2023年3月26日 『十字架の意味』(マルコの福音書15章33-41節) | 説教      

2023年3月26日 『十字架の意味』(マルコの福音書15章33-41節)

 主イエスはユダヤ教の祭りである「過越しの祭り」の週の金曜日の午前9時に十字架にはりつけにされました。午後12時になったとき、突然、そのあたり全体が真っ暗になりました。闇が全地を覆ったと書かれています。この闇は、自然現象ではありません。時々、月が太陽と地球の間に入って、太陽を覆い隠すという現象が起きて、昼にもかからわず暗くなることがあります。しかし、その現象は、満月の時には起きません。新月の時に起きます。イエスが十字架に掛けられたのは「過越し」の祭りの時ですが、この祭りは満月の時に行われていました。また、この暗闇は、サタンが引き起こしたものではありません。サタンにはそのような力はありません。また、父なる神様がいないために起きたものでもありません。その反対です。父なる神がこの暗闇をもたらしました。旧約聖書を見ると、父なる神がイスラエルの民にご自身を表される時は、輝く光の中に現れることが多いのですが、神様が暗闇の中に現れることも記されています。しかし、それは常に神の裁きが行われる時でした。この暗闇は、父なる神がすべての人間の罪を裁く時が来たことを示すものでした。旧約聖書の時代は、人々は自分の罪を神様に赦してもらうために、いけにえの動物を神にささげました。神殿の祭司は、いけにえの動物を受取り、それを殺して、その動物の血を祭壇に注いで、父なる神に祈りました。身代わりの動物が流した血のおかげで人々の罪は赦されました。しかし、動物の血は、一人の人の罪を1回赦すことができるだけなので、人々は、繰り返し、いけにえの動物を捧げなければなりませんでした。しかし、主イエスは、一人ではなくすべての人間の罪の身代わりでした。しかも、一回の罪に対する身代わりではなく、すべての時間、時代を超えて永遠にいたるまでの罪に対する身代わりでしたから、イエスが十字架で背負っておられた罪の大きさは、いけにえの動物のものとはまったく次元の異なるものでした。イエスが私たちの身代わりとして背負っておられた罪の大きさ、その深刻さを示したのが、あたり一面を覆い尽くした暗闇だったのです。

暗闇の中に、父なる神がおられました。そして、父なる神は、人間の罪に対するご自身の怒りを、人間にではなく、自分のひとり子である主イエスに注がれたのです。それは、罪をまったく知らないイエスにとってどれほど恐ろしい出来事だったでしょうか。

 午後3時に、壮絶な主イエスに対する父なる神のさばきは終わりました。そして、暗闇が少しずつ薄れ始めました。その時に、主イエスは大声で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」それは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味でした。十字架上のイエスは、私たちの想像を超える苦しみを味わっておられました。それは、肉体的な苦しみではありません。これまで、主イエスが一度も経験したことのないことであり、それは父なる神と愛によって一つに結ばれていたものが壊されたことでした。主イエスは、繰り返して、「わたしと父は一つです。わたしは父のうちにあり、父はわたしのうちにおられます」と言われました。主イエスは、いつも父なる神を「父」と呼んでおられましたが、この時だけは、「わが父」とは呼ばずに「わが神」と呼ばれました。この「わが神」という言葉の中には、御子イエスの父なる神に対する深い愛とともに、その父なる神のさばきを受けて、その間、父なる神から見捨てられるという経験をした苦しみが表されています。主イエスは、神の子としての働きを始める前に、40日間の断食をした後に荒野でサタンの誘惑を受けました。また、十字架にかかる直前には、ゲッセマネの園で祈りを捧げられた時に、主イエスは大きな苦しみを味わわれました。ただ、この時には、父なる神は主イエスにみ使いを送ってイエスを支えられました。ところが、十字架の時には、父なる神は、御子イエスにみ使いを送られませんでした。父なる神はイエスを裁かれたからです

 主イエスが、父なる神から見捨てられるという、イエスにとって最大の苦しみを味わっておられた時に、そばに立っていた者たちが、イエスの言葉を聞いていて、そして言いました。「ほら、エリヤを呼んでいる。」彼らは、ユダヤ教の指導者たちで、旧約聖書についてよく知っていました。彼らは、苦しんでいるイエスを見てイエスを嘲っていました。旧約聖書には救い主に関する預言がたくさん記されていますが、旧約聖書の最後の預言書マラキ書の4章5節には、次のような預言が記されていました。「見よ。わたしは主の大いなる恐るべき日が来る前に預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」彼らは、主イエスが苦しみの中で上げられたうめき声を聞いていました。そして、彼らは、イエスがエリヤを呼んでいると言いました。その意味は、もし、イエスが本当に救い主であるのなら、エリアが突然現れて、イエスを助けに来るはずだ。しかし、エリヤは来ていない、やはりイエスは偽メシアだと彼らは言っているのです。彼らは、イエスの苦悩の叫び声を聞いても、イエスに対する同情心は全くなく、ただ、イエスをあざけっていました。ゴルゴタの丘は暗闇が覆っていましたが、その暗闇は地球上の場所だけでなく、人々の心をも覆っていたのです。さらには、別の人が、駆け寄って来て、イエスに酸いぶどう酒を飲ませようとしました。酸いぶどう酒には、麻酔のような働きがあります。十字架にはりつけにされた人は長い時間苦しむので、ローマの兵士たちは、憐みの心から、犯罪人に酸いぶどう酒を飲ませることがよくありました。この時の人も、イエスに酸いぶどう酒を飲ませようとしましたが、彼にはイエスへの憐みの心はありませんでした。彼は、ただ、彼も、イエスがエリヤを呼んでいると思い、イエスのところへエリヤが現れるのか見たいと思っていただけでした。罪をまったく持たない主イエスが私たちに代わって大きな苦しみを味わっておられた最中に、彼らは、苦しむ人間に対する憐みも敬意もなく、ただ、イエスを嘲っていただけでした。人間の罪の深さを改めて知らせる出来事です。

 37節にはこう書かれています。「しかし、イエスは大声をあげて息を引き取られた。」主イエスは、木曜日から一睡もせず、十字架に掛けられる前に39回のむち打ちを受け、十字架には6時間もはりつけになっていました。肉体的にはぼろぼろの状態で、私たちには想像もできない苦しみ、罪のない者が父なる神からすべての人類の罪に対する神の怒りのさばきを全身で受け止めておられましたが、主イエスの意識ははっきりしていました。普通の人間は、十字架の苦しみにつぶされて弱り果てて死んで行くのですが、イエスの意識はしっかりしていました。主イエスは、苦しみの中で、少しずつ体力を失って、死に至ったのではありません。主イエスご自身が預言しておられたとおり、主イエスは、自分から自分のいのちを捨てられました。他の福音書を見ると、この時、主イエスは2つの言葉を言われました。「完了した」と「父よ。わたしの霊をゆだねます。」という言葉です。主イエスは、6時間にわたる十字架のはりつけによって、そして、特に12時から3時までの間、はっきりした意識の中で父なる神からの厳しい裁きをすべて受け止められて、自分が受ける裁きは終了したことを知られました。それで、「完了した」と言われたのです。自分が受けるべき神の裁きは全部受け取ったという意味です。そして、主イエスの地上での最後の祈りは、自分の魂を父なる神の御手に委ねますという祈りでした。主イエスが言われたように、主は、自分で自分のいのちを十字架の上で捨てられました。

 このイエスの十字架の死は、人間の罪が赦される道が開かれたことを意味します。それによって、旧約聖書時代の、いけにえを捧げることが、もはや必要のないものになりました。旧約聖書の時代の人々は、少なくとも一年に一度、自分の罪が赦されるために、神殿に行っていけにえの動物をささげなければなりませんでした。それは、動物のいけにえは不完全なもので、一つの罪を赦す力しかありませんでした。しかし、御子イエスが十字架の上でささげられた御子イエス自身といういけにえは完全なものでしたので、主イエスがただ一度、十字架でささげられただけで、すべての時代のすべての人の罪を赦すことができるいけにえだったのです。へブル人への手紙の10章10節には次のように書かれています。「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは、聖なるものとされています。」主イエスが、完全ないけにえを捧げられたことによって、いけにえの動物を繰り返して神に捧げる必要はなくなりました。そのことを示す象徴的な出来事が起こりました。38節を読みましょう。「すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」

 神殿の中の奥のほうに、天井から床まで分厚い垂れ幕がかけられていました。この垂れ幕は、神殿の中の聖所とその奥にあったもっとも聖なる場所、至聖所を永遠に隔てる分厚い垂れ幕でした。至聖所は、神様がおられる場所と見なされていたので、その中に入る者は必ず死ぬと言われていました。神を見た者は死ななければならないからです。ただ、例外として、ユダヤ教トップの大祭司だけは、1年に一度だけ、イスラエルの民を代表してその中に入ることが許されました。それは、大祭司が代表して、イスラエルの民の罪を赦してもらうために、中に入って、そこにいけにえの動物の血を注ぎかけるためでした。モーセによって、神殿の原型となる幕屋が建てられてから1500年の間、この垂れ幕は、罪人が聖なる神にそのまま近づくことがないようにと、神と人間を隔てる壁となっていました。しかし、その壁が崩れ去りました。主イエスが十字架のうえで、私たちの身代わりになって、私たちの罪のさばきをすべて受けてくださったおかげで、イエス・キリストは誰でも、動物のいけにえを持たずに、そのままで神様に近づくことができるようになったのです。世の罪を取り除く神の子羊の死によって、私たちのすべての罪が取り除かれたからです。この時に、神様と人間の古い契約、動物のいけにえに基づく契約は終わりました。そして、イエス・キリストの十字架に基づく新しい契約が始まりました。旧約の時代が終わって新約の時代が始まったのです。

 これらの光景をずっと見ていた一人のローマ人がいました。イエスの十字架の正面に立っていた百人隊長でした。彼は、文字どおり、百人のローマ兵士をまとめるリーダで、イエスの逮捕にかかわり、主イエスが総督ピラトの前で裁判を受けていた時にも、その場にいたと思われます。そして、ピラトがイエスを十字架刑にするためにローマ兵士に手渡した後、彼とその兵士は、イエスにムチをうち、イエスをユダヤ人の王に仕立ててイエスを嘲っていました。ちtの丘で、主イエスを十字架にはりつけにしたのも、彼の部下の兵士たちでした。彼らは、ユダヤ教の指導者たちがなぜ、これほどまでにイエスを嫌っていたのか理由を知りませんでしたが、彼らも、ユダヤ人たちと一緒になって主イエスを嘲っていました。その後、6時間が経過しましたが、百人隊長はイエスの十字架の正面に立っていたので、イエスが十字架で語られた7つの言葉をすべて聞いていたはずです。ローマ兵士の嘲りや、ユダヤ教リーダー達の悪意に満ちた罵りの言葉に対しても、主イエスが父なる神に罪の赦しを祈られた祈りをも聞いたでしょう。3時間の暗闇が続いた後に、主イエスが最後に大きな声で、「完了した。」と叫ばれる姿を目撃していました。ほとんどの受刑者は、ローマを罵ったり、神に対して怒りを表したり、最後は、力尽きて弱々しく死んで行ったのですが、イエスは、まったく違って、権威と威厳をもって引きを引き取られるのを見ていました。そして、主イエスが息を引き取った後に、激しい地震が起きて地面が大きく揺れました。そのような状況の中で、百人隊長は、自分の気持ちを抑えることができなくなりました。彼は言いました。「この方は、本当に神の子であった。」この百人隊長の信仰告白、すなわち、彼がイエスが神の子であることを告白した信仰の告白は、マルコの福音書では、この人が最初でした。父なる神は、イエスを神の子と認めていましたし、サタンもイエスを神の子とだと認めていましたが、人間の口から出た信仰告白としては、この百人隊長が最初でした。百人隊長は、イエスの十字架の場面を目撃する前は、他の人たちと一緒になって、主イエスを嘲っていたはずです。しかし、神様の憐みは、この百人隊長にも届きました。百人隊長は、この信仰告白によって、彼自身も、神の民となり、天国での永遠のいのちが与えられました。数時間前まで、イエスを嘲っていた人のためにも、主イエスは十字架にかかっていのちを捨てられました。この百人隊長が救われたことを見れば、どんなに大きな罪を犯した人であったとしても、主イエスは、その人のためにご自身のいのちを捨てられたので、その人にも、神の愛は届いています。神の愛と神の赦しを受けられない人は、この世に一人もいません。主イエス・キリストの十字架は、この世のすべての人のためのものであることを、百人隊長の言葉が表しています。

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