2023年4月16日『福音を宣べ伝えなさい』(マルコ福音書16章9-20節) | 説教      

2023年4月16日『福音を宣べ伝えなさい』(マルコ福音書16章9-20節)

 今日の聖書の個所は、聖書をよく見ると分かりますが、カッコでくくられています。それは、新約聖書には、パピルスに書かれた断片的なものも含めると5000以上の写本があり、この個所を含む写本も多いのですが、古い写本でより信頼性の高い写本には、マルコの福音書の16章9節から20節が含まれていないからです。今から2000年前は、印刷の技術がなかったため、すべての書物は手で書き写すことによって残されてきました。新約聖書の写本の数は、他の古代の書物と比べると桁違いに数が多く、そして、最も古い写本はオリジナルが書かれてから30年から50年後に書かれたものが見つかっています。聖書のように多くの写本が見つかっている古代の書物は他にありません。例えば、ヘロドトスという人が書いた「歴史」という書物の写本は、8つしかありません。しかも、最も古い写本でもオリジナルが書かれた時よりも1300年後に書かれたものです。ジュリアス・シーザーが書いた「ガリア戦記」という書物で今も残っている写本の数は10で、最も古いものでも、オリジナルが書かれた1000年後のものです。このように、古代の書物の中で、新約聖書は圧倒的に数が多く、新約聖書以上に信憑性が認められる書物はありません。

 その新約聖書の写本の中でも、よくできたものと信憑性が少し薄いものがあるのですが、よくできた写本には、今日の個所は含まれていません。それで、多くの学者は、この部分は、後から書き加えられたものと考えています。なぜ、このようなことが起きたのかと言うと、マルコの福音書の16章が8節で終わったとすると、終わり方があまりにも突然で、ストーリーが終わったようには見えないからです。16章の8節は、ここにも書き加えられた部分がありますが、オリジナルの部分では、「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」という記事で終わっています。そこには、復活の後の主イエスの姿がありませんし、他の3つの福音書に記されている、主イエスの復活後のいろいろな重要な出来事が書かれていません。そのため、初代教会の人々は、マルコの福音書の最後の部分が何らかの理由で紛失してしまったと考えたのです。そこで、8節以降の部分が、オリジナルが書かれた後に、他の福音書や使徒の働きに記されている出来事から引用して、書き加えられたと思われます。と言うのは、9節から20節に描かれている部分はことは、ほとんどの節が、他の福音書に同じ出来事が記されていて、その引用した場所も特定されています。したがって、この部分は、新約聖書の3つの福音書と使徒の働きのいくつかの聖句が組み合わさって出来上がったパッチワークのような記事になっています。

 しかし、マルコの福音書の最後の部分は本当に存在していたのでしょうか。本当に最後の部分だけが失われたのでしょうか。最後の部分が失われたというのは仮説に過ぎず、失われたという証拠はありません。従って、マルコの福音書は、8節で終わっていたと考えるほうが正しいと思われます。8節には「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」と書かれていますが、マルコはこの8節で、女性たちの驚く姿を4つの言葉で描いています。第一に、彼女たちは震え上がったと書かれています。彼女たちはみ使いの言葉を聞いて、本当に体が震えるほどのショックを受けていました。第二に、彼女たちは気が動転していました。三番目に、彼女たちはあまりにも驚いて、皆、黙っていました。そして、最後に、「彼女たちは恐ろしかったのです」と書かれています。主イエスの復活は、2000年前の人間にとっても、これほどのショックを与える出来事でした。しかし、ここで終わったとしても、マルコの福音書が、福音として不完全という訳ではありません。マルコの福音書には、イエスの墓が空っぽであったことが記されています。み使いは、女性たちに、主イエスがよみがえったことを説明しています。マルコの福音書が書かれた目的は、イエスが、神の子キリストであることを表すためだと言われています。その目的に合わせて考えれば、マルコの福音書の16章1節から8節の言葉で、イエスの復活については十分に説明されていますし、15章の39節では、ローマ人の百人隊長が「この方は本当に神の子であった」と言っていますので、マルコは、イエスが救い主キリストであることを証明するのに、それ以上の証拠は必要ないと考えたとのかも知れません。そのために、マルコの福音書は8節で終わっていると考えられます。

「女性たちは恐ろしかった」という言葉がマルコの福音書を締めくくっています。しかし、彼女たちは、自分たちの身の危険を感じて恐ろしかったのではありません。マタイの28章8節には「彼女たちは恐ろしくはあったが、大いに喜んで、急いで墓から立ち去った。」と書かれています。彼女たちは、自分たちが慕っていた主イエスが復活したことを考えて、心の中に大きな驚きと戸惑いとともに深い喜びをも感じていたのです。マルコの福音書を通じて、イエスの言葉、イエスの働き、イエスの奇跡が、人々の心に大きな驚きを与えたことが強調されています。「人々は驚いた」「人々は恐ろしくなった」「人々は口もきけないほど驚いた」「弟子たちは心の中で非常に驚いた」「彼らは恐怖に打たれていた」「弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた」などという表現が続きます。そのクライマックスが、女たちがイエスの復活を見た時であり、彼女たちの驚きはマックスに達していました。私たちの主イエスの教えも、働きも、それほど力強いものであり、私たちにとっては恐れを感じるほどのものなのです。私たちは、それほどの力を持つ救い主に愛され、導かれ、救いに入れられたのですから、私たちは、決して、主イエスに対する感謝の気持ちを失ってはなりません。

(1)信じる者になりなさい。

 それでは、9節以下は読む必要があるのですかと尋ねる人がいると思います。9節から20節には、2つのことが強調されています。そして、その教えは今日の私たちも学ぶ必要があるものです。

第一の点は、9節から14節のところで、イエスを信じる者たちが復活を信じない不信仰の姿が強調されています。9節で、復活された主イエスは、最初にマグダラのマリヤにご自身を表されました。この出来事はヨハネの福音書20章に記されています。この時、主はマリアに「わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」と言われたので、彼女は、弟子たちのところに走って行きました。マルコの16章10節には、「イエスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行って、そのことを知らせた。」と書かれています。弟子たちは、主イエスから直接、十字架に掛けられた後に死から復活することを何度も繰り返して聞いていました。したがって、彼らは、復活の希望をしっかり握って復活の日を待ち望むべきだったのですが、彼らは嘆き悲しんでいました。主イエスの約束を信じることができず、今の状況だけを見て、彼らは嘆いていました。しかも、ルカの福音書によれば、彼らは、マリアの話を聞いてもたわごとのように思って、彼女の話を信じませんでした。先週も話したように、当時のユダヤ社会では、女の人の証言には何の価値もありませんでしたので、マリアの話はまったく相手にされませんでした。また、12節と13節に書かれていることは、ルカの福音書24章に記されています。それは、主が復活された日の夕方の出来事です。エマオという田舎の村出身の二人の弟子が、イエスの十字架の死を見て悲しみながらエルサレムから自分の村に向かっていたのですが、その途中で主が彼らに別の姿でご自分を表されました。そのため、最初、二人は話している人がイエスだとは気が付かなかったのですが、最後、一緒に食事をしていた時に、その方が復活の主であることが分かりました。二人がそのことに気が付いた瞬間、イエスの姿が見えなくなりました。そこで、二人は、もうすでに夜になっていたのですが、弟子たちに知らせるために、エルサレムに行き、弟子たちに知らせました。しかし、その時も、弟子たちは、二人の話を信じませんでした。すると突然、彼らが集まっていた所に、復活の主イエスが現れたのです。ルカの福音書には、彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思ったと書かれています。弟子たちは復活の主を自分の目で見ていながら、主イエスを幽霊だと思ったほど、彼らは主イエスの復活に対して不信仰になっていました。それで、14節に記されているように、イエスは彼らの不信仰と頑なな心を責められました。イエスは彼らに言われました。「なぜ取り乱しているのですが、どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」イエスは弟子たちの不信仰と頑なな心を責められました。不信仰は、私たちの頑なな心から生まれます。主イエスの言葉、主イエスの約束は、決して変わることがありません。主イエスは、昨日も、今日も、とこしえまでも、決して変わることのないお方です。真実なお方です。不信仰はわたしたちの頑なな心が原因です。私たちの心が頑なだと、主が何を言われても、主がどのような大きな働きをされようとも、主イエスを信じることができないのです。私たちは、この時の弟子たちのように、心のどこかが頑なになっていないでしょうか。点検することが必要です。

  • 全世界に福音を宣べ伝えなさい

 マルコの福音書16章の後半で、もう一つ強調されているのは、主イエスの宣教命令です。主イエスは、復活の後、40日間弟子たちの前に姿を表されましたが、その間、いくつかの命令を与えられました。その中で、マルコの福音書に記されているのは、宣教命令でした。15節にこう書かれています。「それから、イエスは彼らに言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい』」おそらく、これはマタイの福音書の最後に記されているものと同じ命令で、11人の弟子たちが、イエスに指示されたガリラヤの山に上った時に、主イエスから与えられた命令です。宣教命令とは何でしょうか。福音を宣べ伝えなさいという命令です。弟子たちが人々に伝えなければならないのは福音です。すなわち、主イエスの十字架と復活を信じることによって人々が罪の裁きから救われるという良い知らせのことです。弟子たちは、その福音を全世界のすべての造られた者に宣べ伝えるようにと主イエスに命じられました。この命令は、今の私たちにも与えられています。教会はなぜこの地に建てられているのでしょうか。それは、この地域に住む人々の中で、まだ福音を聞いていない人々に福音を宣べ伝えるためです。北本に教会が建てられたのも、この主イエスの宣教命令を果たすためです。教会の第一の使命はクリスチャンの交わりではありません。私たちは創立40周年という節目の年を迎えていますが、なお、教会の一人一人が、回りの人々に主イエスの十字架の福音を宣べ伝えて行かなければなりません。16節の言葉は誤解されやすいの注意が必要です。信じてバプテスマを受ける者は救われますと書かれているので、バプテスマを受けなければ救われないと思う人がいるのですが、それは違います。その言葉に続いて「信じない者は罪に定められます」と記されているように、強調されているのは信じるか信じないかです。したがって、ある人が洗礼を受けていたとしても、主イエスを救い主と信じる信仰がなければ、洗礼を受けていても罪に定められます。私たちの永遠の運命を決めるのは洗礼ではなく、信仰です。ただ、主イエスは11人の弟子たちに、信じた者にはバプテスマを行うように命じておられたので、初代教会では、信仰を持った者は、すぐに洗礼を受けることが当然のことと考えられていました。

 17-18節に、神の奇跡の働きについて書かれています。当時は、まだ教会が生まれたばかりで、弟子たちには特別な神の助けが必要でした。そのため、使徒の働きの中にも、弟子たちが伝道を行っている時に、時々、神の力が大きく現れる時がありました。ここでは、毒蛇をつかんでも、毒を飲んでも死なないと記されています。おそらく、そのような出来事があったでしょうが、聖書には記されていません。聖書は、主イエスや神が働かれた奇跡の業のすべてが記されている訳ではありません。これに似た出来事としては、使徒パウロがローマ皇帝の前で裁判を受けるために、エルサレムからローマに向かって船旅をしましたが、その時、船が難破してマルタ島に打ち上げられた時に、パウロの手に毒蛇が噛みついても、彼が死なないということがありました。初代教会が建て上げられるまでの期間には、特に神様の助けが必要であった時で、このような奇跡の業がしばしば起こっていましたが、教会が建て上げられるにつれて、このような奇跡はだんだんと少なくなっていきました。そして、宣教の働きは、奇跡のわざによるのではなく、聖書の言葉によって行われていくようになりました。

 20節に、弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えたと記されています。主イエスが復活するまでは、ユダヤ人を恐れて隠れていた弟子たちが、自分のいのちの危険を冒してでも、出て行って福音を宣べ伝える弟子へと変身しました。20節で大事な言葉は、「主は彼らとともn働かれた」という言葉です。弟子たちは、大変厳しい状況の中で福音を宣べ伝えたのですが、彼らが困難を乗り越えられたのは、彼らが、復活の主が自分たちとともに働いておられたことを実感していたからです。私たちにも、福音を宣べ伝えるという使命が与えられていますが、主はただ命令を与えられるだけではありません。私たちが、その命令を実行できるように助けをも与えてくださるのです。主は彼らとともに働いておられました。同じ主は私たちとも共に働いておられます。そのことを決して忘れてはなりません。私たちは、ひとりで福音を宣べ伝えるのではありません。主が共におられるのです。主が私たちの方となって私たちを守ってくださるのです。そのことを知っていれば、私たちは困難を乗り越えられます。

 ジョージ・マセソンという人は、突然失明したために、愛する婚約者から、婚約を解消すると言われて孤独と絶望のどん底に陥ってしまいました。しかし、彼が深い悲しみの中で、キリストの愛にを知り、そして、そのイエスがいつも自分とともにいることを知って、彼は立ち上がることができました。聖歌の282番は、マセソンの辛い経験から生まれた讃美歌です。地上の恋人の愛を失いましたが、彼はキリストの愛からは決して離れることがないことを思って書いた讃美歌です。

 決してわたしを手放すことのない神の愛、

 わたしの疲れた魂はあなたの内に憩いを得る

 わたしのいのちは、あなたの深い愛の中で

 より豊かに、より強くされる

私たちは、ひとりで生きているのではありません。神の御手に守られて生きているのです。そのことを覚えて、今の難しい時代の中で、わたしたちは忠実に神から与えられた使命に生きる者でありたいと思います。

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