2023年4月9日 『主はよみがえられた』(マルコ16章1-8節) | 説教      

2023年4月9日 『主はよみがえられた』(マルコ16章1-8節)

 毎年、春になると、キリスト教会では、主イエスの復活を祝うイ―スターがやって来ます。最近は、ディズニーランドでもイースターをイベントとして取り上げていますが、その意味を知っている人は少ないです。イースターは、私たちの身代わりとなって十字架で死なれた主イエス・キリストが、聖書の預言のとおりに、また、主イエスご自身の言葉のとおりに死から復活されたことを祝う、キリスト教会でもっとも大切な日です。クリスチャンの信仰のすべては、主イエスの十字架の死と、それから三日目のキリストの死からの復活が土台になっています。「死んだ者がよみがえった」と言われても、そのまま信じる人は少ないです。それは、2000年前のイエスの時代の人々も同じでした。イエスの12人の弟子たちは、主イエスから直接、何度も繰り返して、「私は十字架の苦しみを受けるが三日目には死からよみがえる」と聞いていたのですが、その弟子たちも、イエスが十字架にかけられた後、主が本当に復活するとは信じていなかったので、彼らはユダヤ人たちを恐れて、隠れて集まっていました。彼らは自分たちもイエスと同じように殺されるかも知れないと思っていたからです。復活は、人間的には、信じられないことなのです。

 しかし、もし、主イエスの復活がなかった場合、弟子たちが主イエスの復活のストーリーをでっちあげる理由はどこにあるでしょうか。復活を信じても何も得になることはありません。人々から笑われるだけです。しかし、イエスの弟子たちは、復活の主イエスと出会って、すっかり変わりました。イエスの復活の後、弟子たちは、イエスの復活を大胆に人々に語り始めるのです。人は、偽りだと分かっていることに、いのちをかけることができるでしょうか。イタリアのローマの近くにカタコンベと呼ばれる、キリスト教徒の地下の墓場があります。キリスト教徒を迫害していたローマ帝国時代、クリスチャンたちは地下に幅1メートル、高さ3メートルくらいの地下道をアリの巣のように張り巡らして、そこで礼拝をしたり隠れ場所として使っていました。イタリア全土にあるカタコンベを合わせると全長880キロに上り、その中には700万人のクリスチャンの遺体が葬られています。イエスの弟子たちだけでなく、彼らの宣教によって生まれた1世紀のクリスチャンたちの多くが、イエスの復活を信じる信仰のゆえに殺されて行きました。人は、偽りと分かっていることのために、いのちを落とすことなどできるのでしょうか。自分たちで作り上げた偽りのストリーに、人は自分のいのちをかけることができるのでしょうか。

 イエスの復活が作り話であると考えた場合にも、福音書の記事には不可解な点があります。イエスの復活は、4つの福音書すべてに記されていますが、不思議なことは、どの記事にも、イエスが死から復活した場面は出て来ません。主イエスがどのように復活したのか一切書かれていないのです。もし、作り話なら、かなり脚色して、ドラマチックな記事を書くと思います。例えば、イエスが復活した時、真夜中に天から突然大きな光がさして、イエスの遺体を納めた墓の入口の石が転がり、光がイエスの遺体に触れた瞬間に、イエスが死からよみがえったとか、特別な場面を作り出すのではないでしょうか。しかし、福音書にはどこにもそのような記事はありません。また、福音書の記事を見ると、主イエスの墓が空っぽであるのを最初に発見したのは、イエスについて来ていた女性たちでした。もし、イエスの復活の話を作り上げるのであれば、第一発見者が女性であることはまずありません。というのは当時のユダヤ人社会では、女性は男性よりも低く見られていて、女性の証言は証拠として認められませんでした。ですから、もしイエスの復活の物語を作り上げるならば、最初に発見した人は必ず男性にするはずです。このような点を見ても、イエスの復活の記事は、でっち上げられたストーリーとは考えにくいです。そして、ローマ帝国は300年近く、キリスト教をこの世から亡くそうとしてあらゆる迫害を続けて来ましたが、最終的にローマ皇帝がクリスチャンになったために、キリスト教の信仰が容認され、最後は、キリスト教が国の宗教になりました。復活を信じない12人の弟子たちから始まった信仰が、当時の世界一の大国ローマ帝国を日繰り返すことになりました。このような歴史的な大逆転が、、偽りのキリストの復活に基づく教えで実現するとは到底考えられません。

 今日の箇所に登場するのは、主イエスの復活を最初に知った女性たちです。この女性たちは、主イエスを救い主と信じてイエスについて着ていたのですが、彼女たちも主イエスが復活することを信じていませんでした。彼女たちがイエスの墓に行きたかったのは、主イエスのために何かをしたかったからです。彼女たちは、十字架にはりつけにされた主イエスを近くから見ていました。そして、イエスが死んだ後、ヨセフとニコデモという2人の国会議員がイエスの体を十字架から降ろして、大急ぎでイエスの体に大量の薬を塗って亜麻布で巻く様子を見ていました。恐らく、女性たちが気にしたのは、イエスの顔でした。主イエスの顔は、ユダヤ人たちから殴られ、唾を吐きかけられ、茨の冠をかぶせられていたので、傷だらけの顔になっていました。彼女たちは、イエスの顔を洗って油と良いにおいがする薬を塗ってあげたいという思いで、日曜日の夜が明けるとすぐに、イエスの墓に向かいました。彼女たちは、イエスの遺体を丁重に葬ることだけを考えていました。 彼女たちは金曜日の夕方に、イエスの遺体がヨセフの新しい墓に納められて、その後、ヨセフが、墓の入口に大きな石を転がしてふたをしているのを見ていました。そのため、彼女たちは、どうやってイエスの墓の中に入れるのか分かりませんでした。また、土曜日の安息日には、彼女たちはずっと家にいましたから、その間に起こったいろいろな出来事について何も知りませんでした。マタイの福音書によると、安息日に、イエスをはりつけにしたユダヤ教の指導者たちが集まって話し合っていました。彼らは、主イエスが以前から繰り返して「自分は十字架の苦しみを受けた後、三日目に復活する」と弟子たちに話していたことを知っていました。彼らは、イエスの弟子たちがイエスの遺体を盗んで、「イエスが死人の中から復活した」と民衆に言いふらすと、やっかいなことになると思ったので、ピラトの所に行って、墓の前にローマの兵士の見張りをつけるように願い出ました。ピラトは彼らの願いを聞き入れて、イエスの墓の前にローマの兵士の見張りをつけました。ユダヤ人たちは人間の力によって、イエスの復活が起きないようにいろいろな手段を用いましたが、実際には、そんなことをしても無駄ですし、イエスの弟子たちを見れば、そんなことをする必要はまったくありませんでした。弟子たちは、誰も、イエスの復活を信じることができず、イエスが十字架で死んでしまったことで、それまで3年間イエスの弟子として受けた教育も訓練もまったく忘れてしまい、すっかり落ち込んでいたからです。

 イエスの墓の前にはローマの兵士が見張って、弟子たちがイエスの遺体を盗まないように、警戒していました。ところが、マタイの福音書によると、日曜日の早朝、大きな地震が起こり、主の使いが天から降りて来ました。その天使の姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かったと書かれています。その姿を見た、ローマの兵士たちは、震えあがって死人のように固まってしまいました。そして、3人の女たちが墓に着いた時には、その兵士たちは、恐ろしさのあまり、墓から逃げ出していました。人間が、どのようにしてイエスの復活を妨げようとしても、できるはずはありません。人間は、神であるイエスを墓の中に閉じ込めておくことはできないのです。朝早く墓に着いた女たちは、自分たちがイエスの墓に来る前に、そのような出来事があったことは全く知りませんでしたが、墓場に着いてみると、墓の入口をふさいでいた大きな岩が脇に転がっていて、墓の入口は開いていました。

 彼女たちが墓の中に入ると、真っ白な衣を来た天使が座っていたので、彼女たちは非常に驚きました。天使は、女性たちが何のために墓に来ていたのか知っていました。6節で、天使は女たちに言いました。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」天使は、女性たちがイエスの復活を確かめに来たのではなく、主の遺体に香料を塗るために来たことを知っていました。彼女たちは、イエスの墓に来たのは良いのですが、彼女たちにも復活の信仰はありませんでした。私たちからすると、イエスの弟子たちも、この女性たちも、イエスが繰り返しご自分の復活を預言しておられたにも関わらず、イエスの復活を信じていないことが不思議です。しかし、主イエスの復活は、彼らにとって、人間の理解を超えた大きな不思議な出来事だったのです。イエスの弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、イエスの墓に来ることさえしませんでした。それで、天使は、女性たちに、弟子たちとペテロに、主イエスが弟子たちの出身地であったガリラヤに行くので、そこで主イエスに会えることを伝えなさいと命令しました。主イエスが十字架にかけられる前に逮捕された時に、弟子たちは皆、自分のいのちを守るために、イエスを見捨てて逃げて行きました。彼らは、3年もの間、イエスから直接教えを受け、イエスの奇跡の業を何度も見て来たはずなのに、主イエスの言葉を聞いても理解していませんでした。彼らは、イエスが十字架で死んだためにすっかり落ち込んでいました。主イエスはこのような弟子たちの姿を見てどう思われたでしょうか。しかし、主イエスは、弟子たちを見捨てることはありませんでした。主イエスは、彼らの信仰を回復させるために、弟子たちの故郷であり、イエスの宣教活動の中心であったガリラヤ地方で弟子たちと再会することを弟子たちに約束しておられます。そして、弟子たちは、復活のイエスと出会い、イエスの復活を確信した時から全く別人になりました。最初にお話ししたように、弟子たちは、イエスの復活を信じる前は、周囲の人々を恐れて、信仰を隠していましたが、イエスの復活を確信した後、彼らは人間を恐れず、神を恐れる人として生涯を最後までまっとうしました。12人の弟子の多くは、殉教しました。彼らは、自分のいのちをかけて主イエスを人々に語り始めました。その結果、当時世界最大の国であった、ローマ帝国の300年に及ぶ激しい迫害を耐え忍び、ついに、キリスト教がローマ帝国を呑み込み、ローマ帝国はキリスト教の国に変わりまし。この歴史の大きな流れが、すべて、弟子たちの嘘から始まったとはどうしても考えられません。確かに、主イエスの復活があったとしか考えられないのです。

 主イエスの復活は私たちにはどのような意味があるのでしょうか。第一に、主イエスの復活は、イエスが確かに神であり、救い主であることの証拠です。第二に、キリストの復活は、キリストが約束しておられたことであり、主はその約束を実行されました。したがって、イエスの復活は、イエスの約束はすべて必ず成就することを保証します。主イエスは、私たちのために様々な約束をしておられますが、そのすべての約束を主イエスは必ず実行されることを、主の復活は保証しています。主イエスは、信じる者に永遠のいのちを与えること、神の子どもとして生きること、そして、やがて、将来、世の終わりの時に、主イエスが復活されたのと同じように私たちも新しい体をもって復活すると約束しておられますが、それらすべての約束も必ず、主イエスが決められた時に実現することを私たちは確信することができます。

 私たちは、何かの計画を立てる時に、必ず、そのようにはじめてどのように終わるのかを決めます。私たちの人生も一つのプロジェクトですが、多くの人は、終わりのことを知らずに、考えずに生きています。どのように終わるのか、主イエスの復活は、私たちの人生が勝利に終わることを約束するものです。主イエスの復活を信じて、いつ何が起きても動じない人生を歩みましょう。

ロンドンのクライスト チャーチ大聖堂で行われたイギリスの有名な聖書学者 F. B. マイヤーの葬儀は特別な葬儀でした。その葬儀の中には悲しみや敗北の雰囲気はなく、希望に満ちた聖書の言葉が読まれ、イースターで歌う讃美歌が歌われました。葬儀の最後にオルガニストが演奏を始めると、大勢の会衆が立ち上がりました。 人々は頭を下げて立って、荘厳な葬送行進曲が演奏されるのを待っていましたが、オルガニストは、ヘンデルのメサイヤのハレルヤコーラスの演奏を始めたのです。よく考えてみると、神のために忠実に生きたF.B,マイヤーの魂は、肉体を離れて王の王、主の主である神の前に立っていたのですから、ハレルヤコーラスこそクリスチャンの葬儀に相応しい賛美です。私たちは死んだイエスを礼拝しているのではありません。第2テモテ1章10節にはこう書かれています。「今、私たちの救い主キリストの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音にうおって、いのちと不滅を明らかに示されたのです。」

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