神様から遠く離れていて、神様の教えを無視して、自分に都合の良いように生きている人々です。彼らは神様の言葉に耳を傾けようとしません。しかし、そんな世の人々の所に父なる神様は御子イエスを遣わされました。父なる神が御子をこの世に遣わしても、この世の人々は御子イエスに対して無関心であり、御子イエスをむしろ自分にとって邪魔な存在と考えました。御子イエス・キリストがこの世に来られたのは、そのような罪人を救うためでした。14節の言葉は「福音」そのものです。聖霊が心のうちにとどまっている人は、福音を証しする人になります。15節の言葉もそのことについて述べています。「だれでも、イエスが神の御子だと告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。」私たちがイエス・キリストを救い主と信じてクリスチャンとなった時、私たちは神の子どもとなるので、神様と私たちは親子の関係になります。しかも、私たちはもともと神に敵対する生き方をしていた者だったにもかかわらず、神様は私たちを子どもとして受け入れてくださいました。私たちは、このことにいくら感謝しても感謝しきれないほどです。そのような感謝な気持ちがあると、人は、自然にそのことを誰かに伝えたくなります。自分の感謝の気持ち、自分の喜びを誰かと分かち合いたいと思うからです。神様を愛し、神様に感謝する気持ちがあればそれが自然ではないでしょうか。それが証しです。証しとは、何か意気込んで行うことではなく、自然に自分と神様の関係を他の人に語ることです。ただ、私たちにとって証しが難しいのは、この世の人々が神に敵対しているからです。キリスト教を歓迎しない人が多いこの世の中では、自分がクリスチャンであると語ることによって、世の人々からどのように言われるのか恐れを感じる人も多いでしょう。しかし、主イエスはある時、はっきりと言われました。「だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないという者は、わたしも天におられる父の前で、その人を知らないと言います。」私たちは、御子イエスのいのちと引き換えに罪を赦されて神の子どもとしていただきました。私たちはそれほどの愛で愛されています。私たちは、神様を恥としない者でなければなりません。もし、私たちが神に敵対するこの世の人々を恐れて、主イエスを知らない者のようにふるまうとすれば、神様はどのように思うでしょうか。私は、小学生の頃、父を恥ずかしいと思っていました。というのは、父が若白髪で私が小学生のころすでにかなり白くなっていたので、父親参観に父が来ると、みんなが「おじいちゃんが来ている」と言ったからです。私は、父が若白髪になった理由を知らなかったので、父のことが恥ずかしくで、父に「父親参観には来ないでいい」と言ったことを覚えています。父はそれを聞いてどう思ったのか、今思い返して、本当に悪いことをしたなと思っています。もし、私たちが神様を恥ずかしいと思ったら、私のために十字架の苦しみを受けてくださった主イエスを恥ずかしいと思うのなら、本当に神の子どもと言えるでしょうか。ペテロが主イエスを3回知らないと言ったのは、彼が大祭司の家に入った時に、イエスの弟子であることを隠して入ったからです。このペテロの姿勢が、結果的にイエスを知らないと3回も言ってしまう大失敗を引き起こしました。私たちは、自分がクリスチャンであるという、はっきりした態度を持っておかなければなりません。主イエスは言われました。「体を殺せてもたましいを殺すことのできない人間を恐れる必要はありません。むしろ、体も魂も滅ぼすことのできる神を恐れなさい。」私たちは、神様を、主イエスを恥としないクリスチャンでありたいものです。

 聖霊が私たちのうちにとどまっていることのもう一つの証拠は、私たちが互いに愛し合うことにあります。16節から21節の中でヨハネはそのことを繰り返し述べています。イエスの愛弟子ヨハネにとって、私たちのクリスチャンとしての信仰が本物なのかどうかを決めるのは、私たちが、互いに愛し合っていることです。16節でヨハネはこう言いました。「神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」私たちが互いに愛し合う時に、17節に記されているように、私たちは、さばきの日に確信を持つことができます。主イエスを救い主と信じるクリスチャンの魂は、信仰によって救われ、永遠のいのちが与えられています。この事実は、私たちの側から信仰を捨てない限り変わることはありません。私たちの魂は天国に移されることは変わることがありません。しかし、すべての人は死んだ後に、神様の前で自分が生きて来た人生について神様に報告をしなければなりません。神様は、私たちの人生のすべての行い、すべての言葉、すべての思いや考えを知っておられます。それらがさばかれるのです。ヨハネはこの手紙の2章28節で、こう述べています。「こどもたち。キリストにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。」したがって、私たちは、キリストにとどまり、互いに愛し合う生き方を実践していれば、キリストの前に立つときに恥じることはありませんが、もし、互いに愛し合う生き方をしていなかったら、恥を見ることになるのです。私たちは、回りの人々についていろいろな感情を持ち、その人と接します。そして、その人を愛することもできますし、その人を裁くこともできます。しかし、主イエスは言われました。「あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。」目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。私たちの教会がこの世に向かって最も力強く証しできるのは、私たちの間で互いに愛し合うことをとおしてです。教会はキリストの弟子の集まりです。キリストの弟子は、天国をめざして、互いに愛し合うことを実践する者です。もし、私たちが心の中で「あの人を愛することができない」「あの人を赦すことができない」という思いを持つなら、問題はその人の中にあるのではなく、その思いを持つ人の中にあります。キリストの弟子の集まりの特徴であるべき姿、互いに愛し合うことを妨げているからです。私たちは、互いに、自分の愛がキリストの弟子として相応しいものかどうか吟味して、相応しくないものがあれば、悔い改めてまず自分が赦されなければなりません。主の前に、いつもへりくだって、お互いが、私たち一人一人が、主イエスの本当の旗印である、兄弟を愛する愛を実践し続けなければなりません。その時に、世の中の人々は、私たちが本当にイエス・キリストの弟子であることを知るのです。

2023年1月
« 12月   2月 »
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031  

CATEGORIES

  • 礼拝説教