2023年2月12日 『永遠のいのちを持つ者』(1ヨハネ5章6-12節) | 説教      

2023年2月12日 『永遠のいのちを持つ者』(1ヨハネ5章6-12節)

ヨハネはこの手紙の5章1節から5節のところで、イエス キリストを信頼することの大切さを強調しています。キリストを信頼する人は、神から生まれた者であり、世に打ち勝つことができます。 イエス・キリストが神の御子であると信じることは、クリスチャンとしての土台です。しかし、イエス・キリストが神であることをどのように確信することができるでしょうか。ヨハネの時代の人々の中には、イエスが「わたしは三日後によみがえる」と言って人々を惑わしていると言う人が

いました。また、イエスを悪霊につかれた者だと言う人もいました。ヨハネが手紙を書き送ったエペソの教会の人々の中に、人間イエスはバプテスマを受けたときに「キリスト」の霊を受けて、十字架の上でキリストの霊は去って行ったと考える人たちがいて、イエスが十字架で死んだ時には、普通の人間と同じように死んだと考えていました。ヨハネの手紙は、このような誤った考えに反論していて、そのために、今日の箇所で、ヨハネは、イエスが神であることを証明する3人の証人を紹介しています。今日読んだ聖書の箇所で、「証し」という言葉が繰り返し用いられているのはそのためです。ヨハネは、手紙のこの個所を書く時に、裁判所の場面を頭に描いていたのではないでしょうか。裁判は、何が真実であるかを突き止めるために行います。そして、そのために、いろいろな状況を知っている人たちが証言者として呼ばれます。ヨハネは、7節8節で次のように書いています。「三つのものが証しをします。御霊と水と血です。この三つは一致しています。」ヨハネは、主イエスが、本当に人としてこの世に来られた神、救い主であることを、これら三つのものが証言するのだと主張しているのです。

(1)水と血のあかし(6節)

ヨハネは最初の証人として、水を呼び出しています。それは、主イエスがバプテスマを受けたときのヨルダン川の水のことです。裁判の証人としてはとても奇妙な証人ですが、ヨハネは、その水に証言をさせているのです。洗礼者ヨハネが救い主を迎える預言者として、ヨルダン川で人々に罪の悔い改めを勧めて、洗礼授けていました。そこに、地上での宣教の開始する時に主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けるためにヨルダン川にやって来ました。その時のヨルダン川の水を、ヨハネは、イエスが神であることを証明する証人と見なしています。イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けるために、ヨルダン川の中に入り、腰の深さまで降りて来られました。 ヨハネはイエスに洗礼を授けました。 その後、驚くべきことが起こりました。 イエスは水の中に立っていましたが、天が開いて、イエスの上に鳩のようなものが降りて来ました。そして、 天から声、父なる神の声が聞こえました。「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ。」天から聞こえた父なる神の声がイエスを「私の愛する子」と言ったことを、ヨルダン川の水は確かに聞いていたのです。それが、ヨハネが言う、水による証しのことです。

 次に、ヨハネは水よりもさらに奇妙な証人を紹介しています。それは、十字架で流されたイエスの血です。イエスが流した血は次のように証言することでしょう。「私は、ピラトの前での裁判の時に、イエスがむち打たれたのを見ました。イエスの背中は血まみれになりました。そして、いばらの冠がかぶらされたとき、イエスの顔から血が流れ落ちました。最後に太い釘がイエスの手と足に打ち込まれて、イエスが十字架につけられたとき、私はイエスの頭、イエスの手、イエスの足から流れ落ちました。そして、私は、イエスが確かに死んだのを目撃しました。」しかし、それだけではなく、十字架で流された血は、イエスが十字架に掛けられていた時に、真昼にも関わらず空が真っ暗になったこと、地震が起こったこと、神殿の中の至聖所と呼ばれた場所を隠すために掛けられていた幕が上から下に向かって真っ二つに裂けたことも目撃しています。イエスは、確かに、神の子として十字架で死なれました。私たちの罪の罰を身代わりに受けてくださったための激しい苦しみを伴った死でした。 

(2)聖霊の証し(7、8節)

 十字架につけられる直前、ヨハネの福音書15章26節で主イエスはこう言われました。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」キリストが遣わす聖霊は真理の御霊と呼ばれています。聖霊は真理だけを語る方です。そして、聖霊が何を証しするのかと言うと、キリストについて証しします。聖霊は三位一体の神としてはじめから主イエスとともにおられました。初めに神が天と地を創造された時も御子イエスとともにおられました。主イエスが洗礼を受けられた時も、十字架で死なれた時も、三日後に復活された時も、その場に主イエスとともにおられました。そして、聖霊は永遠にキリストと共におられる方です。その聖霊は、イエスキリストが約束されましたが、イエスを信じる者一人一人のうちに与えられています。その聖霊が、イエス・キリストこそ神であると証言しておれらえるのです。今の私たちにとっては、ほとんどの場合、聖霊は、み言葉をとおして私たちに語られます。したがって、私たちは、聖霊の語らいかけを聞くためには、み言葉を読まなければなりません。み言葉は、神の口からでた言葉で、私たち一人一人に語り掛けられている個人的な神様からのメッセージです。聖霊は、私たちが今どのような状況に置かれているのか、どのような信仰を持っているのかすべてご存知です。聖霊が、キリストこそ、単なる人間ではなく、生ける神の子であり私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださる救い主であることを証言してくださいます。しかし、それだけではありません。聖霊は、救い主イエスの働きによって、私たちが神の子であることをも証言してくださるのです。そのことは、聖書の中に繰り返し語られています。ローマ人への手紙の8章には聖霊の証言について詳しく書かれています。実は、ローマ人への手紙では、1章から7章の間に、「聖霊」という言葉は4回しか出て来ませんが、8章の前半だけで16回も出て来ます。16節には次のように書かれています。「御霊ご自身が、私たちの霊と共に、私たちが、神の子どもであることを証ししてくださいます。」聖霊は、私たちが主イエスを救い主と信じる信仰によって神のこどもになっていることを証言しています。それは私たちの行いによるのではありません。私たちの行いによって私たちが神の子どもであることが決まるのであれば、その証人は私たちの行いによることになります。私たちの行いは日々変わりますから、そうなると私たちは自分が神の子どもであるという確信は持てません。しかし、聖霊は、私たちの主イエスを信じる信仰によって、私たちが神のこどもであることを証言してくださるのです。さらに、エペソ人への手紙には「約束の聖霊によって証印を押されました。」と書かれています。ローマ帝国の時代にも、子どものない家庭が養子を迎えることがありましたが、その時に、養子を迎える親は書類に必要事項を記入して最後に証印を押すことが求められました。それと同じように、聖霊は、私たちが神の子であることを保証して、証印のハンコを押してくださるのです。だから私たちは恐れる必要がありません。私たちが主イエスを信じる信仰を持って生きる限り、私たちが神の子どもであることを聖霊が証ししてくださるからです。

(3)神の証しと人の証し(9.10節)

 旧約聖書の律法では、人間が裁判を行う時には、一人の証人だけではだめで、少なくとも2人か3人の証言が必要でした。それに対して、ヨハネは、3つの証言者を与えています。水と血と聖霊ですが、イエスの洗礼の時もイエスの十字架の時も、父なる神は、その様子を見守っておられました。そして、今、聖霊が、私たちクリスチャンの心に宿って証言してくださいます。水と血と聖霊だけでなく、三位一体の神が、イエスが神であることを証言しているのだとすれば、人間の裁判の場合でも二人か三人の証言で、結論を出すのですから、私たちには、水と血と三位一体の神の証言を拒否する理由がありません。実は、私たちは毎日の生活で、一人の証言でも、それを信じて生活しています。それがなかったら、私たちは、書類にハンコを押すこともできませんし、店で

支払いをすることもできませんし、乗り物に乗ることもできませんし、生活で行っている大部分のことができなくなります。私たちは、多くのことを証拠がなくても信じて生活しています。私たちは、神の御子イエスを信じるなら、その証しを自分のうちに持っています。聖霊による証しです。聖霊が私たちの内に働いてくださって、私たちはみ言葉の約束を確信して受け取っています。一方で、神を信じない人は、神の言葉を信じない人です。言い換えると、神を信じない人は、神が真実を言っていないと信じて、神は偽り者であると信じる自分の不信仰を証ししているのです。神を信じない不信仰は、はっきりした意志による罪です。真実の唯一の神の言葉に逆らい、偽りの考えを広めるという罪を犯しているのです。

(4)御子を信じる者に与えられる永遠のいのち(11,12節)

ここまで、イエス・キリストが確かに神の子であることを証言する者たちの証言について見て来ましたが、その証言は、私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。11節でヨハネはこう述べています。「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるという言うことです。」つまり、ヨハネが語ってきた証しは、私たちがイエスキリストを信じる信仰の中心が「永遠のいのち」を持つことにあると教えているのです。永遠のいのちはキリストの内にあり、イエス・キリストを信じる者はこの永遠のいのちを持っており、信じない者は、永遠のいのちを持っていません。永遠のいのちは、単に、終わりのないいつまで続くいのちではありません。キリストにあるいのちです。キリストが持っているいのちにあずかることを意味します。キリストと同じ生き方をする者に変えられるのです。イエスの弟子であったヨハネは福音書も書いていますが、彼は自分がなぜ福音書を書いたのか、その理由を記しています。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることをあなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」福音書は、まだ、イエスを救い主として信じていない人が、イエスを信じて、このイエスと同じいのちを持つ者になるように導くために書かれました。一方、このヨハネの手紙は、すでにイエスを救い主と信じるクリスチャンのために書かれたものです。ヨハネがこの手紙を書いた理由は何でしょうか。それは、主イエスを救い主と信じたクリスチャンが、罪が赦されて神の子となっていること、そして、キリストのいのちを持っていることについて完全な確信を持つように導くためでした。私たちは、決して、傲慢になってはいけませんが、確信を持つことは必要です。私たちは、自分が良い行いを行ったことの結果によって永遠のいのちを持っているのではありません。御子イエスが十字架で死んでくださったこと、三日目によみがえってくださったこと、主イエスのおかげで永遠のいのちを持つ者になっています。これは、神様からのプレゼントです。だれもプレゼントにお金を払いません。そんなことをしたら大変失礼なことになります。救いと永遠のいのちは、神様からの賜物、プレゼントです。私たちは、ただ信じて受け取るだけなのです。しかし、12節を読むと、ヨハネはそれだけを語っているのではありません。「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのち を持っていません。」御子イエスに関する証言がこれだけそろっているのに、イエス・キリストを信じない人は、御子イエスが持っているいのちを持っていません。イエス・キリストが神でないとすれば、偉大なる嘘つきか気が狂った者かのどちらかです。主イエスは、自分が真理だと言われましたし、自分を神だと言っておられます。そのようなことを普通の人間が言ったのであれば、イエスは気が狂っているとしか言えません。それを信じる人たちには、永遠のいのちは与えられずに、神の怒りがとどまります。聖書は、厳粛なこととして、人が死んだ先に行く場所は2つしかないと言っています。永遠のいのちを生きる場所か、永遠の滅びを経験する場所かのどちらかです。誰にもイエスを信じない自由はあるのですが、しかし、信じない者には神の怒りがとどまり、肉体が死んだら、あなたは永遠の滅びに行かなければなりません。聖書はそう記していますし、父なる神も、御子イエスも、それを証言しています。その証言がもし事実なら、あなたの永遠は滅びです。しかし、神様は、それを望んでいません。聖書が書かれたのは、永遠の滅びから永遠のいのちに入るように、神様が私たちを招くためなのです。聖書のメッセージは、何度聞いたとしても、聞くだけでは意味がありません。旧約聖書のイザヤ書55章は「大いなる招きの章」と呼ばれています。それあ、預言者イザヤを通して神様がイスラエルの民に向かって大きな招きをされたからです。イザヤは紀元前700年ごろに活躍した預言者ですが、当時、神の民であるイスラエルの民は神様に背を向けて、他の神々をも拝んでいました。そのため、彼らはやがてバビロンによって滅ぼされることが預言されていました。しかし、神様はそのような自分に反逆するイスラエルの民に向かって、神のもとに戻るようにと招き続けられました。55章の3節にはこう書かれています。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。」神様は、いつまでも忍耐をして、私たちすべての人間を招いておられます。あなたも招かれています。それにあなたはどう応えますか。あなたの永遠は、永遠のいのちの永遠ですか、永遠の滅びの永遠ですか。あなたはどちらを選ぶのでしょうか

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