2023年1月29日 『信仰は勝利』(1ヨハネ5章1-5節) | 説教      

2023年1月29日 『信仰は勝利』(1ヨハネ5章1-5節)

 4章では、ヨハネは、キリストの弟子として生きる時に、私たちが互いに愛し合うことが大切であり、また、そのことが私たちが本当のキリストの弟子であることを示すものだという点を強調していました。今日から最後の5章に入りますが、今日の箇所では、私たちが互いに愛し合うことから、さらに一歩進んで、私たちの神様に対する愛がテーマとして記されています。私たちは、天の父なる神様に対する愛がなければ、キリストの弟子同士が互いに愛し合うことはできません。主イエスが聖書の中で最も大切な神様の命令を2つあげられましたが、その順番が重要です。主イエスは言われました。まず第一に、父なる神様を心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして愛すること、そして、第二に、自分の隣人を自分自身のように愛すること。私たちは、第一の命令を守らなければ、第二の命令を守ることはできないのです。私たちは、なぜ、父なる神を愛するのでしょうか。それは、まず、父なる神が私たちを愛してくださったからです。1ヨハネの4章10節で、ヨハネは次のように述べています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」私たちが父なる神を愛するのは、父なる神が、まず私たちを愛してくださったからです。神様が造られた最初の人間が神様の命令を破って罪を犯したために、人間と神様との関係を壊してしまいました。この問題を引き起こしたのは人間なのですが、神様が、先に行動を起こして、自分の大切なひとり子を犠牲にして、私たちの罪の問題を解決してくださいました。ここに神様の私たちに対する愛が示されました。神様は、私たちの心の中に神様への愛があること、その愛が大きくなることを願っておられます。そのことをヨハネは私たちの中で神様への愛が「全うする」という表現を使って表していますが、この「全うする」という言葉は、十分に成熟するという意味で使われています。私たちは、誰かに対して、その人の素晴らしさ、その人のやさしさを知れば知るほど、その人に対する愛情が深まります。私たちクリスチャンは、毎日の生活の中で、神様のことをもっともっと深く知るように努めることが大切です。それは、み言葉を味わって読むことと祈りをとおして神様と交わることによって実現します。私たちは、時折、愛されていることを知らないために、気落ちしたまま生きていることがあります。私たちは、神様からどれほど愛されているのか、そのことを毎日確認することが大切です。

  • 喜んで主に従う(1-3節)

 1節に「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。」とあります。十字架にかかって死に三日目に死から復活したイエスは、私たちを罪による滅びから救い出す救い主と信じる者は、神から生まれて神の子どもになるということを意味する言葉です。クリスチャンと神との関係は家族の関係であることを表しています。普通の家庭において、子どもが親を愛することは自然のことです。人間の親の場合には、いろいろな親がいるので、当てはまらない場合があると思います。しかし、父なる神様は、私たちを救い出すために、自分のひとり子をさえ惜しまずに私たちの身代わりとして、十字架にはりつけにされました。その愛を知るなら、父なる神様を愛することは当然のことではないでしょうか。私は、私を生んでくれた母にすごく感謝しています。私の母は2番目の男の子を8月に出産して、その直後の11月に長男を亡くしました。この時、母は出産と長男の看病が重なったために、母の体はひどく弱っていました。産婦人科の先生からは「今は、決して妊娠しないようにしなさい」と言われていたにも関わらず、私を妊娠してしまいました。先生からは、今の体で出産すると母は死ぬかもしれない状態だったので、私をおろすように勧められたそうです。しかし、母は私の兄が一人っ子になるのはかわいそうだと思って、ドクターの言葉に逆らって、私を産んでくれました。もし、その時に、母がドクターの言葉に従っていたら、私はこの世に存在することがなかったので、私は母にとても感謝しています。子どもが親を愛することは、人間の親子関係の中でも自然なことと言えますが、神様と私たちの関係においては、私たちは、非常に大きな愛で神様から愛されたのですから、神様を愛する気持ちを持つことはまったく自然なことです。さらにヨハネは1節で、「神から生まれた者はみな、その方から生まれた者も愛します。」と述べています。私たちはみな、一つの大きな神の家族に加えられました。ヨハネは、神の家族に生まれた兄弟姉妹は、互いに愛することが当然だと教えています。人間の家族の場合、子ども同士、最初から仲が良い兄弟もいますが、仲の悪い兄弟もいます。だんだん大人になって、子ども同士の関係が変わって行きます。私の一つ上の兄は私より体も大きく力も強かったので、私にはこわい兄でした。お互いにあまり関わらないような関係でした。しかし、年を取るにつれ、しかも兄が近くに住むようになって、ようやく、兄に対して慕わしい気持ちを持つようになりました。兄弟を愛することを学び取らなければなりませんでした。人間の家族においては、成長するとともに、家族を愛することを学んでいくことになります。私たちは、キリストを頭としたキリストの体なる教会に属していますから、神様は、私たちが互いに愛し合うことを願い、期待しています。

 神を愛することによって、私たちは神の子ども同士愛し合うことが期待されていますが、神を愛する者に期待されていることがもう一つあります。それが、2節に記されているにように、「神様の命令を守ることです。」しかも、それはただ神の命令を守ることではなく、喜んで神の命令を守ることが期待されています。3節には次のように書かれています。「神の命令を守ること、それが神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」私たちは、普通、人から命令されると喜ばしいこととは思いません。子どもは親から「~しなさい」と言われると、よろこんで従うこどもは少ないでしょう。それは、子どもがその命令の意味を十分に理解していないからです。しかし、普通、親が子どもに「~しなさい」と言う時は、それは、その命令に従うことが子どもにとって良い事だからです。きちんと手を洗うこと、よく噛んでものを食べること、寝る前に歯を磨くこと、これらのことは、行動するには少し面倒くさいと感じることがあるかもしれません。しかし、それを実行することが子どもの健康が守られるのには非常に大切なことです。親はそのことを知っているので、子どもに命令します。子どもは、まだ、成長するときに、親の命令を守ることの大切さを学び取って行くのです。それと同じように、神様が私たちに与えられる命令はすべて、私たちの信仰にとって益となるためのものです。そのことを私たちは毎日の信仰生活の中で学んでいかなければなりません。私たちは、聖書を読むときに、信仰の教科書や取扱説明書のように読むのではなく、神様からの、いわば、ラブレターのように読むことが大切です。聖書の中には私たちを慰め、喜びを与えるみ言葉がたくさんあります。例えば、イザヤ書43章4節で、神様は私たちにこう語っておられます。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。たしはあなたを愛している。」私たちはこのような言葉を聞くと、まるで、泣いている子どもが母親に抱めいれいをかれて慰められるように、心の中に大きな慰めや喜びを感じます。しかし、私たちは信仰的にも成長しなければなりません。そのためには、ただ、いつも自分が慰められることだけを求めていてはなりません。信仰の足腰が強くならないからです。神様の言葉を読み、神様の言葉に従って行くときに、私たちの信仰は強くされるのです。詩篇の119篇は150節まである、一番長い詩篇ですが、そのテーマはみ言葉です。150もある節の中で、み言葉を表す言葉が書いてないのは2節しかありません。119篇を書いた人は、神様の言葉、神様の教え、神様のおきてを心から愛していました。14節にはこう書かれています。「私は、あなたのさとしの道をどんな宝よりも楽しんでいます。」彼はさらに、54節でこう記しています。「あなたのおきては私の旅の家で私の歌となりました。」神様の命令を歌にして歌っているということは、この人は神様の命令に喜んで従っていて、重荷とは感じていないことが分かります。これが、霊的に成長したクリスチャンの姿なのです。私たちが、神様を深く愛するようになると、神様の命令や掟を恐ろしいものとは思わず、そのおきてに従うことがむしろ喜びとなるのです。神様の命令は重荷にはなりません.

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