2023年6月18日 『柔和な者は幸いです』(マタイの福音書5章5節) | 説教      

2023年6月18日 『柔和な者は幸いです』(マタイの福音書5章5節)

 私たちの社会では、強い者、お金がある者、知恵のある者、権力を持っている者が勝利すると考えます。ビジネスにおいても政治においても、強い者が勝つのが私たちの社会です。それは、今も、主イエスの時代も同じです。人間の歴史が2000年過ぎても、世の中の根本的なあり様はぜんぜん変わっていません。今、マタイの福音書5章から7章に記された「主イエスの山上の説教」を学んでいますが、この説教を聞いていたのは、ユダヤ人たちでした。ユダヤ人は、自分たちは神に選ばれた特別な民だという自負があり、外国人を見下していました。ところが、主イエスの時代、彼らは、ローマ帝国の支配を受けていました。ユダヤ人にとって、外国人に支配されることほど悔しいことはありませんでした。旧約聖書は、1000年以上にもわたる長い期間の間、神の霊感を受けた多くの人が書いた39の書物をまとめたものなのですが、不思議なことに、そこに一つのはっきりとしたテーマがありました。それは、将来、神の決めた時に救い主が来るというものでした。ユダヤ人として生まれた者はすべてユダヤ教徒ですので、全てのユダヤ人は、旧約聖書が約束しているメシアの到来を待ち望んでいました。救い主を意味するヘブル語は「メシア」と言うので、救い主を待ち望むユダヤ人の考えを「メシア思想」と呼びます。ユダヤ人は、誰もが、メシアの到来を待ち望んでいました。それは、メシアが現れることによって、自分たちが外国人の支配から逃れられると期待していたからです。彼らが期待していたことは、約束のメシアが現れて、神の奇跡的な力でローマ帝国を倒して自分たちの国を建て上げることでした。したがって大部分のユダヤ人たちは、約束の救い主は力と権威と栄光に満ちた救い主メシアを待ち望んでいました。旧約聖書のイザヤ書の40章から60章には苦難のしもべとしてのメシアの姿が預言されているのですが、彼らは、自分の考えに合わない聖書の言葉を無視していました。したがって、今日のテーマである「柔和な者は幸いである」という考えは、当時のユダヤ人にはまったく理解できないものだったのです。

  • 柔和な人とはどんな人なのか

 日本語で「柔和」という言葉にはわりと良いイメージがあると思いますが、英語の「meek」という言葉はあまり良いイメージがありません。何となく気力のない人、自分の信念を持っていない人、意志の弱い人のようなイメージがあります。主イエスが使われたギリシャ語の言葉は「プラウス」という言葉です。ギリシャ人の一つの考え方の中に、すべての美徳は両極端の中庸にあるというものがあります。例えば、一つの極端として、過剰に怒りっぽい性格があり、もう一方の極端には、あまりにもおとなしすぎるという性質があるとして、その中間のあり方として柔和があると考えます。ある人は、柔和とは、怒るべき時に怒り、怒るべきでない時に怒らない姿勢と解釈しています。主イエスは、2回激しい怒りを表された時がありました。それは「宮きよめ」という出来事です。主イエスが弟子たちと共にエルサレムの神殿に行った時のことです。神殿は神に祈りをささげ、神を礼拝する場所ですが、当時は、人々は、自分の罪を赦してもらうために、動物のいけにえを携えて神殿に行き、その動物をささげて祭司に罪の赦しを祈ってもらっていました。いけにえの動物はまったく傷のないものでなければならないので、ささげる前に検査がありましたが、その検査がとても厳しく、自分の家から持ってきた動物が検査に通ることは、まずありませんでした。そこで、たいてい、人は神殿で売られている検査済みの動物を買って、それを捧げものにしていました。ところが、このいけにえの動物が非常に高い値段で売られていたので、神殿がこの商売で大きな利益をあげていました。一方、人々は神殿で献金をささげるのですが、捧げることができたのはイスラエルの硬貨だけでした。ところが神殿には外国に住むユダヤ人も大勢来ていたので、彼らは自分のお金をイスラエルの通貨に両替する必要がありました。そこで、神殿の外には、多くの両替商が店を開いていました。そして、彼らは非常に高い手数料を取り、非常に悪いレートで両替をして儲けていました。このように、神殿は礼拝と祈りの場所であるにもかかわらず、実際には、そこで、金儲けのための不誠実なビジネスが行われていので、主イエスは、自分の父の家が辱められたと激しく怒って、両売人たちの屋台や椅子をなぎ倒されました。一方、主イエスは、十字架にかけられる前に、ユダヤ教の指導者やローマの兵士から、辱められ暴力を振るわれ、罵られましたが、主は一度も口を開いて反論することも、怒りの声を上げることもありませんでした。主イエスは、自分の身を守るために怒ったり言い返すことは、3年間の地上の生涯において一度もありませんでした。

 また、プラウスという言葉は、主人に従うように訓練された動物や、ゆるやかな薬や、おだやかな風を表す時にも用いられる言葉です。訓練されない動物や、効き目の強すぎる薬や、荒れ狂う風は、すべて私たちに大きな被害を与えます。しかし荒々しい馬も主人の手綱どおりに動くように訓練されると、とても役に立つ動物になります。薬も、ちょうど良い配合で造ると、体によい働きをします。風も、ほどよい強さにコントロールされた風はとても心地よい風になります。これらは、どれも、コントロールされないと、手に負えないものですが、うまくコントロールすると役に立つもの、心地よいものになります。従って、よく英語では、柔和とは弱さではなく、コントロールされた力であると説明されます。したがって、「柔和な人」とは、自分の力のままに行動するのではなく、神様に支配されて行動する人が「柔和な人」ということができます。

 もう一つのこととして、3節の「心の貧しい」という言葉と、「柔和」という言葉は、ギリシャ語では、別の言葉ですが、主イエスが語られたヘブル語では、2つは同じ言葉から来ています。「貧しい」と「柔和」という言葉の共通点は「謙遜である」ということです。傲慢な人は、決して、柔和な人になることはできません。神様に対する愛も生まれません。自分は神様の前に頼りとするものを何も持っていないので、神様により頼むしかないと考える時に、神様の存在のありがたさが分かり、神様に対する愛が生まれます。それが、神様への信仰心です。聖書は、人間が、本当の意味で人間となるのは、あるいは、本来あるべき姿で人間となるのは、自分が神に造られた者であり、神が自分を造られた創造主であり、自分は神から離れては何も正しいことはできないと知る時だと教えています。神様の前に、自分の罪深さ、弱さ、無知であることを認める人こそ柔和な人になれるのです。しかも、この「柔和」という性質は、私たちの修行や努力によって獲得できるものではありません。それは、主イエス・キリストと共に生きる時に、主イエスから与えられるものです。箴言の16章32節にこんな言葉があります。「怒りを遅くする者は勇士にまさり、自分の霊を治める者は町を攻め取る者にまさる。」自分の霊を治める者、すなわち柔和な者は町を攻め取る者にまさると言われています。アレキサンダー大王の一生を台無しにしたのは、彼に柔和という性質が欠けていたからだと言われています。彼は常に酒に酔って遊び戯れていることが多く、ある時は、酔った勢いで、親友に激怒して殺してしまったと言われています。彼は、ある祝宴中に倒れて10日間高熱に苦しみながら32歳でいのちを落としました。誰でも、自分をコントロールできなければ人を支配することはできません。自分自身を神の支配に完全に委ねる人こそ、柔和という性質を与えられて、本当に勝利する者になるのです。

  • 柔和な者に与えられる幸い

 主イエスは、柔和な者が幸いである理由として、「その人たちは地を受け継ぐからです。」と言われました。この言葉は、詩篇37篇1節の言葉からの引用です。「しかし、柔和な人は、地を受け継ぎ、豊かな繁栄を自らの喜びとする。」この詩篇はダビデが書いたものですが、テーマは、「悪人が栄えているのを見ても腹を立てるな、ねたむな。悪を行う者は、今は栄えているように見えても、必ず、神様が正しく裁かれるからだ。」というものでした。2000年前のユダヤ人も、今日の私たちも、世の中を見て心惑わされることがあります。それは善を行っている人々が苦しんでいるのに、悪を行っている人々が栄えていることが多いからです。しかし、神様は、このダビデが書いた詩篇を通して、私たちに、そのような状況に惑わされてはいけないと語り掛けておられます。そして、10節で、神様は、次のように言われました。「もうしばらくで、悪を行う者はいなくなる。その居所を調べても、そこにはいない。」ここで、神様は、悪を行っている者には必ず裁きが与えられることを宣言しておられます。この世の中には、不条理なことがたくさんあります。しかし、聖書は、この世でどのように成功したとしても、どのように栄えたとしても、神を信じない者は、死ぬ時に永遠の滅びに落とされることをはっきりと教えています。私たちの回りに、多くの敵がいても、また、敵からの攻撃を受けることがあるとしても、恐れたり、妬んだり、腹を立ててはならないと教えています。それは、恐れることも妬むことも、怒ることも、すべてが、自分自身を悪の道に身引き入れるからです。一方で、神様は詩篇37篇を通して、はっきりと約束しておられます。「柔和な人は地を受け継ぎます。」私たちクリスチャンは、この言葉に基づいてどのように生きればよいのでしょうか。私たちは、神様の約束を信じて、詩篇37篇3-5節に記された生き方を実践することです。「主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を行え。主を自らの喜びとせよ。主は、あなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」私たちがするべきことは神様を信頼して、神様の御心にかなった生き方をすることです。他の人を見て生きるのではなく、神様を見上げて生きることです。そして、私たちは、知っています。神の裁きも神の祝福も、神様が決めた時に、神様が決めた方法で実現することです。私たちが、主イエス・キリストを救い主と信じて神の子どもになっている限り、私たちは、永遠に神と共に生きる者であることを知っています。私たちは永遠に神とともに支配する者として生きて行くことが約束されています。しかし、それだけでなく、地上の生涯を生きる時も、将来の約束を知っているなら、私たちは希望と喜びを持って人生のゴールに向かって進むことができます。そして、地上の生活の中で、私たちはいつでも神様のあらゆる祝福を受けることができます。この世のものはどのようなものも、必ず消え去る時、手放す時が来ます。しかし、私たちは、永遠に神様と共に、この世を支配する者として生きることが決まっています。それが、地を受け継ぐということです。

  • 柔和な者になるには

 それでは、私たちは、どのようにして柔和な者になることができるのでしょうか。

 第一に、柔和という性質は、ガラテヤ人への手紙に記されている9つの御霊の実の一つにあげられています。したがって、柔和という性質は、自分が修行や訓練をすることで得られるものではなく、聖霊の働きによって神様から恵みとして与えられるものであることが分かります。私たちは、神様の前に謙遜になって、神様に柔和な性質を与えてくださいと祈り続けることが必要です。そして、私たちは、この祈りは神様のみ心にかなった祈りであることは明白なので、自信を持って祈り続けることが大切です。私たちは、柔和な性質0からいっぺんに100になることはできません。木の実が成長するように、その性質は小さいものからはじまり、少しずつ大きくなって行くのです。

 第二に、私たちは、主イエスとともに生きるということを実践することが必要です。主イエスご自身が言われました。マタイの福音書11章29節です。「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎを得ます。」くびきは2頭の動物を首のところでつなぐ道具です。イエスの時代、よく、ベテランの牛と若い牛がくびきで繋がれたそうです。ベテランの牛が若い牛に正しい動き方を教えるためです。若い牛は、ベテランの牛と行動を共にすることで、仕事をする時の歩くペースや正しい方向に進むことを身に着けるのだそうです。私たちは、つねにイエスの言葉に従って生きるときに、私たちは柔和の主ご自身の性質を身に着けて行くことができるのです。

 競馬の騎手やトレーナーの話によると、レースに勝つ馬は、トラックを走る時に最も柔和な馬だそうです。柔和な馬とは、騎手のムチにもっとも早くもっとも忠実に反応する馬のことです。自分の意志を持っていて、騎手のムチへの反応が遅かったり不十分だったりすると、その馬は、最初は他の馬よりも早く走り出たとしても、決して先頭でゴールすることはないそうです。私たちも、神様の前に謙遜になって、いつも主イエスの教えに従って生きる時に、私たちにとって最高の人生を送ることができるのではないでしょうか。

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