2023年2月19日 『平和をつくる者になりなさい』(ローマ12章18-20節) | 説教      

2023年2月19日 『平和をつくる者になりなさい』(ローマ12章18-20節)

 今日は、今年のテーマ聖句である「平和をつくる者は幸いです」に続いて、使徒パウロがローマのクリスチャンに対して書き送った手紙の中で述べている「平和を造る者になりなさい」という言葉を取り上げたいと思います。パウロは、当時まだ誕生したばかりでいろいろな弱さを持っていた各地のキリスト教会をサポートするために数多くの手紙を書いていますが、ローマ人への手紙もその一つです。当時、多くの教会に間違った教えが入り込んでいたために、パウロは、教会のクリスチャンたちに、正しい福音を教える必要がありました。そのため、彼の手紙の前半はクリスチャンが信じている教えとは何かということを述べています。このローマ人への手紙では中心となる教えは二つです。その2つのポイントとは、私たちは、ただ信仰によってのみ、神様の前に正しい者と見なされるということと、聖霊の助けを受けて私たちは、罪に勝利する生き方ができるということでした。そして、パウロは手紙の後半で、その教えに基づいてクリスチャンはどのような生活をするべきかという実践的な教えを書いています。究極的に言えば、それは2つの戒めに要約することができます。第一に全力で神様を愛することであり、第二に、自分の隣人を自分自身のように愛することです。パウロは、ローマ人への手紙12章3節から13節の所で、特に二番目の戒めの実践として、教会の中で互いにへりくだって愛し合うことが勧められています。教会は神の家族であると言われますが、神が喜ばれる家族にはお互いに相手を尊敬し、相手を優先して愛し合う姿があります。15節には、「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」とあります。この言葉について、尾山令二先生は興味深いことを書いておられます。長いですがそのまま引用します。「喜ぶ者とともに喜ぶことは難しいが、泣く者とともに泣くことはそれほどむかしくはない」という人がいますが、そういう人は、決して泣く者とともに泣いてはいません。喜んでいる人とは自分よりも分の良い人で、泣いている人は自分より分の悪い人です。自分より分の悪い人となら一緒になれると思っている人は、その人の所まで下りて行って一緒になろうとしているのではなく、自分は高いところにいて、ただ憐みの気持ちを投げかけているだけです。このような態度では、自分より分の良い人の所へはいけません。喜ぶ者の所まで行って一緒に喜び、泣く者の所まで行って一緒に泣ける人が、本当の愛の人です。」

 ただ、当時のクリスチャン、特にローマにいたクリスチャンは外の世界から激しい迫害を受けていました。ローマ皇帝ネロはクリスチャンに対する弾圧を行っていました。私たちは、教会を憎む人々から迫害を受けたり、不当な仕打ちを受けたりすると、どうしても相手に愛する憎しみや怒りを抱いてしまいます。そのような状況に置かれたローマのクリスチャンに対してパウロが書いた言葉が、さきほど読んだ12章の17節から21節の言葉です。クリスチャンが神様の言葉に従って生きようとすると、反対する人が起こるのは、いわば当然のことです。それは、神の世界とこの世が相反するからです。主ご自身が3年間地上で働かれましたが、多くの敵がいました。また、この手紙を書いたパウロも、生涯をかけて主イエスの福音を人々に宣べ伝えましたが、どこに行っても敵や反対者が現れました。そのような時、この世の考えは、「目には目を、歯には歯を」で、悪に対して悪で仕返しをしようとします。しかし、聖書はそれは非常に愚かなことだと繰り返し警告しています。特に、箴言の中にはその教えが何度も記されています。

*愚か者は自分の怒りをすぐ表す。賢い人は辱めを気に留めない(10:12)

*柔らかな答えは憤りを静め、激しい言葉は怒りをあおる(15:1)

*愛を追い求める者は背きの罪を覆う。同じことを蒸し返す者は親しい友を離れさせる(17:9)

*怒る者は争いを引き起こす。憤る者には多くの背きがある。(29:22)

 18節は新改訳聖書では「自分に関することについては、できる限りと」訳されていますが、元々のギリシャ語では、「もし可能ならば、あなたに関しては」と書かれています。パウロが「もし可能ならば」と書いたのは、当時のローマ教会が激しい迫害を受けていたことを知っていたからです。ローマ教会の人々の周りに平和を願わない人々が数多くいました。また、クリスチャンに対して完全に真実ではないことを言って非難する人たちも多くいました。もちろん、私たちは、世の人々の間違った考えや批判に対しては断固ととした姿勢を取らなければなりません。ただ、私たちは、いつも、神の前に正しいことを行わなければなりません。アガペーの愛、すなわち、犠牲をともなうほどの愛で神様から愛されて、神の子どもとなった私たちは、神の子にふさわしい行動が求められます。パウロは、「あなたに関しては」と言いました。「相手がどのようなことを言い、どのようなことを行うかは関係なく」という意味です。私たちは、恨む心や憎しみを捨てて、すべての人と平和の関係を築くことが求められています。私たちはどうしても、相手の間違い、相手の悪ばかりを考えてしまいますが、神様は、「あなたに関しては」と自分がどのように行動するのかを尋ねておられるのです。ヤコブの手紙の3章17節に次のような言葉があります。「上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。」神が私たちに与えてくださるガイダンスは、清いもの、平和を求めるものです。私たちは、自分が何かを行う前に、何かを言う前に、自分がこの神の教えに従っているのか,それとも、自分の考え自分の感情に従っているのかどうかを確かめる必要があります。

 19節にはこう書かれています。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに委ねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます。」パウロは、ローマのクリスチャンたちに「自分で復讐してはいけない」と言っています。その根拠として、彼は旧約聖書の言葉を引用しています。神様が「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」と言っておられるのです。これは、申命記32章35節の言葉です。最終的に、人をさばくのは神様です。神様は公正な方です。私たちのことや私たちに関わるすべてのことを知って、神様は裁かれます。私たちが復讐するのは、私たちがすべてを神様に委ねきることができなくて、自分が神様のすることをやろうとする不信仰の現れだと言えます。もちろん、神に委ねることは簡単なことではありませんし、この世の考え方とはまったく反対のものです。しかし、なぜ、神様は、クリスチャンに、敵を赦せと言われるのでしょうか。20節にあるように、なぜ神様は「もし、あなたの敵がうえているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。」と言われるのでしょうか。第一に、争いというのは基本的に2人の人、2つのグループが敵対することですが、どちらか一方が相手を赦すならば、報復合戦の連鎖反応を断ち切って、和解への道が可能になるからです。第二に、悪に対して悪で応じれば、敵である相手を傷つけるだけでなく、自分自身を悪で傷つけることになるからです。第三に、相手を赦すことによって、敵が驚き、当惑して、彼らの行動が変わるかもしれないと言う可能性があるからです。パウロは、そのことを、こう表現しています。「こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」パウロは、激しい迫害を受けていたローマのクリスチャンたちに、12章の14節で「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。」と述べています。クリスチャンは、人から悪い言葉や行いを受けたときに、悪で答えてはいけないのです。世の中の考えは全く反対です。1発殴られたら10発殴り返せという考えです。しかし、クリスチャンはのどが渇いている敵には飲み物を与え、飢えた敵には食べさせよと命じられています。それは、敵の頭上に燃える炭火を積むことになるからだと20節に書かれていますが、これはどういう意味でしょう。それは、悪に対して善で答えることによって、敵が驚き、当惑して、彼らの行動が変わるかも知れないことを意味しています。燃える炭火は、預言者イザヤが預言者に召された時に、自分の罪深さを知っていたので神の召しに答えられないと感じましたが、その時、神様が燃える炭火をイザヤの唇に触れさせて、イザヤに「これがあなたの唇に触れたので、あなたの罪は赦された」と言われました。したがって、燃える炭火には人を悔い改めに導くものというイメージがあります。また、燃える炭火は銀や金を精錬するときに使われますから、燃える炭火には人をきよめるというイメージもあります。また、聖書から離れると、当時、エジプトでは、罪を認めた人は、自分が悔い改めたことを人々に示すために、燃える炭を入れた皿を頭に載せて、歩いたそうです。いずれにせよ、私たちが悪に対して悪で答えている限り、悪の連鎖反応が続くだけですが、そこに、赦しと愛を加えると、何かが起こる可能性があるのです。だから、私たちは、ローマ書に記された言葉を神様からの命令として受取り、まず、自分がいる今の場所で、それを実践して行かなければなりません。その時に、何かが起こることが期待できます。そして、神様は、100%公正な方ですから、悪を働いた人間には、その行いにふさわしい裁きを行われます。神様ご自身が「復讐はわたしのもの。わたし。が報復する。」と言われているのですから、私たちは、すべてを神様に明け渡して、神様の公正な働きに委ねましょう。いつまでも同じ憎しみを持ち続け、ことあるごとに以前受けた悪を蒸し返すような生き方は、決して健全ではありません。クリスチャンはいつも喜ぶ人々です。絶えず祈る人々です。そして、すべてのことに感謝して生きる人々です。その時、私たちの上にも神様が豊かな祝福を注いでくださいます。私たちは、自分に関する限り平和を作る人でなければなりません。

 最後に一つのお話をします。1941年12月7日360 機の日本の戦闘機がハワイの真珠湾への奇襲攻撃を行いましたが、淵田美津雄はその指揮官でした。その後も海軍で最も経験豊富なパイロットとして、渕田はソロモン諸島やインド洋で活躍しましたが、ミッドウェー海戦の直前に重度の虫垂炎により戦線を離脱しました。そのために、彼は生き延びることができました。その後日本は戦争に負け、日本軍は解体されました。 渕田美津雄は田舎の村に戻りましたが、彼はアメリカへの憎しみを消すことができず、新たな使命にとりかかりました。それは、アメリカ人が日本の捕虜をどのようにひどい扱いをしたか、その証拠を集めることでした.

 日本人捕虜が日本に戻ってくると、渕田は一人一人に話を聞きました。ところが、驚いたことに、アメリカから帰ってきた兵士たちが、次々に、捕虜収容所に一人の親切なアメリカ人女性がいたことを話しました。その女性は彼らのところに毛布、衣服、食べ物を持ってきて、彼らのためにたくさんの良いことをしてくれたのです。捕虜たちはなぜ、彼女がそのようにふるまうのか不思議で彼女に尋ねました。すると彼女は次のように答えました。 彼女の両親は日本で宣教師として働いていましたが、戦争が始まってフィリピンに逃れました。しかし、両親はその後日本軍につかまり、日本語が話せたためスパイだと疑われて、殺害されてしまいました。彼女に届いた話では、彼女の両親は殺害される直前に、日本人のために祈る時間をもらって祈りを捧げたそうです。最初、彼女は両親を殺害した日本人への憎しみで心が一杯でしたが、ある時、自分の両親は自分が何をすることを一番願っていただろうかと考えさせられ、それは、きっと日本人のために何かをすることだということに気が付きました。それで、彼女は、近くにあった日本兵捕虜収容所に出かけて、彼らのために働くことにしたのでした。

 その話を聞いた渕田美津雄はひどく当惑し、何がこの女性をこのように振る舞わせたのか知りたいと思うようになりました。 ある日、彼が東京の渋谷駅で電車を降りたとき、誰かがジェイコブ・デシェイザーというアメリカ人が書いた「私は日本軍の捕虜だった」という小冊子を彼に手渡しました。 この男は、日本軍の捕虜となってひどい扱いを受けた中で、聖書を読んでクリスチャンになった人でした。彼も、イエス・キリストの十字架の愛を知ったことで、以前の敵である日本人に対する憎しみが取り除かれたとその小冊子に書いていました。それで、淵田美津雄はさらに当惑し、聖書に何が書かれているのかと思って、新約聖書を読み始めました。彼は、福音書から読み始めました。その中で彼は不思議なイエスの祈りに出会いました。十字架にはりつけにされたイエスが、自分を残酷に処刑したローマの兵士たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。」という祈られたのです。突然、淵田美津雄は自分が罪人であることを確信しました。 主イエスの祈りは、「父よ、渕田美津雄をお赦しください」という意味だということがはっきり分かったのです。1950年4月、渕田は人生で 2 回目の誕生日を迎えました。それからかつては敵同士であったデシェイザーと淵田は、キリストの同労者として協力し、二人で日本とアメリカで、多くの人々に憎しみの心を赦しの心に変えたイエスの愛を語り続けました。私たちは、争う者ではなく平和をつくる者として生きて行きましょう。

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