2023年7月2日 『憐み深い者は幸いです』(マタイ福音書5章7節) | 説教      

2023年7月2日 『憐み深い者は幸いです』(マタイ福音書5章7節)

 今、主イエスが山の上で行われた説教の中で、主が最初に語られらた8つの幸いを学んでいます。主は幸いな生き方8つ上げられましたが、前半の4つの後半の4つには関連があります。最初の4つの幸いは、その人の心の姿勢に関するものであり、後半の4つは、その心の姿勢が行動に現れた生き方に関するものです。最初の幸いである「心の貧しい人」は、自分の心の中に神の前に誇れるものが何もないことを認める人であり、その人は、自分には神様の憐みが必要であることに気づいた人です。その人は、神様からの憐みを受けたことによって、今度は自分が他の人に憐みを示す人にならなければと考えるように導かれます。神様は、主イエスを信じた人々が、このように導かれて他の人に憐みを示す人になることを望んでおられます。聖書は、人間の歴史の始まりから、神様は常に私たち人間に憐みを示して来られましたし、人間の歴史の終わりに至るまで、神様の憐みが注がれ続けることを約束しています。主イエスが、神として栄光に満ちておられる方であったのに、私たちの罪が赦されるために、人となってこの世に来られて、私たちの代わりに十字架のはりつけになられたことも、神様の憐み以外の何ものでもありません。主イエスは、主を信じる私たちが、イエスの模範にならうことを願っておられます。

(1)憐みとは何を意味するのか

新約聖書の言葉ギリシャ語で、「憐み」を意味する言葉はエレエーモーンと言います。ただ、主イエスが群衆に向かって話された言葉は、ギリシャ語ではなくへブルの言葉です。新約聖書の中に記されている主イエスや弟子たちや他のユダヤ人たちの言葉は、すべてへブル語からギリシャ語に翻訳されています。従って、実際に、主イエスが「憐み」を意味するために使われたヘブル語の言葉は「ヘセド」という言葉です。この「へセド」という言葉は、ただ単に、困っている人を見て「気の毒に思う」という意味ではありません。「へセド」とは神様の性質を表す言葉です。主イエスは、マタイの福音書9章で、自分を正しい人間と思い込み他の人々を見下していたパリサイ人たちに向かってこう言われました。「わたしが喜びとするのは真実の愛、いけにえではない」とはどういう意味か、言って学びなさい」「わたしが喜びとするのは真実の愛、いけにえではない」という言葉は旧約聖書のホセア書からの引用なのですが、新改訳では「真実の愛」と訳されている言葉が「へセド」です。この言葉は、他の聖書では「あわれみ」と訳されています。へセドとは、神様の広くて深い愛の性質を示す言葉なので、非常に翻訳するのが難しい言葉です。これは、神様が人間に対して示される憐みであって、人間が他の人に示す憐みではありません。旧約聖書で使われている「へセド」には、繰り返して神様に対して背を向けているイスラエルの民に対して、神様が一方的に与えられる神様の愛を意味しています。そこで、この新改訳では「真実の愛」と訳されているのです。

 「同情する」という言葉がありますが、英語では、「シンパシー」と言います。この言葉は、実は2つのギリシャ語を組み合わせて造られた言葉です。それは、「スン」という言葉と「パスカイン」という言葉です。ギリシャ語で「スン」は「一緒に」という意味を持ち、「パスカイン」という言葉は「経験する」とか「苦しむ」という意味を持っています。従って、このシンパシーという英語の言葉は、他の人が苦しんでいる時に、相手が経験している苦しみを自分の苦しみとして経験すること、その人と一緒に苦しむことを意味しています。私たちは、なかなか、他の人の苦しみを自分の苦しみとして経験することはできません。私たちが自然に感じる憐みは、あくまでも、その人からは少し距離をおいて、遠くからその人のことを見て「気の毒だな」と思うことであって、なかなか、その人のところに行って助けるところまではしません。

 「へセド」が示す憐み、「真実の愛」は、私たちが誰かに対して感じる感情を意味するのではなく、その感情が行動として示された時に、憐みが生まれるのです。主イエスは、そのことを「良きサマリヤ人」のたとえ話ではっきりと教えられました。このたとえ話は、自分が正しい行いをしていると思い込んでいた旧約聖書の専門家に向かって話されたたとえ話です。ある一人のユダヤ人がエルサレム近くを歩いている時に、強盗に襲われて、その人はすべてのものを盗まれ気を失って道に倒れてしまいました。そこを3人の人が通り過ぎました。ユダヤ教の聖職者である祭司と、祭司を助ける仕事をしていたレビ人と、ユダヤ人とは非常に仲が悪かったサマリア人でした。祭司とレビ人は、道に倒れている人を見たときに、この強盗に襲われた人と関りを持つと自分の仕事ができなくなると思ったのか、その人を助けないで、道の反対側を通り過ぎて行きました。しかし、サマリヤ人は倒れている人を見てかわいそうに思って、傷を治してあげて、自分の家畜にその人を載せて近くの宿屋まで運んで宿屋の主人にお金を渡して、彼を介抱するように頼みました。このサマリヤ人は、その人と関わることによって、自分の時間を犠牲にし、また、その人のためにお金も捧げました。そこで、主イエスが聖書の専門家に、「この3人の中で強盗に襲われた人の隣人になったのは誰ですか」と尋ねると、その専門家が「その人に憐み深い行いをした人です。」と答えたので、主は彼に、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。このように憐みは、行動として示されてはじめて憐みになるのです。

 真実の意味で「へセド」が意味する憐みを行いによって示されたのは、主イエスだけです。主イエスは、地上の人間が自分の罪によって苦しんでいるのを見た時、また、人間が自分勝手な性質のために様々な問題に直面しているのを見た時に、天国から、地上の人間に向かって「ああしなさい、こうしなさい」と叫ぶのではなく、神ご自身が、神の栄光を捨てて、私たちと同じ人間になってくださって、私たちと同じ苦しみを経験してくださいました。そして、私たちの罪が赦されるために、私たちの身代わりになって、十字架で死んでくださいました。私たちが、自分のたちの罪が許されて、永遠の裁き、永遠の滅びから救い出されたのは、主イエスが私たちに、この憐みを実際に行動してくださったからです。主イエスは、神であられたのに、人間の外側に立ったままではなく、文字どおり、人となって私たちの中に入ってこられました。そして、十字架の道を真っすぐに進んでくださいました。私たちは、言葉で言い表せないほどの憐みを主イエスから受けているのです。私  たちは、そのことを、もっと真剣に受け止め、主イエスの憐みの深さ、広さ、強さに対してもっと感謝の気持ちを持たなければなりません。私たちは、主イエスが憐みを行動に表してくださった結果、永遠の滅びから免れているのです。

  • 憐みをどのように実践するのか

 真実の憐みは、神様のご性質であり、罪の性質を持って生まれた人間に自然に備わっている性質ではありません。真の憐みは、神様から与えられなければなりません。私たちが、自分の罪を悔い改めて、主イエスを救い主と信じる時、私たちは、神様の憐みを知ります。本来は滅ぶべき人間を救い出すために、神であるお方がわざわざ私たちとまったく同じ小さな人間になってこの世に来られ、しかも、私たちの代わりに、恥と屈辱と苦しみの象徴である十字架の刑罰を受けてくださいました。十字架に示された主イエスの真実の愛、私たちへの真実の憐みを心から経験した時に初めて、私たちは真の憐みを知ることになります。ですから、憐みを実践できるのは、8つの幸いの最初4つの幸いを実践できた人だけができるのです。心の貧しい者、自分の心の中に神様の前に誇れるものがなにもないことを認める人、そして、悲しむ者。自分の罪を神様の前に悲しみ、自分の生き方を変える決断をする人。柔和な者。つまり、自分自身を神様によってコントロールしてもらおうと決断する人、そして、義に飢え渇いている人、神様の義を自分のものとしたいと願い求める人。まとめて言うと、自分の罪を認め、悔い改めて、キリストを救い主と信じる決心をする人だけが、この憐みを自分のものにすることができるのです。

 神様の性質には絶対的な性質と対人間に関する性質があります。絶対的なものとしては、神は全能の方であり、真実の方であり、愛の方であり、聖なる方です。これらの絶対的性質は、この世界や人間が造られる前から神様が持っておられた性質です。しかし、神に造られた人間が罪を犯して神から離れてしまった時に、人間に対して表された神様の性質があります。その性質は、恵みであり憐みです。人間が罪を犯さなかったなら、これらの性質は人間との関係においては必要のないものでした。人間が罪を犯した時、神の絶対的性質である愛が、堕落した人間に対して、恵みや憐みという性質で表されました。罪に陥った人間は、神様の恵みや憐みを経験することによって、恵みや憐みが何であるかを知り、それを真似して実践することが可能になります。詩篇の103篇11節~14節を読みましょう。次のように書かれています。「天が地上はるかに高いように、御恵みは主を恐れる者の上に大きい。」(10節)「父がその子を憐れむように、主はご自分を恐れる者をあわれまれる。」(13節)私たちは、このように神様から大きな憐みをいただいています。主イエスは「憐み深い者は幸いです。」と言われましたが、主イエスは、私たちのうちには本当の憐みはないことを知っておられます。それでもそのように言われたのは、私たちに、神様から受けた憐みをよく味わって、それを人々に分かち合いなさいという事だと思います。

  • 憐み深い者の幸い

 主イエスは憐み深い者が、なぜ幸いなのかと言うと、「その人たちは憐みを受けるからです。」と言われました。ここでも、「その人たちは」部分は強調されているので、「その人たちだけが憐みを受けるからです。」と訳すほうが正確だと思います。ある人は、この部分を誤解して、憐み深い行いをすることによって、人は罪から救われると考えましたが、それはまったく真実ではありません。私たちが、自分の罪の刑罰が赦されるのは、100%主イエスの十字架のおかげです。どんなに素晴らしい行いであっても、私たちの行いが私たちを罪の裁きから救うことはありません。救いは、神様から一方的に与えられるものであって、私たちが獲得するものではありません。主イエスが語る幸いについての教えとは、神からの憐みを受けて、本当に神様の子どもとなった者は、神様から受けた憐みを思い出してそれを他の人にも実践しようとし、そして、その結果、その人はまた憐みを受け取るのだということです。したがって、私たちが他の人に憐みを実践することは、私たちが確かに神様の憐みを経験したことの証拠なのです。

 このように考えると、憐みに関しては、神様の憐みのサイクルがあることが分かります。まず、神様は、主イエスキリストを通して、私たちに憐みを示してくださいました。そして、キリストによって罪赦され神の子どもとなった私たちは、神様の教えに従って他の人に憐みを示そうとします。すると、神様は、私たちにさらに大きな憐みを示してくださいます。私たちの必要を満たし、私たちの心をいつも癒し、満たしてくださいます。神様の憐みを示すたとえ話を主イエスは語っておられます。ある王様に対して6000億円もの借金がある家来がいました。彼は家族も持ち物も全部売って返すと言いましたが、それで返せるはずがありません。かわいそうに思った王様はその家来の借金をずべて帳消しにしました。ところが、その家来は仲間の一人に100万円を貸していました。その仲間は「もう少し待ってください。」と王様の家来に頼みましたが、彼は招致せず、その人を牢に放り込んでしまいました。そのことを聞いた王様は、その家来を呼びつけて叱りました。「私がお前の借金を全部帳消しにしてやったのだ。お前も自分の仲間をあわれでやるべきだったのではないか。」こうして王様は怒って、この家来を牢屋に放り込んだというたとえ話です。このたとえ話で、主イエスは神様から憐みを受けた者は、神様が私たちに示された憐みを他の人に表さなければなりません。もし、この家来のように、私たちが憐みを表すことをしなければ、神様は私たちに憐みを示されなくなります。私たちは、神様から受けられるはずの祝福を、自分の行いによって受け取れなくしてしまうのです。家来の借金は、わたしたちの罪を表しています。私たちの罪が赦されたのは、一生かかっても返済できない借金を帳消しにしてもらったのと同じことです。だからこそ、神様は、罪赦された私たちに対して、自分が受けた憐みを、他の人に対して同じようにすることを願っておられるのです。それを実践することは、決して簡単なことではありません。100%赦すことに成功しなくても良いのです。赦そうとする心を持つことが大切です。その時、神様が私たちに新しい憐みを与えてくださり、他の人を赦すことのできる心を与えてくださいます。私たちは赦せば赦すほど、神様から憐みと恵みを豊かにいただくことができるのです。

 ひとつの話をして終わります。かつてオランダにコリー・テン・ブームという女性がいました。彼女の家族が第二次大戦中にユダヤ人家族をかくまったことがばれて、彼女の家族は強制収容所に送られました。父親は殺され、体が弱かった姉も看守のひどい扱いによって死んでしまいました。彼女は生き延びで、奇跡的に収容所から生きて出ることができました。クリスチャンで遭った彼女は、弱り果てていたドイツの教会を助けるための働きを始め、各地で赦しのメッセージを語っていました。ある集会が終わった時、一人の男性が彼女に近づいて来ました。大きな笑顔を浮かべて近づいて来ました。コリーにはそれが誰かすぐ分かりました。強制収容所のシャワー室に立っていた看守でした。突然、彼女の頭に当時のいろいろな出来事が走馬灯のように思い浮かびました。彼は、コリーに手を差し出して言いました。「先生。今日のメッセージ、本当にありがとうございました。確かに、私の罪も主イエスの十字架の血潮で赦されたんですね。そうなんですね。」彼の手はコリーに握手を求めていましたが、彼女はどうしても自分の手を差し出すことができませんでした。むしろ、怒りや復讐したい思いが浮かんできました。彼女は、ナチスの連中が自分の家族にしたひどい仕打ちを見ていたからです。でも、私は、ドイツの教会で赦しと和解のメッセージを語って来たのだ。ここからは彼女の文章です。私は祈りました。「イエス様。私を赦してください。この人を赦せるように助けてください。」私は笑顔を浮かべて手を出そうとしましたが、できません。自分の心の中に、その人に対する暖かい気持ちはまったくありませんでした。私は、もう一度深呼吸して祈りました。「主よ。私は赦せません。どうか、あなたの赦しの心を私にください。」そして、私は、その人の手を握りました。その時、奇跡が起こりました。まるで強い電流が私の肩から腕を通って、私の手からその人の手に流れて行ったように感じました。同時に、私の心の中に、言葉で表せない大きな神様の愛が流れて来ました。神様の力によって私は、その人を赦すことができたのです。

 どんなに深い傷を受けた人であっても、神様の助けによって赦すことができるのです。そして、私たちが、赦そうとやってみる時に、神様の恵みによって、神様の助けによって、自分だけではできないことができるのです。コリーがこの人を赦さなかったら、その後ずっと、心の中に何か苦い思いが残り続けて、決して幸いな心になることはなかったでしょう。しかし、神様の助けを受けて憐みを示した時に、神様が彼女の心の中に、圧倒的な愛と不思議な喜びと平安を注いでくださいました。憐みを表した者に、神様はさらに大きな憐みを豊かに注いでくださいます。

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