2023年6月25日 『義に飢え渇いている者は幸いです』(マタイ5章6節) | 説教      

2023年6月25日 『義に飢え渇いている者は幸いです』(マタイ5章6節)

 今、マタイの福音書5章に記された主イエスの山上の説教について学んでいます。その説教の最初の部分で、主イエスは、人間にとって幸いな生き方を8つ上げておられます。主イエスが言われた「幸い」とは、人間が心の中で感じる嬉しい気持ちのことではなく、その人の生き方が、神様の目には幸いな生き方だと神様が認めてくださることです。従って、主イエスが教える幸いは、普通の人が考える幸福とはずいぶん違っています。今日の箇所は「義に飢え渇いている者が幸いである」という教えです。今の、私たちは、毎日の生活の中で、何も食べるものがない、何も飲むものがない、といった深刻な飢えや渇きを経験することはほとんどありません。主イエスの時代のイスラエルは、ローマ帝国に支配されていた時代で、重い税金を支払わなければならず、日々の生活は非常に厳しいものでした。普通の労働者は、肉が食べられるのは1週間に一度だけだったそうです。また、それ以上に深刻だったのがのどの渇きです。今の日本では、どこでも水道の栓をひねれば、飲み水がいくらでも出て来ます。しかし、当時のイスラエルの状況は違っていました。毎日、井戸から水を汲んでこなければならなかったので、水は本当に貴重なものでした。しかも、イスラエルでは午後は非常に暑くなり、少し労働しただけでも、汗だくになり、のどはからからになります。また、イスラエルでは、時折、東のアラビア砂漠から熱風が吹くことがあり、砂漠から飛んでくる砂が鼻やのどにつまって息ができなくなることもありました。当時のイスラエルの人々は、つねにのどの渇きに悩まされていました。

 しかし、一方、飢えやのどの渇きを感じることは、その人の体が健康であることの証拠です。病気の人や精神的に落ち込んでいる人は食欲がありません。また、年を取ってくると、のどの渇きを感じる神経が鈍くなって、のどの渇きをあまり感じません。従って、飢えやのどの渇きを感じることは人間の体にとっては正常なことです。それらの飢えや渇きは食べ物を食べ水を飲めば解消します。しかし、人間にはそれ以外の飢え渇きがあります。そして、いつも、何かが足りないと感じることが多いです。食べ物が満ち足りている今日、人々は、別のものに飢え渇きを感じています。今日、多くの人は、お金、権力、有名になること、人々から称賛されること、そのようなものに強い飢え渇きを持っています。しかし、これらの飢え渇きは人間の欲望から来ているものであり、この飢え渇きが満たされることは決してありません。ある程度のものを持ったとしても、さらに多くのものが欲しくなるのです。6節で、主イエスは言われました。「義に飢え渇く人は幸いです。」今日は、この言葉の意味について考えたいと思います。

  • 義に飢え渇く人

 私たちは、毎日の生活の中でお腹がすいたり、のどが渇くという経験をしています。しかし、それは、ほとんどの場合、食事と食事の間に少しお腹がすいた状態であって、少し探せば、お菓子やスナックがあるので、それを食べれば満足します。また、のどが渇いたら、冷蔵庫を開ければ、冷たい飲み物が入っているので、すぐにのどの渇きもなくなります。私たちにとって、飢え渇きとは、そのようなものですが、ここで主イエスが言われたのは、そのようなちょっとお腹がすいている状態と、すこしのどが渇いている状態を意味しているのではありません。主イエスは、「義に対して飢えている人、義に対して渇いている人」という言い方をしているのですが、ここで一つ注意することがあります。ギリシャ語は、本当にきめ細かな言葉で、きめ細かい表現ができます。ここで、「義に対して飢えている」という部分ですが、普通は、何かに対して飢えていると言う時に、その後に置かれているものの一部を食べたいという意味を表します。例えば、英語を使って説明すると、「パンが食べたい」という時に、頭の中で考えているのは、食パンの塊りの中の漠然とした一部を食べたいと言うことであって、食パンの塊りを全部食べたいとは考えません。それで、英語では、I want bread.と表現します。ここでパンを意味する言葉breadは、何となく漠然と、少しのパンという意味を持っています。ところが、これをI want the breadと「the」という言葉をつけると、目の前のパンの塊り全部食べたいと言う意味になります。ですから、普通は、パンが食べたい時は、breadにはa やtheはつけないで、I want breadと言わなければなりません。しかし、ここで、主イエスは、「義に飢えている、義に渇いている」と言われましたが、それは、少しの義に飢えているとか一部分の義に渇きを感じているという意味ではありません。パン全部を食べてしまいたいほどの飢えであり、水がめに入っている水を全部飲んでしまいたいと感じるほどの強烈な渇きを意味しているのです。ですから、ある人は、この部分を次のように訳しています。「義全体に対して、義全部に対して、完全な義に対して飢えている人、渇いている人は幸いです。」という意味になります。私たちは礼拝の中で、「谷川の流れを慕う鹿のように」という歌を賛美します。賛美の歌詞を読むと、「谷川の流れを慕う鹿」とは、森の中を流れるきれいな川の川辺で鹿が幸せそうに水を飲んでいる姿をイメージするかもしれません。しかし、この歌の歌詞は詩篇42篇1節からの引用です。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」詩篇の言葉では「慕いあえぐように」と訳されています。ここでの詩篇の記者がイメージしているのは、何かで大きなけがをしたために、熱が出てのどが渇いて死にそうな鹿が必死になって水を捜し求めて谷間をさまよっている姿です。この鹿は、水を見つけられなかったら死んでしまいます。その時の、鹿の渇きはどんな渇きだったでしょうか。本当に飢えている人、本当に渇いている人は、一つのことしか考えていません。食べ物がほしい。水が飲みたい。それだけです。自分の回りにいろいろ楽しそうなものがあっても、まったく気になりません。主イエスの「義に飢え渇いている人」という言葉は、「あなたは、神の義という霊的なものをどれほど真剣に求めていますか。」という質問を私たちに問いかけていると思います。

 そういう意味で、この「義に飢え渇いている人」という幸いになるための条件は、非常に厳しいものだと言うことができます。人は普通、良い事、正しい事を考え、行おうとします。それは、私たちがもともと神に似た者として造られているからです。しかし、人間に自己中心という罪が入ってしまっているため、私たちが求める良いものとは、非常に漠然としたものであり、また、ちょっとしたことで、その求める思いは消えてしまいます。どんな犠牲を払ってでも真実に善であろうとする人はごくわずかです。ただし、このイエスの言葉には厳しい面もありますが、慰めとなる部分もあります。というのは、主イエスは「義人である人、義を獲得した人が幸いである」とは言われなかったからです。もし、神様の基準による義を獲得した人だけが、神様の祝福を受けるのであれば、誰一人この祝福を受けることはできません。しかし、主イエスは、この祝福は、失敗や欠点があっても、なお、神様が与えてくださる義を熱心に求め続ける心を持ち続ける人に与えられると約束しておられます。主イエスが求める義に到達することができない人でも、人生の最後の瞬間まで、義に対する飢え渇きを持っている人は、神様の祝福が与えられます。

  • 義に飢え渇くとは?

 ここで、主イエスが言われた「義」とは何を意味するのでしょうか。聞いている人によって、この言葉には2つの意味があります。主イエスを信じていない人にとっては、主イエスの十字架による救いのことであり、主イエスを信じている者にとっては、信じた後の信仰の成長、霊的にきよめられることを意味します。主イエスが言われた8つの幸いは、一つがバラバラなのではなく、繋がっています。特に、最初の4つは一つに繋がっています。心の貧しい人とは、自分の中に罪を認める人、神が求める正しさの基準に達していないことを認める人のことです。そして、悲しむ人とは、自分の罪を悲しんで、そこから立ち上がらなければならないと決断する人です。そして、柔和な人とは、神様の前にへりくだって、神様に自分自身をコントロールしてもらおうとする人です。そして、義に飢え渇いている人とは、自分の中にはない義を熱心に求めて、主イエス・キリストの義を受け取ろうとする人です。これこそ、人が罪が許され神の子どもとされて、罪の裁きから救われるための「救い」のプロセスです。

 旧約聖書では、「義」という言葉と「救い」という言葉が同じ意味を持つ言葉として使われている箇所がいくつかあります。例えば、イザヤ書の51章5節に「わたしの義は近く、わたしの救いは現れた。」と書かれています。人が、自分自身で神が求める義を達成することはできないことを認めて、神の義が与えられるために、主イエスの十字架による罪の赦しと救いを求め始める時、神様の祝福が注がれます。主イエスの時代のユダヤ人にとって、イエスの十字架による救いを受けることが難しかったのは、彼らは自分が神の前に正しい人間であると思い込んでいたからです。彼らは、自分たちは神様に選ばれた特別な民であることを誇りにしていました。そして、多くのユダヤ人は、自分は旧約聖書の教えを完全に守っており、よい行いに励んでいると思い込んでいました。しかし、主イエスは、彼らに向かって言われました。天国に行く唯一の方法は、自分の義を求めることではなく、神の義に対する飢え渇きを持つことであると。人間の自分の力で獲得したと思っている義は、神の義とはほど遠いものなのです。

 一方、クリスチャンにとっては、「義」は、キリストを信じた時に神様から与えられた義を、放ったらかしにしておくのではなく、日々、霊的な成長を求め続けることを意味します。この地上で生きている間に、神の義を自分で獲得できる人は一人もいません。その完全な義は、私たちがこの世を去って天国に移った時に、神様から与えられます。天国に行った時に、私たちは、義全体、完全な義を獲得することができるのですが、それまでは、私たちは、絶えず、その完全な義を唯一の目標として求め続けることが幸いな生き方であることを主イエスははっきりと語られました。

(3)義に飢え渇く者に与えらえる祝福

 義に飢え渇く者に与えられる祝福は「満ち足りる」という祝福です。聖書は、この世にあるものは、決して私たちを完全に満たすことはできないと教えています。それは世の中を見れば明らかなことです。人は、この世のものを持てば持つほど、もっと欲しくなります。満足することはありません。しかし、神様は、神様を愛し、神様からの祝福を求める者を豊かに満たしてくださいます。神様はイザヤ書55章1,2節で、私たちに向かって次のように叫んでおられます。「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ブドウ酒と乳を。なぜ、あなたがたは食料にもならないもののために金を払い、腹を満たさない者のために労するのか。わたしによく聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは、脂肪で元気づく。」神様は、飢え渇いている人に向かって叫ばれました。「私の所に来なさい。」しかも、「金のない者も」と言われました。多くの人は、神様の祝福を得るために、何か良いことをしなければと考えて、自分の力でそれを獲得しようとしますが、神様の祝福は人間の力によって得られるものではありません。6節の後半は、日本語では「満ち足りる」と書かれていますが、ギリシャ語では、「満たされる」と受け身のかたちで書かれています。つまり、その人は、神様によって満たされるという意味です。この満ち足りているという状況は自分で手に入れられるものではなく神様が与えてくださるものです。だから金がなくてもよいのです。神様が一方的に与えてくださるからです。金を払わないで買うとは、自分が持っているもので、神様から祝福を得ようとすることをやめて、ただ、神様からそのまま受け取りなさいという意味です。その時、神様は求める者を豊かに満たしてくださいます。水を求める者に、神様は豊かな水を与えてくださいます。水は、人のいのちを保つためにもっとも必要なものです。神様はその水を豊かに与えてくださいます。しかし、それだけではありません。神様は、ブドウ酒をも与えると約束しておられます。ブドウ酒とは、天国で私たちは神様とともに飲むようになると主イエスは言われましたが、ブドウ酒は。この世のいろいろな悩みや苦しみを取り去って、天国の喜びで満たすものという意味を持っています。さらに、神様は、乳を与えると約束されました。赤ちゃんにとって、乳は成長するために絶対に必要なものです。乳は、弱い者に力を与えて強くするもののシンボルです。神様は、このように豊かに私たちを満たしてくださいます。だからこそ、神様が2節で言われたように、私たちは、食べ物にもならないような価値のないものをこの世で求めることはまったく愚かなことなのです。ソロモン王は、彼の時代において最も裕福な人間であり、もっとも知識にすぐれた王様でした。しかし、彼は言いました。「空の空。すべては空。」ソロモン王は、この世が与えるものをすべて持っていましたが、その結果、彼は「すべては空」だと言いました。神様は、私たちに、「よく聞き従い、よいものを食べよ」と言っておられます。私たちが、神様の言葉に従う時、神様はあらゆる豊かさをもって私たちを満たしてくださいます。

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