2023年7月16日 『平和をつくる者は幸いです』(マタイ5章9節) | 説教      

2023年7月16日 『平和をつくる者は幸いです』(マタイ5章9節)

 今日の箇所は、今年の聖句になっている言葉で、1月1日の礼拝でもここから語りましたが、もう一度、この言葉を取り上げたいと思います。デュラントという人が書いた「歴史からの教訓」という書物の中に、次のようなことが記されています。記録が残っている最古の時代から今日までの約3400年間の中で、全世界で戦争がまったくなかった年は268年しかなかったそうです。第二次世界大戦後、同じような戦争を繰り返さないために国連が造られたたり、様々な努力がなされましたが、2023年まで戦争がまったくなかった年は一度もありませんでした。主イエスの時代、世界の中心であったローマ帝国は、主イエスが生まれた時の皇帝アウグストから約200年間周囲の国々を制圧していたので、大きな戦いが起こりませんでした。そのため、この時期を「ローマの平和、ラテン語でパックス・ローマーナと呼びますが、戦いがなかったのは、ローマ帝国が強大な力で周囲の国々を制圧していたためだったので、イスラエルでは何度もローマ帝国に対する反乱が起きていました。それは、本当の意味での平和ではありませんでした。主イエスは「平和をつくる者は幸いです。」と言われましたが、ただ単に戦争がない状態が平和ではありません。今日は、マタイの5章9節から、「平和をつくる者の幸いについて考えたいと思います。

  • 平和をつくる者

 主イエスが言われた平和とはどんな平和を意味するのでしょうか。イエスが語る平和とは、単に争いがない、戦争がない状態を言うのではありません。主イエスの語る平和とは、神様の義、神様の正しさが支配する状態を意味します。人間は神様の義がない状況でも戦いを止めることはできますが、それは、単に、一時的に戦いが起きないだけの休戦状態で、何かのきっかけですぐに戦いは始まってしまいます。人間の罪が支配する中では、誰もが自分が一番だと考えるので、自分の一番を邪魔する人をそのままにしておくことができないのです。戦争がない状態は、今日の状況を見れば、いとも簡単に崩れることは明らかです。主イエスが言う「平和」は、神様によって与えられる平和のことであり、そのために、人がまず自分の罪を悔い改めて、主イエスを信じる信仰によって神様との平和を持つことが土台となります。ユダヤ人の言葉へブル語では平和を「シャローム」と言うのですが、シャロームとは、何かがない状態という否定的なものではなく、人間の最高の幸福を創り出すすべてのものを意味します。ユダヤ人は、人と出会った時に「シャローム」と挨拶をするのですが、その挨拶は、その人にすべての良いことが起こることを願う挨拶です。しかも、そのすべての良いことを与えてくださるのは神様であることを意味します。ヤコブの手紙の3章16-18節に人間の知恵と神様の知恵とが比較されている箇所があります。「ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。しかし、上からの知恵は、まず第一にきよい物です。それから、平和で、優しく、強調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって、平和のうちに蒔かれるのです。」この世の知恵とは、この世の人々が大切にしている考え方ですが、それは、先ほども言いましたように、「自分ファースト」「自分第一」です。従って、16節にあるように、そのような人々が共に生きる世界では、妬みや秩序の乱れや邪悪な行いがあるのです。それは、今の社会を見れば明らかです。旧約聖書にバベルの塔の話がありますが、バベルの塔は人間の目から見れば素晴らしいものです。天にまで届くような高い建物を建てるのですから、人間の知恵の深さと技術の大きさを示しています。しかし、神の目には、彼らの行為は傲慢な考えから出た愚かなものでした。その結果、人々の言葉がバラバラになり、人々は分裂してしまいました。一方、神様から与えられる知恵は、清さ、平和、優しさ、強調性、憐みであり、偏見も偽善もありません。私たちは、自分たちが持っていないものを創り出すことはできません。従って、平和を創り出す人になるためには、まず、私たちが、神様からの知恵を受け取らなければなりません。そのためには、私たちが、神様の声を聞いて、その声に従うことが必要です。平和にとって最も大きな妨げになるのは人間の罪なのです。その罪が解決されていないと、人間は平和を創り出す人になることはできません。

 平和を造る人には、3つの特徴があると思います。第一に、その人は、自分自身が神様との平和を持っている人です。聖書の教えを福音と言いますが、それは、神様との平和を持つための教えです。人間には自己中心を特徴とする罪の性質があるため、主イエスを信じる前の人間は神様と敵対関係にあります。私たちが自分の罪を悔い改めて主イエスを信じる時に、その信仰により、私たちに神の義が与えられます。古い自己中心の性質を持つ自分に、いわば神の義の性質が接ぎ木されるようなものです。それによって、私たちに神の義が与えられるのです。この世界に平和を造る人になるためには、まず、私たちの内に神の義が与えられなければなりません。第二に、平和を造る人は、他の人が神との平和を持つことができるように導こうとする人です。クリスチャンは、霊的に高い境地に到達したエリートではありません。自分の罪が主イエスの十字架によって赦され、神の子としていただいたことに感謝しつつ神と共に生きることを決断した人々です。主イエスが厳しく批判したパリサイ人は、自分たちがユダヤ教のエリートだと思い込み、回りの人々を軽蔑していました。彼らは、ローマ人たちともサマリヤ人たちとも平和の関係を築こうという考えをまったく持っていませんでした。傲慢な人は、平和を作ることはできません。第三に、平和を造る人とは、人が互いに平和の関係を築くことを働きかける人のことを意味すると思います。クリスチャンは、信仰を持った時に、神様との平和を持つ者になりました。神様の願いは、神との平和を持った一人一人が、いわば、神の国の大使として、罪と争いに満ちたこの世界で、人同士の平和を広げようと努める人になることです。もちろん、そのために、まず、自分自身が人々との平和を持っていなければなりません。主イエスはマタイの福音書5章23節でこう言われました。「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、戻って、そのささげ物を献げなさい。」ユダヤ人は、神様を礼拝するためにエルサレムの神殿に行きました。それはその人にとってとても大切な出来事でした。神殿の回りの庭をいくつか通って祭司の庭まで来てそこで、動物のいけにえを祭司に渡して、祭司とともに祈りを捧げます。しかし、ある人が、それをしようとしていた時に、自分が自分の近くにいる人から何らかの理由で憎まれていることを思い出した場合、その人がするべきことは、祭壇でいけにえをささげることではなく、それをする前に、その人のところに行って仲直りをすることが先決だと、主イエスは言われました。私たちにとって、宗教の儀式を行うことよりも、他の人との関係を正しくさせることのほうが大切だと、主イエスは言われました。クリスチャンは、特に、偽善に注意しなければなりません。信仰的な行いをすることで、自分の本当に解決しなければならないことを放っておく危険があります。私たちが、主イエスが言われたことを実践する時にこそ、私たちは、平和をつくる人になることができるのです。

  • 神のこどもと呼ばれる

 平和をつくる者の幸いは何でしょうか。主イエスは、「その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」と言われました。神は永遠に存在される神です。従って、神の子どもも永遠に生きる者になることを主イエスが保証されました。私たちの社会では、裕福な家庭に生まれる人は、将来、親の財産を受け継ぐことになりますから、その人は恵まれていると思います。また、政治家の家庭や有名人の家庭に生まれた人は、誰々さんの子どもと見られて、人々から称賛されたり、特別な扱いを受けたりします。しかし、人間の家庭で人がこの世で受け継ぐものがどれほど素晴らしいものであったとしても、私たちが神の子どもとして受け継ぐものと比べたら、比べ物になりません。ヨハネの福音書17章に、主イエスが十字架にかかる直前に父なる神に長い祈りを捧げたことが記されています。その中に、次のような祈りがあります。24節を読みましょう。「父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。」ここで、主イエスが「わたしにくださったもの」と言われたのは、主イエスを信じた者たちを表していますが、主イエスは、主を信じる者たちを自分のいるところにいるようにしてほしいと父なる神に願っておられるのです。私たちは、自分が好きな人を家に呼んで一緒に食事をしたいと思います。自分の家に友だちを招いてパーティーを開くことは楽しいことであり、その準備のために買い物をしたり片づけをすることも楽しく、パーティーの日を楽しみに待ちます。そのように、主イエスは、私たち、主イエスを信じる者たちを自分の家、天国に招きたいと父なる神に訴えてくださいました。しかも、それには目的がありました。それは、私たちが主イエスの栄光を見るためでした。そしてその栄光について、主はこう言われました。「世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたが下さった栄光を。」その栄光とは、父なる神が、この世界が造られる前から御子イエスを愛しておられた愛のゆえに、御子イエスに与えられた栄光です。その栄光の素晴らしさ、神々しさは、私たちの頭で想像することは無理です。そんな素晴らしい栄光を、主イエスは、私たちに見せてあげたいと思っておられるのです。神の子どもとなって永遠に生きることが、どれほど素晴らしいことなのか、私たちは心から楽しみにしたいと思います。

 神の子であることは、これほど素晴らしいことなのですが、神の子と呼ばれるのは「平和をつくる者」だけです。平和を作り出そうとする心は、神の子が持っている当然の性質なのです。従って、絶えず争いを引き起こす人、けんか腰の人、分裂を引き起こす人は、本当に神の子なのかどうか分かりません。自分が神の子であるかどうかを決めるのは私たちではありません。神様が、誰が神の子であるのかをお決めになります。そして、主イエスが教えられた幸いとは何かという教えによれば、神の子とは、心の貧しい者であり、自分の罪を悲しむ者であり、柔和な者であり、義に飢え渇く者であり、憐み深い者であり、心の清い者であり、平和をつくる者なのです。主イエスは、そのような人が「神の子と呼ばれる」と言われましたが、「呼ばれる」という部分は、継続的な未来を示す形であり、受け身の形になっています。受身形であるということは、私たちを神の子と呼ぶのは、自分自身ではなく、神様であることを表しています。旧約聖書の預言者エレミヤの時代に、イスラエルに多くの偽預言者が現れ、エレミヤが語ることとは全く反対のことを言って、。人々の心をつかみました。そして彼らはエレミヤを激しく攻撃しました。しかし、偽預言者が言ったことは実現せず、エレミヤの預言のとおりのことが起こりました。そのように、私たちが神の子であることを決めるのは神様ご自身であることを覚えて、私たちはいつも謙虚になって、自分が実際に、主イエスが教えられた幸いな生き方を実践しているかどうか確認する必要があります。

 神様は私たちを「こども」として扱ってくださいます。これは大きなことです。普通の親であれば、自分の子どもを愛し、自分のこと以上に子どものことを考えます。聖書には神様が私たちを愛しておられることが繰り返し記されています。例えば、旧約聖書のゼカリヤ書2章8節に神様の言葉が記されています。「あなたがたに触れる者は、わたしの瞳に触れる者。見よ。わたしは彼らに手を振り上げる。」瞳は、目の非常に敏感な部分で、体の外の世界にさらされています。私たちは、危険を感じると、とっさに自分の目を守ります。神様は、私たちをご自分の瞳のように見ておられて、小さな危険が起きた時でも、まず第一に私たちを守ってくださるのです。神の子を攻撃する者は、神様の目に指を突き刺そうとしていることになります。神様はそのような者に手を振り上げると言われました。また、詩篇の56篇8節に次のような言葉があります。「どうか私の涙を、あなたの皮袋に蓄えてください。」この言葉は当時のユダヤ人の習慣を表しているのですが、ユダヤ人は、愛する人を失くすと、自分が流した涙を小さなビンにためていました。そして、そのビンをその人の墓に置いていたそうです。神様は、私たちを愛しておられます。私たちの悲しみも苦しみもすべて知っておられて、それを一つ一つ覚えてくださるのことを表しています。私たちは、父なる神様から、これほどに愛され、守られ、また、神様は私たちの悲しみ苦しみのすべてを一つ残らず共に感じてくださる神様です。だからこそ、神の子どもと呼ばれることがどれほどすごいことなのか、私たちはいつも覚えておかなければなりません。平和をつくる者だけが、この特権を持つことができるのです。

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