2023年3月12日 『人が神をさばく』 (マルコの福音書15章1-15節) | 説教      

2023年3月12日 『人が神をさばく』 (マルコの福音書15章1-15節)

 今日から、4月9日のイースターに向けて、主イエスの十字架について語りたいと思います。これからイースターに向かって、マルコの福音書15章1節から読んで行きたいと思います。主イエスは、私たちの罪が赦されるために、十字架に自ら進んでかかられましたが、主イエスの十字架は私たちにとってどのような意味があるのかを考えたいと思います。

 主イエスの十字架のはりつけに関わった人は数多くいます。イエスを裏切ったイスカリオテのユダ、ユダヤ教大祭司のカヤパとアンナス、領主ヘロデ・アンテパス、ローマ総督ポンテオピラト、これらの人々は、皆、自分の利益を得るため、あるいは自分が今持っているものを失わないために、イエスの十字架刑に関わったのですが、これは、あくまでも人間の側から見た場合の話であり、地上で起きた出来事だけを見て判断した場合のことです。実際には、このことを計画され、実行されたのは、天の父なる神様であり、御子イエスなのです。主イエスははっきりと言っておられます。「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分から捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。」(ヨハネ10章18節) 神様は、人間の罪深い陰謀や行動を用いて、私たち人間が罪の裁きから救われるための計画を完成してくださいました。

 15章1節に「夜が明けるとすぐに、祭司長たちは、長老たちや律法学者たちと最高法院全体で協議を行ってから、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した」と書かれています。夜が明けるとすぐにとありますが、これは金曜日の午前5時ごろのことと思います。少しさかのぼって時間の流れを見ると、主イエスが、ユダの裏切りによって捕らえられて、ユダヤ教大祭司のもとに連れて来られたのは、金曜日の午前1時ごろです。そこには最高法院のメンバーも集っていて、イエスを死刑にするためにいろいろな証言が出たのですが、すべてがでっち上げのものなので一致しませんでした。結局、最後に大祭司がイエスに「お前は救い主キリストなのか」と尋ねたときに、主イエスが「わたしがそれです。」と答えられたため、彼らは、イエスが神でもないのに自分を神とした神への冒涜だと決めつけて、全員でイエスは死刑に値すると決めました。その時点でおそらく午前3時ごろになっていたでしょう。その時、大祭司の家の外では、ペテロがイエスを知らないと3度否定すると同時に、鶏が大きな鳴き声を上げました。それから2時間ほど、主イエスは、神殿警察からつばを吐きかけられたり、なぐられたり、ひどい仕打ちを受けていました。そして15章の1節で、もう一度大祭司は最高法院を集めて、全員で、イエスをローマ総督ピラトのもとへ連れて行くことを決定しました。実際には、最高法院での裁判は昼間に行なわなければならないという規則があるのですが、彼らは、そんなことはまったく無視して、ただ、イエスを死刑にすることだけを考えていました。ただし、ローマ帝国に支配されていたユダヤ人たちは、自分たちで死刑を宣告して処刑することは許されていません。そのために、彼らは、ローマ帝国の役人である総督ピラトをとおしてイエスを死刑にするために、イエスをピラトのもとへ連れて行ったのです。そこには、どこにも正義というものはありませんでした。人間の欲と罪が見えるだけです。しかし、表面的には人間の罪によって、イエスの処刑が行われて行くように見えますが、実際には、ローマの役人がそこに関わることも神様の計画の一つでした。というのは、当時、ローマ帝国の支配を受けていたイスラエルでは、ユダヤ人が死刑を宣告し執行することは許されていませんでした。死刑を宣告し執行することができるのはローマ人だけでした。もし、イエスがユダヤ人の手で死刑にされていたら、イエスはユダヤ式の死刑である、石打ちの刑で死刑になっていたはずです。しかし、不思議なことに、旧約聖書には、救い主が十字架で処刑されることが繰り返し預言されていました。すべてのことは、全知全能の神の計画に従って進められていたのです。

 イスラエルとシリアを担当するローマ総督は、普段は、地中海沿岸の都市カイザリアにいるのですが、

ユダヤ教最大のお祭りである「過ぎ越しの祭り」の時は、エルサレムに群衆が集まるために暴動が起きる危険性があったので、ピラトは、この時、エルサレムに滞在していました。マルコの福音書では、ユダヤ教の指導者たちは、イエスをローマ総督のピラトに引き渡したとだけ書かれていますが、ヨハネの福音書を見ると、「彼らは、過ぎ越しの食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった。」と書かれています。彼らは、主イエスを死刑にするために、まとまな裁判もせず、しかも、ユダヤの律法では、裁判は昼間に行わなければならないのですが、早くイエスを殺すために、夜中に集まり、自分たちの計画を進めていました。彼らの心には正義はなく、ただ、自分の欲望のままに行動していました。その反面、彼らは宗教的儀式を守ることには熱心でした。ユダヤ人は、外国人の家に入ると宗教的に汚れてしまいます。宗教的に汚れると、祭司は、神殿での仕事ができなくなり、祭りにも参加できなくなります。彼らは、主イエスを総督ピラトのもとに連れて来ましたが、自分たちは総督の家の中には入りませんでした。彼らは、無実のイエスを殺そうと必死になっていながら、ピラトの家に入ることを拒否することで、自分たちは律法を守る正しい人間だと思い込んでいました。彼らがピラトの家に入ろうとしなかったため、ピラトがイエスを家の中に連れて入り、イエスに質問をしました。そして、その後、ピラトは、家の中にいるイエスと家の外にいる祭司長たちの間を行ったり来たりしなければなりませんでした。

 ローマ総督としてイスラエルを支配するピラトにとって最も重要なことは、自分が責任を持っている、イスラエルで、ローマ帝国に対する反乱が起きないことでした。彼は、これまでも、ローマ帝国への反乱を企てた人間を処刑してきました。しかし、彼はユダヤ人の宗教には知識も関心もありませんから、イエスが自分を神だと主張したとしても、彼には全く関係のないことでした。そのため、ユダヤ教の指導者たちは、ピラトがイエスに死刑を宣告させるために、ピラトには別の理由で訴えていました。それは、「この男は自分がユダヤの王だと主張している」ということでした。つまり、このイエスは、ユダヤ人の王としてローマ帝国への反乱を企てていると訴えているのです。しかし、すでに大祭司の家で、唾を吐きかけられたり、殴られたりしていたイエスには、反乱を企てるような強い人間の姿はありませんでした。祭司長たちは、いろいろな理由で訴えていますが、主イエスはピラトの質問には答えません。ピラトはイエスをどう扱えばよいか困ってしまいました。

 何とか、この事態をうまく終わらせるために、ピラトは、過越しの祭りの時にいつも行われていたことを利用することを思いつきました。6節に記されています。「ところで、ピラトは祭りのたびに、人々の願う囚人を一人釈放していた。」ローマ総督であったピラトは、ローマ帝国が善良で憐みに満ちた国であることをイスラエルの民に知らせるために、過越しの祭りの時には毎年、一人の囚人を釈放していました。ピラトは、その週の日曜日に、主イエスが弟子たちとエルサレムに入った時に、群衆が「ホサナ、ホサナ」と叫んで大歓迎したことを知っていましたから、今年の過越しの祭りの時に釈放する囚人として、イエスを選べが、群衆は喜ぶだろうとピラトは考えていたと思います。群衆がイエスの釈放を求めれば、この厄介な問題から解放されるとピラトは考えました。その時、7節を見ると、バラバという囚人がいました。暴動で人殺しをした者たちの一人でした。ローマ総督にとっては、最悪の犯罪者です。暴動とは恐らく、ローマに対する反乱だと思われるからです。群衆がいつものように、一人の囚人を釈放することを要求してきたので、ピラトは、彼らに言いました。9節を読みましょう。そこで、ピラトは彼らに答えた。「おまえたちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか。」もし、群衆がイエスを釈放してほしいと言えば、祭司長たちも、ピラトに訴えることはできなくなります。ピラトは、数日前の出来事を思い出して、群衆が今もなお主イエスを歓迎していると思いました。しかも、ピラトには、祭司長たちがなぜイエスを死刑にしようと必死になっているのか、その訳を知っていました。それは、ローマ帝国に対する忠誠心とはまったく関係なく、ただ、主イエスが人々の間でとても人気があり、彼らが、そのままイエスを放っておけば、自分たちが今持っている権威や地位をれてしまうかもしれないと考えていたためでした。ユダヤ教の教師でありながら、彼らは非常に自己中心的な考えから、イエスを殺そうとしていることをピラトは知っていたのです。

 しかし、事態はピラトが望んでいた方向には動きませんでした。11節に記されているように、祭司長たちが、バラバを釈放してもらうように扇動したのです。祭司長たちは、もし、イエスが釈放されてしまうと、自分たちのこれまでの努力が水の泡になります。必死になって、群衆を扇動というか脅しを入れて、バラバを釈放するように命じました。12節で、ピラトは必死になって叫びました。「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」この言葉には大きな皮肉が込められています。十字架刑は、ローマ帝国で最も厳しい死刑の方法であり、ローマ市民でない者や奴隷だけに十字架刑が課せられました。従って、もし、イエスが十字架で死ぬのであれば、イエスは祭司長たちが訴えていたように、イエスがユダヤ人の王だと主張したのだとすれば、十字架刑はありえないことなのです。しかし、祭司長たちにとっては、そんなことはどうでもよいことでした。彼らは、群衆を扇動し続けていましたから、群衆は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けました。ここで、もし、暴動が起きてしまったら、これまでもすでに政治的に失敗をしていたピラトにとって、完全にアウトです。ピラトは、これまで何度も、イエスには十字架刑にするほどの罪は認められないと主張していましたが、最終的に、彼は、自分の身を守りました。ヨハネの福音書を見ると、祭司長たちはピラトにプレッシャーを与えていました。彼らはピラトに言いました。「この人を釈放するなら、あなたはローマ皇帝の友ではありません。」ローマ皇帝の友ではないとなれば、彼はローマ皇帝によって今の立場から追放されてしまいます。結局、ピラトは、彼らの脅しに負けて、イエスを十字架刑にすることを決定しました。この出来事は、過越しの祭りの時に起きたものです。過越しの祭りとは、イスラエルの民が、神様の恵みと愛によって自分たちを守ってくださったことに感謝をささげるためのお祭りです。そんな時に、祭司長たちに扇動された群衆は、まったく罪のない神のひとり子のイエスに向かって、「十字架につけろ」と激しい怒りの言葉を投げかけていました。神様は、この光景を見てどのように思ったでしょうか。しかし、これは、すべて、このような自己中心の罪の性質を持つ私たちのために、神ご自身が計画され、実行されたことだったのです。

 ピラトは12節で、群衆に向かって次のように叫びました。「おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」言い換えると、「あなたは御子イエスをどうするのか」という質問です。これは、聖書が、私たち一人一人に向かって尋ねている問いかけです。聖書は、このイエスをどうするかによって、私たちの永遠の運命が決まると教えています。主イエスを救い主として受け入れない者は、神様による永遠のさばきを受けなければなりません。しかし、イエスを救い主と信じ告白するものは、神の永遠のさばきから免れ、永遠のいのちが約束されています。ピラトや祭司長たちは、自分たちがイエスを裁いていると思っていましたが、実際には、彼らが裁かれていたのです。主イエスを受け入れなかったことによって、彼らは永遠の滅びに落ちてしまいました。あなたは、このイエスをどう受け取りますか。

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