2023年4月23日 『真実のうちを歩みなさい』ヨハネの手紙第二 | 説教      

2023年4月23日 『真実のうちを歩みなさい』ヨハネの手紙第二

 今日は、主イエスの弟子ヨハネが書いた第二の手紙を取り上げます。この手紙を書いた弟子ヨハネは12弟子の中でもっとも若い弟子でした。この手紙が書かれた1世紀の終わりごろ、すでにヨハネ以外の12弟子はすでに死んでいたと思われます。1節に「長老から、選ばれた夫人とその子どもたちへ。」と書かれていますが、ヨハネは自分のことを長老と呼んでいます。「長老」という言葉は、1世紀の終わりごろ、多くのキリスト者たちがヨハネを尊敬して呼んでいたタイトルでした。当時、ヨハネは、エペソの教会で牧師たちのリーダをしていたと考えられています。当時の教会にとって、もっとも深刻な問題は、にせ教師の問題でした。パウロが書いた手紙の中に「テトスへの手紙」というのがありますが、テトスはクレタ島の教会の指導者でした。このテトスも、偽教師の問題を抱えていました。テトスへの手紙1章10,11節には次のように書かれています。「実は、反抗的な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多くいます。特に割礼を受けている人々の中に多くいます。そのような者たちの口は封じなければなりません。彼らは、恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、いくつかの家庭をことごとく破壊しています。」今でも、統一教会のような異端の教えは、間違った教えによって人々を苦しめていますが、同じ問題は、教会が生まれたばかりの時代にすでに存在していたのです。ヨハネの第二の手紙が書かれた目的は、選ばれた夫人に対して、にせ教師の問題を警告するためでした。

  • 私たちは真理を知らなければなりません(1-3節)

 1節から3節の短い箇所の中で、ヨハネは真理という言葉を4回繰り返して使っています。私たちクリスチャンは、主イエスを信じる信仰を持っています。そして、その信仰は何を信じるものなのかということを私たちは知っています。私たちの信仰の内容は私たちの教会の信仰告白に言い表されています。そのために、洗礼を受ける時には、必ず、自分の信仰告白として、教会の信仰告白を告白します。信仰にとって、信じる心は大切ですが、それ以上に大切なのが、何を信じるのか、どんな真理を信じているのかが大事です。日本語のことわざの中に「いわしの頭も信心から」というのがあります。これは、どんなにつまらないものであっても、いったん信じてしまえば、それがありがたいものに思えるという意味で、信じる心の大切さを言い表していますが、そのような信仰には価値があるのでしょうか。間違ったことを信じてしまうことほど危険なことはありません。信仰で最も大切なことは、何を信じているかということです。キリスト教の異端の人々は、多くの人が熱心な信仰を持っています。しかし、真理ではないものを信じているので、統一教会は献金問題で苦しみ、エホバの証人の人々は輸血禁止の教えの苦しんでいます。この手紙が書かれた当時は、まだキリスト教が生まれたばかりの頃で、信者のほとんどがユダヤ人でした。一部の人々が間違った教えに陥り、人が罪を赦されるためには、イエス・キリストの十字架を信じるだけでは、不十分で、律法の教えを守らなければならないと主張するようになったのです。この間違った考えは、旧約聖書の時代ずっと律法に従って生きていたユダヤ人には大きな誘惑となって働いていたのです。ただ、この教えによれば、人の罪が赦されるために、主イエスの十字架と復活だけでは不十分であるという、聖書の教えとはまったく反対の教えになります。そのため、この間違った教えが教会に入り込むと、教会が大混乱になってしまいます。この間違った教えは、今もなお、残っていて、人の罪は、熱心な伝道活動をしなければ救われないというような考えがはびこっています。もちろん、私たちがクリスチャンとしてしなければならないことはたくさんあります。しかし、救いを得るためには、私たちの行いによって得ることはありません。パウロがエペソ人への手紙で書いているように、私たちは神の恵みにより、主イエスを救い主と信じる信仰によってのみ救われるのです。

 また、この手紙が書かれた当時、もう一つの間違った教えが広がっていました。それは、主イエスは、神の子であるから本当の神ではないとする考えでした。これは、今もエホバの証人の教えに残っています。ある偽教師たちは、主イエスが神の子であるということは、私たち人間が神のかたちに造られているのと同じように、神の子として造られているので、神ではないと主張しました。しかし、ヨハネの福音書を見ると、主イエスは繰り返して、「父とわたしは一つである」と主張しておられます。ヨハネの手紙第二は、イエス・キリストが確かに神であることを強調しています。3節で「父なる神と、その御父の子イエス・キリストから」と父なる神と御子イエスをつないで一つの存在として述べています。ヨハネは、父なる神と御子イエスとが完全に対等の存在であることを示しました。御子イエスが父なる神と同じように神ご自身であること、これは、クリスチャン信仰の土台です。現代の人々は絶対的なものを否定します。そして個人の考え方や好みが優先されます。したがって、人々は「あなたはあなたの真理を信じればいい。私は私の真理を信じるから。」と言います。しかし、聖書全体は、この世界に絶対的真理があり、絶対的な存在者としての神が存在することを教えています。この世界が、これほど美しくそして秩序正しく動いているのは、一人の真理の神によってコントロールされているからです。主イエスは言われました。「私は道であり、真理であり、いのちです。」私たちは決して傲慢になってはいけませんが、私たちが信じている神こそ真理の神であることの確信をしっかりと握っておかなければなりません。

(2)真理のうちを歩みなさい。

 4節に「御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちが、あなたの子どもたちの中にいるのを知って、私は大いに喜んでいます。」と書かれています。ここに、「真理のうちを歩む」という表現があります。真理のうちを歩むとはどういうことでしょうか。ヨハネは、それは、神から受けた命令を守ることであり、私たちの生活のすべての面において、神の真理の教えに従って行動しようとする生き方のことです。私たちにとって、真理について学ぶことは簡単です。真理について議論することも簡単です。しかし、その真理を日々の生活の中で実践することは、簡単なことではありません。ヨハネは、クリスチャンにとって真理のうちを歩むとは具体的にはどういうことかと言うと、「愛のうちに歩むこと」であると述べています。主イエスご自身も、最後の晩餐の時に、こう言われました。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」主イエスは、新しい戒めと言われましたが、実はこの戒めは旧約聖書のレビ記にも記されています。では、なぜ、主イエスが、この命令を新しい戒めだと言われたのかというと、愛の内容が変わったのです。神である御子イエスがこの世に来て、私たち罪人を罪の裁きから救い出すために、ご自分が私たちの身代わりとなって罪の罰を十字架で受けてくださいました。それは、主イエスの私たちに対する愛の実践でした。罪人のためにいのちを捨てるという愛を実践されたのです。私たちは、そのような愛を模範として愛することが求められています。また、この戒めのもう一つ新しい点は、その命令を守ることができるように、聖霊が与えられているということです。私たちは、自分の力で、愛を実践するのではありません。聖霊の導きや助けを受けて、実践するのです。また、この戒めについて多くの人は誤解しているのですが、それは、隣人を愛することを、その人に対して愛という感情を持つことだと思っているのです。確かに、隣人を愛することには、その人に対する好ましい感情は含まれます。しかし、それよりも大切なことは、隣人を愛するとは、その人に対して、愛の働きを実践することなのです。愛とは私たちの感情である以上に、私たちの決意です。簡単に言えば、神様が私たちを扱われるのと同じように、その人に接するということです。私たちが祈りつつ、指令の助けを受けるならば、感情的には好きになれない人に対して愛の働きを実践することは可能です。ヨハネが6節に記しているように、神の命令に従うことと互いに愛することが一つに繋がっています。神を愛することと隣人を愛することは繋がっているのです。

  • 真理のうちにとどまりなさい(7-11節)

 手紙の後半で、ヨハネは人を惑わす者たちがいることを警告しています。人を惑わす者たちとはどんな人でしょうか。ヨハネによると、その人たちはイエス・キリストが人となって来られたことを告白しない人々でした。当時の惑わす者たち、すなわち偽教師たちは、ギリシャ哲学の影響を受けていて、目に見えない霊は良いものだが、目に見える物質は悪だと教えていました。従って、キリストが善なる神であるならば、目に見える人の姿を持つことはありえないと彼らは教えていたのです。そのような偽教師が大勢、この世に出てきていました。彼らは、人となってこの世に来られたキリストを否定するので、ヨハネは彼らを「反キリスト」と呼びました。

 8節には、信仰から離れてしまうことの危険性が述べられています。偽教師たちは、彼らの教えに従うことによって私たちが今持っていないものを与えてあげようと人々を誘惑しますが、実際には、彼らの間違った教えは、私たちを主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられた救いから引き離してしまいます。私たちは、常に、聖書の教えにしっかりととどまっていなければなりません。9節では、「先を行く」という危険について語られています。「先を行く」とは、聖書の教えの限界を超えて、聖書の教えを離れることを意味します。聖書の教えは古臭いので、今の時代には時代にあった新しい教えが必要だと主張して、聖書の正しい教え、特に、キリストが神であるにも関わらず人の姿を取ってこの世に来られたという教えから離れてしまうことです。そのような教えを信じる者は神を持っていません。父なる神とキリストは一つですから切り離すことはできません。父なる神だけを信じて御子イエスを信じないということはありえないのです。しかし、実際には、このように主張する人が多くいます。よく人は言います。「神様は信じられるけど、イエス・キリストが信じられない。」そのような人は、そもそも、自分の罪のことについて何も知らないのです。イエスの十字架がなければ永遠の滅びに至るということを信じていないのです。イエス・キリストの十字架を信じる信仰なしに、父なる神を信じることはできません。主イエスご自身が言われました。「だれも、わたしを通してでなければ父なる神のもとへは行けません。」人は、父なる神とキリストと両方持つか、どちらも持たないかの、どちらか一つです。父なる神だけを信じるとか、御子イエスだけを信じるというのはあり得ません。 

 ヨハネは最後に、夫人に対してもう一つの警告の言葉を記しています。それは、10節11節の言葉です。「あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」初代教会の時代、人々をもてなすことはとても大切なことと見なされていました。当時は、旅行者が安心して泊まれる宿の数が少なく、とくに、この世の快楽や悪事に関わりたくないと願っているクリスチャンが安心して泊まれる宿は本当にわずかしかありませんでした。したがって、聖書の中にも、旅人をもてなしなさいという教えは繰り返し出て来ます。また、特に、パウロのような各地を旅して伝道する人々を家に迎えることによってその人たちの働きを援助することは大切なことと見なされていました。しかし、その時に注意しなければならないことは、人を惑わす者たちや反キリストの人々、今で言うと異端の人々を家に迎えることは大変危険なので、家に人を迎える場合に、その人がどのような信仰の持ち主なのかをよく注意して見極めなければなりません。私たちが、不注意にそのような人々を受け入れるとやっかいな結果が生じます。どのような結果であるかと言うと、一つは、偽教師たちの教えは受け入れてもかなわないような間違った印象を与えてしまうことです。また、偽教師を迎え入れることによって、自分の信仰が悪影響を受けてしまうことです。さらには、偽教師を迎えることが、彼らへの経済的な援助になって、彼らの働きが広がる可能性があることです。このような悪い結果を思うと、私たちは、誰かを迎え入れる時に、その人がイエス・キリストについて正しい教えを持っているかどうか、しっかりと見分ける必要があり、偽教師や異端の人々とは決して関わらないことが大切です。この点において、ヨハネは断固として異端の教えを拒否していました。伝説によると、使徒ヨハネがエペソの公衆浴場に行った時に、そのお風呂場にたまたまケリントスという異端の教えのリーダーがいるのを見ました。ヨハネは、すぐに風呂場から逃げ去りました。それは、一緒に風呂場にいると、ケリン

トスに対する神の裁きがあって、風呂場が破壊されでもしたら、自分も巻き込まれて死んでしまうと思ったからでした。私たちも、偽教師や異端に対しては、ヨハネのような断固とした態度を取ることが大切です。ヨハネの第二の手紙は短い手紙です。一人の夫人とその家族に書き送られた愛にあふれた手紙です。しかし、その手紙の中心メッセージは、異端や偽教師に対して、注意しなさいという警告の手紙であったことを忘れてはなりません。私たちは、真理を知り、真理のうちを歩み、真理のうちにとどまり続けるクリスチャンでなければなりません。

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