2023年7月9日『心の清い者は幸いです』(マタイの福音書5章8節) | 説教      

2023年7月9日『心の清い者は幸いです』(マタイの福音書5章8節)

 キリスト教の土台となっているのは、旧約聖書を信じるユダヤ教ですが、主イエスが人となってこの世に来られた時、今から2000年前ですが、そのころのユダヤ教はパリサイ人と呼ばれるグループが大きな力を持っていました。彼らは、聖書の命令を守って正しく生きることを目指していました。ただし、実際問題、聖書に記されたすべての命令を守ることは不可能です。彼らもそのことを知っていましたので、その中の一部、特に、宗教的な儀式に関する律法を選んで、それを一生懸命守ることによって、自分は正しい生き方をしている、そして、神様に喜ばれていると思い込んでいました。彼らがいつも大切にしていたのは、命令を守るという行いでした。ただ、パリサイ人がいつも気にしていたのは、自分にも回りの人にも見える行いであって、心の中のこと、なぜそのような行いをするのかということは全く考えていませんでした。当然の結果として、回りの人々を見て、人々が自分たちとおなじような熱心さで、宗教儀式的な行いをやっていないと、ひどく軽蔑し見下していました。このようにイエスの時代のユダヤ教は非常に堅苦しいものになっていました。そのような中で、主イエスが教えられたことは、神が大切にしておらえるのは、人間の外側の表面的な行いや生き方ではなく、人間の心の中であるということでした。私たちは、他の人を見て判断する時に、どうしても、その人の外側、外側の行いを見て判断します。しかし、神様がみておられるのは、私たちの外側ではなく、私たちの心です。今日は、主イエスが教えられた6番目の幸いに関する教えですが、それは「心のきよい者は幸いです」という教えです。

  • 心のきよい者

 心とは何でしょうか。聖書では、心は、ただ何かを感じる場所というものではありません。もちろん、心は人間の様々な感情を感じる場所ですが、それだけでなくて、人間が何かを考えて何かの行動をしようと決断する場所でもあります。心とは、人間の感情だけでなく、人間のすべての思いや意志を支配するコントロールセンターみたいなものです。旧約聖書の箴言4章23節にはこう書かれています。「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」私たちにとって、何よりも注意しなければならないのは、自分の心がいまどのような状態であるのかということだと箴言の言葉は教えています。そうしないと、私たちの心の願いが間違ったものを欲しがるようになり、間違った道を進んで行ってしまうことになるからです。主イエスと敵対していたパリサイ人たちは、心のことよりも、表面的な行い、特に宗教儀式に関する行いを忠実に行うことにこだわっていましたので、確かに宗教的には熱心でしたが、心の中は、回りの人間に対して、傲慢であり、心の中は他人をさばく思いでいっぱいでした。そのため、主イエスは、パリサイ人たちには、何度も厳しい言葉を語られ、彼らは「白く塗った墓のようだ」と言われました。その意味は、外側は美しく見えるが、心の中は、墓の内側が死人の骨や不潔なものでいっぱい名のと同じで、偽善と不法に満ちているということでした。クリスチャンである私たちも、自分の心をよく見張っていないと、外側の行いばかり気にして、心の中のことが放ったからしになる危険性があります。自分の心の中が、いつも、神様が願っているようにきよいのかどうか、自分の心を見張っていなければなりません。

 主イエスは「心がきよい者」と言われましたが、「きよい」を意味するギリシャ語は「カサロス」という言葉です。この「カサロス」という言葉には2つの意味があります。一つは、単純に清潔であるという意味です。たとえば、よごれた衣服を洗濯すると清潔になりますが、その状態を「カサロス」と言います。もう一つの意味は混じりけがないという意味です。水の混じっていない牛乳やお酒、混合物が入っていない金属などを意味する時に使われる言葉です。このことから、「心がきょい」というのは、一つには、心の中に罪や汚れがないことを意味しており、もう一つは、心の中が純粋で二心がないことを意味します。罪を犯した人間の心は罪の支配を受けていて汚れています。預言者エレミヤは、人間の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。」と言いました。人間の心は、自己中心という罪の性質によってねじ曲がっているので、人はまっすぐに進めません。人間の心も行いも罪に向かって歪んで進んで行きます。この世の中で、様々な問題があり、様々な出来事起きるのは、何よりも、人の心が曲がっているからです。また、二心というのは、私たちと神様との関係を表す言葉です。私たちも、誰かと話をしている時に、自分の心が相手の人ではなく他の人、他のことに関心があると、相手が一生懸命に話しかけて来ても、心が相手に集中していなくて、相手の話をちゃんと聞いていないことがあります。私たちの心は、神様だけに向けられているでしょうか。私たちが住んでいる世界は物質的なものが中心の世界です。主イエスはこの世とは何かと言って、それは、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢だと言われました。したがって、私たちはこの世の影響を受けているために、私たちの心が神様だけに向くのでなく、この世のことにも影響を受けてしまいます。しかし、主イエスは、はっきりと言われました。「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」この世では、多くの人が金を稼ぐこと、金をためることに必死になっています。でも、私たちが一生ずっと財産を蓄え続けて、莫大な財産ができたとしても、死ぬときは、すべてのものをこの世に残していかなければなりません。私たちの心は、神様のことだけに向けられているでしょうか。

 「心がきよい者」になるのは、ハードルが高すぎて自分には無理だと、私たちは考えてしまいます。しかし、クリスチャンは、主イエスを信じた時、罪が赦されて神の子どもとして受け入れられた時に、神の子として生きる新しい心が与えられています。ただ、私たちは、信じる前の生活の影響が残っているために、100%フルに新しい心を働かせていないのです。この体験は、使徒パウロ自身も経験しています。彼はローマ人への手紙7章15節で次のように告白しています。「わたしには自分がしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。」パウロの心の奥底には、ただ神のために生きて行きたいという純粋な願いがあるのですが、自分の内にまだ残っている古い罪の性質が強く働いて、自分の心の願いを抑え込んでしまうのです。私たちが完全に「心のきよい者」になれるのは、天国に行った後です。ただ、私たちは、神様に対する純粋な願いができるだけ強く働くようにいつも心を見張っていなければなりません。私たち、主イエスを信じる者が心を清く保つためには何をすれば良いのでしょうか。第一に、私たちは、正直に自分の心の状態を認めることです。自分の心の中は罪に汚れていないか。自分の心を神様だけに向けられているのか、私たちは、このようにして自分の心を見張っていなければなりません。第二に、私たちは、人の心をきよくすることができるのは神様だけであることを認めなければなりません。自分自身に葛藤したパウロも、ピリピ人への手紙の中で、「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、ことを行わせてくださる方です。」と語っています。神様は弱い私たちの中に働いて、神様のみ心にかなったことを行わせることのできるオア方あなのです。私たちが、神様に祈り、神様の助けを求める時に、神様が働いてくださり、志を立たせてくださって、クリスチャンに与えられている新しい心が働くようにしてくださます。第三に、私たちは、私たちの心をみ言葉で満たさなければなりません。詩篇の119篇を書いた人は、9節でこう語っています。「どのようにして人は自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに、道を守ることです。」私たちを心を清く保たせるのは、神様の言葉です。聖書を読み、神様の言葉で心を満たす時に、私たちの心は清目られて行くのです。

(2)その人は神を見る

「心のきよい者」の幸いは何でしょうか。「その人たちは神を見るからです。」と主は言われました。ここでも、「その人たちは」という言葉が強調されているので、もう少し強く訳すと、「その人たちだけが神を見るからです。」となります。しかも、神を見るのは、天国に行った時のことではなく、今、地上で生きている時に神を見ると主イエスは言われました。もちろん、私たちが地上で生きている間は、他の人を見るように神様を見ることはできません。聖書は、神を見る者は死ななければならないと書いています。しかしながら、私たちは、さまざまな方法で神の存在を感じます。私たちが主イエスを救い主と信じる時に、神様は私たちに新しい信仰の心を与えてくださいます。そして、私たちは、神様の存在を感じながら生きる者になります。私たちが、信仰の目でものを見、信仰の耳でものを聞くようになるからです。旧約聖書の時代の人々にとっても、神を見ることは最も大きな希望でした。アブラハムもモーセもダビデも何度も、神様の存在を身近に感じて、いろいろな問題や困難を乗り越えることができました。主イエスを信じる信仰によって、私たちの心の目がきよめられると、神様が見えるようになるのです。神様を信じない人は、神様に対してまったく無関心です。人間の罪の心は信仰の目を奪いますから、霊的なものが見えません。また罪人の考え方は自己中心です。いつも自分のことばかりを見ているので神様が見えません。しかし、主イエスを信じる者に、神様は、神様を見ることのできる目を与え、神様の言葉を聞くことのできる耳を与えてくださいます。私たちは小さな一人の人間にすぎませんが、クリスチャンの特権は、その小さな私たちのすぐそばに、全地全能の神様、今も生きておられる神様がおられて、私たちとともに生きてくださることです。それが、私たちに大きな力と希望を与えます。先週の水曜日、7月5日に、山崎ヨシ子姉が肝臓ガンの手術を受けられました。祈り会や礼拝の中でも祈りましたが、多くの人が山崎さんのために祈りました。私たちの祈りは神様に届けられましたが、そらだけでなく、山崎姉にも届いていました。手術の翌日、山崎姉からメッセージを受け取りました。こう書かれていました。「お祈りありがとうございました。腹腔鏡での手術が成功しました。今日のお昼ごはんはお粥ですが食べられました。すでに廊下を歩いています。主は今度もお祈りにこたえてくださいました。病室にも、手術室にも、集中治療室にも、主がおられました。主にあって乗り越えられます。多くの兄姉の力強いお祈りが私の耳にも届きました。主がお聴きになられました。」今回の手術は腹腔鏡での手術でしたが、獲れない場合はL字にお腹を開くことになると山崎姉は手術前に言っておられましたが、無事に腹腔鏡だけの手術で、悪いものはすべて取られたようです。私も数年前、上顎の手術を受けましたが、麻酔で眠る前の手術台の上で仰向けになっている時、私はとても緊張していました。山崎姉も、手術の前、手術の直前、直後、つねに、自分のすぐそばに神様がいることを感じていました。心の目で神様を見ていたのです。このような経験は、誰にもあります。今も生きておられる神様は、どのような状況の中でも私たちのために働いてくださるのです。

 しかし、それだけではありません。主イエスを信じる者、心をきよくしていただいた者は、やがて、神様を顔と顔を合わせて見ることのできる日が来るのです。私たちは、いつか、この世を去る時が来ます。しかし、その時は、私たちの存在がなくなってしまう時ではありません。私たちは、新しい時代に移って行く時なのです。私たちは、一瞬の眠りの時があります。しかし、目を覚ますと、私たちは、父なる神の顔、御子イエスの顔を見ることができる者に変えられているのです。神を見ることができる日、それは、私たちの人生で最も素晴らしい栄光に満ちた日です。旧約聖書の中で、誰も経験したことのないような試練を経験したヨブと言う人は、神を見ることの希望について次のように述べています。彼は、自分に起きた試練は、神様とサタンの相談のうえで、彼の信仰を試すためにサタンが神の許可をもらって引き起こしたものでした。もちろんヨブはそのことは全く知りません。常に神を信じてきたにも関わらず、ヨブは、その試練の中で大切なすべてのものを失いました。しかし、そのような中でも、神様への信仰を失うことはありませんでした。彼は神が自分の味方であることを確信していました。それだけでなく、彼は、自分が死んでも生きるという死んだ後の復活を信じていました。旧約聖書の人物の中でヨブが最初に死者の復活を信じた人物でした。ヨブ記の19章25-27節を読みましょう「私は、知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには土のちりの上に立たれることを。私の皮がこのように剥ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。他の者ではない。私の思いは胸のうちで絶え入るばかりだ。」イエスの復活が起きるはるか以前に生きていたヨブは復活の信仰を持っていました。私たちは、主イエスの復活を信じる者たちです。そうであるなら、私たちは、ヨブ以上に、死後の復活に希望を持たなければなりませんし、持つことができるのです。私たちは、この目で神様を見る時が必ず来るのです。そのことを自分自身の希望としてしっかり握りしめておきましょう。その時、私たちは、何を恐れる必要があるでしょうか。

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