2023年2月26日 『永遠のいのちを持つ者』(第一ヨハネの手紙5章13-20節) | 説教      

2023年2月26日 『永遠のいのちを持つ者』(第一ヨハネの手紙5章13-20節)

(1)永遠のいのちが与えられている

 今日で、ヨハネの手紙第一を読み終えます。彼がエペソの教会のクリスチャンに書き送った手紙も、いよいよ最後の部分となりました。ヨハネは、福音書も書いていますが、どちらの場合も、最後に、自分がなぜこの福音書を書いたのか、なぜこの手紙を書いたのか、その目的を13節に記しています。「神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」このヨハネの手紙は、エペソにあった教会のクリスチャンのために書かれたものです。エペソ教会の人々は、すでにイエス・キリストを救い主と信じていますから、彼らは永遠のいのちを持っていました。永遠のいのちは、神様が与えてくださるものです。私たちが、頑張ったから、良い行いをしたから、聖書をよく読んだから、そのような私たちの行いによって獲得したものではありません。エペソ人の手紙2章8-9節を読めば、そのことは明らかです。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」私たちは、この罪が赦されて救われたことによって、永遠のいのちが神様から与えられているのですが、私たちは、それを、神様を信頼する信仰によって受け取らなければなりません。そのことを主イエスは、ブドウの木とブドウの枝で説明されました。ブドウの枝には多くのブドウの実が実っていますが、それは、ブドウの枝がブドウの幹につながっているからです。ブドウの枝が幹につながっているとき、枝にはいのちがあります。その結果ブドウが実ります。しかし、その枝が幹から離れてしまうと、枝だけではブドウの実はなりません。枝の中にいのちがないからです。それと同じように、私たちのうちに永遠のいのちがあるのは、私たちが神様に繋がっている結果です。神様と繋がっていないと、私たちのうちに永遠のいのちはありません。私たちは、自分の罪を認めて、それを悔い改め、主イエスを救い主と信じる時、神様の子どもになる特権が与えられています。私たちは、神様の子どもであるかぎり、神様が持っているのと同じ、永遠のいのちを持っているのです。また、前回お話ししたように、この永遠のいのちは、ただ単に永遠という時間の長いいのちということではありません。11節に永遠のいのちは神の御子のうちにあるいのちだと説明しています。キリストのうちにあるいのちですから、それは栄光に輝くいのちです。私たちは、すでにそのいのちをいただいているのですが、私たちが地上で生きている間は、そのいのちは罪の性質を持っている肉体のうちに、いわば、閉じ込められた状態になっています。そのため、私たちが地上で生きている間は、永遠のいのちは私たちの内にあってまだ完全に働くことはできません。しかし、私たちがこの世の生涯を終えて、神のもとに移される時に、私たちは、御子イエスとまったく同じいのちを持つ者になります。世の中では、年を取ると、そろそろ人生の終活をする時が来たと人々は言います。しかし、クリスチャンにとって、確かにこの世のいのちは終わりますが、その後に、私たちのうちに与えられている永遠のいのちが栄光に輝いて現れる新しい人生が待っているのですから、私たちは、自分のうちに、永遠のいのちが与えられていることを喜び、そのいのちを与えてくださった神様に感謝して生きることが大切です。

  • 死に至る罪とは

 ヨハネは14節から17節のところでは、クリスチャンにとって祈ることの大切さと素晴らしさを教えています。14節では、クリスチャンは地上では、力もなく経済的な力もないとしても、いつでもどんなことでも助けを求めることのできる神様がおられることを忘れてはならないとヨハネは教えています。クリスチャンは、祈りをとおして大胆に神様に近づくことが許されており、神様は私たちの祈りを聞いてくださいます。ただ、その祈りには一つ条件があります。それは、「神のみ心にしたがった願う」祈りでなければならないということです。従って14節の言葉は、私たちは、何でも自分が好きなもの、欲しいものために熱心に祈ればよいという意味でないことは明らかです。でも、私たちはいつでも神に祈れるということは大きな力になります。14-15節でヨハネはエペソ教会のクリスチャンに祈りを勧めた後に、16節の言葉が出て来ます。これも祈りをすすめる言葉ですが、その中に「死に至る罪」という言葉があるので、私たちは、これはどう意味なのだろうと考えてしまいます。16-17節には次のように記されています。「だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たら、神に求めなさい。そうすれば、神はその人にいのちを与えてくださいます。これは死に至らない罪を犯している人の場合です。しかし、死に至る罪があります。これについては願うようにとは言いません。不義はすべて罪ですが、死にいたらない罪もあります。」

私たちは、いつも、主イエスの十字架の血潮によって、どんな罪でも赦されると教えられています。それなのに、ここでは死に至る罪というのが記されているので、主イエスの十字架の血潮でも赦されない罪があるのかと考えてしまいます。ずっと前のことですが、第三礼拝に、初めて来た人がいて、礼拝が終わった後に、その人が、この個所を示して「私は神様から赦されない罪を犯したのです。」と言うので、私は「その罪を認めて罪を悔い改めれば、主イエスの十字架の血潮のゆえに、罪は赦されます」と何度も言ったのですが、その人は「わたしの罪は赦されない罪です。」と言い続けて、結局、そのまま帰って行ったということがありました。とても残念な思いがしました。この言葉は、私たちの信仰生活に深く関わる言葉ですので、注意して読まなければなりません。

 まず、「赦されない罪」ということに関して、主イエスの言葉についても考える必要があると思います。主イエスは、福音書の中で次のようなことを言われました。マタイの福音書12章31,32節を見てみましょう。「人は、どんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。」この主イエスの言葉は何を意味するのでしょうか。この言葉は、主イエスが悪霊につかれている人を癒された時に、そのことを聞いたパリサイ人たちがイエスの働きを悪霊の働きだ」と言った時に、主イエスがパリサイ人たちのことを念頭において言われた言葉です。御子イエスに対する冒涜は赦されても聖霊に対する冒涜は赦されないとはどう意味なのでしょうか。聖霊は、御子イエスよりも地位が高いという意味でしょうか。そもそも、人はイエスの名を使って神を冒涜することは、残念ながら、よくあります。英語で、イエス・キリストを意味するJesus Christと言って罵る人がよくいます。映画でもよく見ます。しかし、聖霊を意味するHolySpiritという言葉で神を罵る人はいません。この言葉は、主イエスが地上で神の子として働いておられた時に、主の働きを非難し反対していたユダヤ教の指導者たちに向かって語られた言葉です。彼らが、主イエスが地上で働いておられた時に、主イエスを罵ったとしても、もし、彼らがそのことを悔い改めるなら、その罪は赦されました。主イエスが十字架にかけられ三日目に復活し、天に帰られた後、ペンテコステの日に、聖霊が私たちに与えられました。聖霊は、キリストを証しする霊であり、イエス・キリストが確かに神の子であることを証明する霊です。その聖霊によるキリストの証しさえも拒否するなら、もはや彼らにはキリストを証しするものが残っていません。したがって、彼らはキリストを受け入れない者としてさばかれる結果になったのです。このことから、赦されない罪とは、キリストを受け入れない罪のことを意味することが分かります。 

 ヨハネは、自分の仲間が罪を犯していることを知ったら、その人が悔い改めに導かれるように、信仰を回復するように祈りなさいと勧めています。私たちは、教会の仲間が罪を犯していることを知ったときに、その人の信仰の回復のために祈らなければなりません。私たちは、教会のお互いにのために祈ることが求められています。しかし、ヨハネは、「死に至る罪」を犯している人のため、には祈ってはならないとは言っていませんが、「願うようにとは言いません」と述べています。それは、「死に至る罪」を犯している人のために、私たちが祈ったとしても、すでに神様はその人をさばくことを決めておられるので、結果は変わらないだろうという意味だと思われます。

 この「死に至る罪」には2つの可能性があります。一つは、永遠の滅びにいたるイエスを信じない人の罪です。先ほど述べた、聖霊を冒涜する罪です。聖書は、私たちが「主イエスを救い主と信じます」と信仰告白ができるのは聖霊の働きによるものだと教えています。(1コリント12章3節)従って、その人がイエスを拒否している限り、その人は肉体が死んだ時に、永遠の滅びを迎えなければなりません。もしかすると、ヨハネの頭にはこの手紙の2章19節に語られている人々のことがあったのかもしれません。「彼らは、私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。」とヨハネは言っています。この「死に至る罪」というのは、何か特別な一つの行いを指すのではなく、どこまでもその姿勢を貫き続ける罪、つまり、イエスを否定し続ける罪のことを指しています。エペソの教会を出て行った人々は、信者のように振舞っていましたが、本当には主イエスを救い主と信じてはいなかったことが明らかだったのです。もう一つの可能性は、クリスチャンが犯す死に至る罪の場合です。それは、その人が犯した罪があまりにも深刻なので、神様がその人の肉体のいのちを取られる場合です。たとえば、使徒の働きの5章に、アナニヤとサッピラという夫婦が出て来ます。彼らは教会のメンバーでしたが、当時、エルサレムに誕生したばかりの教会には多くの必要があったために、人々は自分の畑などを売って献金を捧げていました。アナニヤとサッピラも、教会のために土地を売って献金を捧げようとしたのですが、二人は、土地を売って得たお金の全額を捧げると言いながら、実際には、お金の一部を自分のために取って置いたのです。そのことを聖霊の働きで気づいたペテロは、二人に向かって、「あなたたちがしたことは、人を欺いたのではなく、聖霊を欺いたのであり、神を欺いたのだ。」と厳しく言いました。すると、その言葉を聞いた二人は、次々にその場で倒れて死にました。私たちからすると、この裁きはあまりにも厳しいように思えますが、この当時、エルサレムの教会は立ち上がったばかりで、キリスト教そのものが広がっていくために、非常に大切な時を迎えていました。これから異教の世界に、イエス・キリストの福音が広がって行くために、教会は一つにしっかりとまとまっていなければなりません。真実の神を信じる教会の中に、サタンの象徴である偽りがはびこることは、当時のエルサレム教会にとっては決定的な打撃となってしまいます。神様は、この時、2人の偽りが隠されたまま、エルサレム教会が前進することはできないと考えられたのだと思います。例えば、子どもが何人かで一緒に遊んでいるときに、一人が暴れて回りの子どもにけがをさせたりしそうになったら、まず、その子供を叱るでしょう。それでも辞めない場合はおしりを叩いてやめさせようとします。しかし、それでも辞めなければ、その子ども他のこどもから引き離さなければならなくなります。そのように、エルサレム教会にとって、この時二人が犯した罪は非常に深刻なものだったのです。アナニヤとサッピラは、この罪を犯さなかったら、この後も教会や神様のために役に立つ生き方ができたはずです。しかしながら、その罪のために、彼らの地上の生涯を、もともとの神様の計画よりも、ずっと早く終わりを迎えることになってしまいました。二人は非常にもったいにない生き方をしてしまったのです。私の解釈は、それでも、二人の魂は、彼らがイエスキリストへの信仰を持ち続けていたのであれば、神様は二人を天国に迎えてくださったと思います。厳しく罰せられましたが、神様は二人を愛しておられるからです。第1コリントの3章に、クリスチャンが天国に行くときに火による裁きを受けなければならないことが記されています。キリストの信仰の上に清い信仰を守り続けた人は金や銀の家を建て上げるので、火のさばきがあっても、何一つ慌てる必要がありません。しかし、この二人のようにむだな生き方をしてしまったクリスチャンは信仰の土台の上に草や藁の人生を建て上げることになるので、火の裁きを受けるとすべて燃えてしまいます。しかし、その人は火の中をくぐるようにして、かなり苦労して、天国に入れていただくことになるのです。彼らは肉体の死に至るほど深刻な罪を犯したのです。クリスチャンが非常に大きな罪を犯した時に、突然、重い病気になり死ぬこともあります。私たちは、罪を、軽々しく扱ってはいけないのです。いずれにせよ、神様がすべて裁くことを決められている場合、私たちが、その人のために祈っても、神様の定めたことが変わることはないことをヨハネは16節で語っています。

 17節に「不義はすべて罪です」とヨハネは言いました。ヨハネは、どんな小さな罪であっても、それは不義であり、その罪が、神のひとり子のいのちを奪ったという事実を忘れてはならないと教えています。私たちは、人の罪に対しては厳しいですが、自分のことについては非常に考えが甘くなります。どんな罪も、100%聖なる神にとっては、たとえ、それが死に至らない罪であっても、神様がどれほど胸を痛めておられるか、私たちは深く考えなければなりません。すべての罪は、アダムとエバが犯した罪と同じなのです。私たちは自分の罪を隠すことなく、神の前に告白して、悔い改めなければなりません。その時、神様は大いなる恵みによって、すばらしい赦しを与えてくださいます。

  • まことの神、イエス・キリスト

 ヨハネは20節と21節でこの手紙を結んでいます。20節の中に真実、まことという言葉が3回繰り返されています。真実な方、真実な方、そして、この方こそまことの神、永遠のいのちです。とヨハネは言いました。私たちが信じる神様は真実な方です。そして、何よりも私たちの救い主イエス・キリストはまことの神、永遠のいのちです。私たちは、このまことの神、永遠のいのちであるイエスを信じてクリスチャンとなりました。イエスが神であることを信じる信仰だけが私たちを罪のさばき、永遠の滅びから救うのです。私たちは真実の神と出会い、真実の神とともに生きています。主イエスキリストは、まことの光、まことのブドウの木、真理そのもののお方です。一方この世は偽りと偶像がはびこっています。ヨハネは最後に言いました。「偶像から自分を守りなさい。」エペソには世界の七不思議の一つと言われたアルテミスという女神の壮大な神殿がありました。町の産業はすべて神殿に関連していました。そんな中、エペソのクリスチャンはどれほど大きなプレッシャーを感じていたでしょうか。今日、木や石で造られた偶像を拝む人はそれほど多くはないでしょう。しかしながら、私たちの心を神様からそらせるものは世の中に山ほどあり、それらはすべて偶像です。ヨハネは最後に言いました。「偶像から自分を守りなさい。」ある人にとっては、財産、ある人にとっては仕事や自分の業績、ある人にとっては自分の評判、それらもすべて偶像です。この世の中に、素晴らしいものもありますが、すべてこの世のものは一時的であり、本当の幸せ、本当のいのちを与えるものではありません。私たちには、真実の神様によって与えられた真実の神の言葉があります。聖書の約束のゆえに、私たちには輝かしい未来が約束されていることを確信しています。私たちは、この世のものごとに心を流されることなく、真実なる方にしっかりを目を向けて、栄光に満ちた将来を夢見ながら、毎日、歩み続けなければなりません。

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