2023年7月23日 『義のために迫害される人』(マタイ5章10-12節) | 説教      

2023年7月23日 『義のために迫害される人』(マタイ5章10-12節)

 これまで、主イエスが教えられた8つの幸いについて考えて来ましたが、今日は、そのクライマックスとなる8番目の幸いです。しかし、この最後の幸いは、普通の人間の考えや経験では、どう見ても幸いとは思えないものです。主イエスは10節でこう言われました。「義のために迫害されている者は幸いです。」この言葉は、言い換えると、それまでの7つの幸いの生き方をする人は、迫害を受けることが多いのだということを主イエスは人々に教えておられるのです。「心を貧しくし、罪を悲しみ、柔和に生きることを求め、義を追い求め、心を清くし、憐み深い心を持ち、平和を作り出そうとする者は、この世にあっては、迫害を受けることが多いと言うことです。一般的に、宗教は、人々に信じればご利益があると教えます。商売が繁盛するとか、病気にならないとか、家の中が安全だとか、信じればいいことがあると教えます。しかし、主イエスはそのようなことを教えませんでした。信じると、すべて人生バラ色だという約束は聖書にはありません。むしろ、罪に満ちていて神に敵対するこの世の中にあっては、神を信じる者たちに対する迫害があることを、聖書ははっきりと教えています。私たちは、人々から自分の信仰のために、からかわれたり、罵られたり、ひどい仕打ちを受けると心が折れそうになります。しかし、主イエスは、それが幸いであると教えられました。それはなぜなのでしょうか。今日は、義のために迫害を受ける者の幸いについて考えたいと思います。

  • 義のために迫害される

 キリスト教の歴史は迫害の歴史と言われています。日本でも戦時中はキリスト教は敵国の宗教として迫害され、多くの牧師が捕らえられ、教会は閉鎖を命じられて、礼拝を守ることができませんでした。今も、世界各地で、キリスト教に対する迫害は続いています。主イエスの時代に、クリスチャンが迫害されたのには大きく2つの理由がありました。一つは、クリスチャンに対する悪い噂が広がっていました。それは、主イエスの教えに従って教会では聖餐式が行われていましたが、キリストの体を食べ、キリストの血を飲むという言葉が誤解され、クリスチャンは子どもをいけにえにしてその肉を食べていると噂されていました。また、クリスチャンは不品行であるとも噂されていました。当時、クリスチャンは毎週の集会をアガペーの集い、すなわち愛の集いと呼び、ともに食事をすることを愛餐と呼んでいました。今でも、教会で皆で食事をすることを愛餐会と呼びます。また、クリスチャンたちは平安の口づけのあいさつをしていたのですが、それが誤解されて、クリスチャンの集まりは非常に不品行な集まりだと罵られていました。今の時代でも同じですが、悪意のある目で教会を見れば、批判する材料はいくらでもありました。

 しかし、それ以上にクリスチャンが迫害された大きな理由は政治的なものでした。ローマ帝国は北はイギリス、東はユーフラテス川、南は北アフリカまで広がっていたために、領土内には様々な人種、民族がいました。それらを統一して支配することは、今の中国を見れば分かりますが、非常に難しいことでした。そこで、ローマ帝国は、諸民族をまとめるために、それぞれの民族の文化や宗教を認める代わりに、ローマ皇帝を神として年に一度礼拝することを帝国の住民に命じました。ローマ帝国内の全ての人は、年に一度、ローマ皇帝の像の前で、香をたき、「ローマ皇帝は神なり」と言えば、リベルスと呼ばれた証明書が発行され、それを持っていれば、人々は自由に自分の神を礼拝することができました。これがローマ帝国の全国統一の方法だったのです。しかし、クリスチャンは、ローマ皇帝を神として礼拝することを拒否したために、彼らがどんなに善良な市民であっても、ローマ市民としての特権を奪われ、迫害を受けるようになりました。

 しかし、歴史が流れて今日に至っても、この世はキリスト教やクリスチャンに対して批判的です。それはなぜなのでしょうか。主イエスご自身が自分の兄弟、つまりヨセフとマリアの子どもたちに語っておられる言葉があります。ヨハネの福音書7章7節を読みましょう。「世は、あなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」主イエスが神の子として働いておられた時、イエスの弟たちは、まだイエスを救い主と信じていませんでした。イエスの働きを止めさせようとしていました。彼らは世の中の人々と同じ生き方をしていたので、この世が彼らを憎むことはありませんでした。しかし、世は主イエスを憎みました。それは、主イエスがこの世の人々の罪を指摘して、罪には裁きがあることを教えておられたからです。聖書の神様は愛の神ですが、同時に聖なる神であり、悪をさばく神です。聖書の教えは福音と言われますが、それは、この世の人々の罪は赦されるという知らせです。しかし、自分の生き方を変えたくない人々、この世の罪の流れに従って生きたい人にとっては、福音は裁きのメッセージになります。聖書は悪は悪だとはっきり指摘するので、この世の人々に憎まれるのです。21世紀は多様性の時代だと言われ、一人一人の多様性を重んじます。多様性を重んじること自体は悪いことではありませんが、神の目からすると、この世の人々は、正しいことと間違っていることをあやふやにして、何でもその人が良いと思うことは良いことだという考えに陥ってしまう危険があります。旧約聖書の中に士師記という書物がありますが、この時代、イスラエル民の間には罪と悪がはびこっていました。イスラエルの民の信仰にとっては暗黒の時代です。士師記は、彼らの不信仰を示す言葉で最後をしめくくっています。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが、自分の目に良いと見えることを行っていた。」21世紀の人々は、士師記の時代の人々と同じです。自分にとって良い事は良い事だという考え方です。しかし、聖書は悪は悪であり、罪は罪であることを指摘し、罪の中に生きることは、その罪に支配された不自由な生き方であって、けっして幸いではないと教えます。そのことを人々は憎むのです。21世紀は寛容の時代であり多様性の時代と言われ、誰もが一人一人の生き方を寛容な心で尊重する時代と言われます。となると、世の人々から見れば、キリスト教もこの世の多くの宗教の一つであって、その教えを寛容な心で尊重するはずなのですが、なぜか、実際には、この世の多くの人は聖書の教えに対して、自分たちの教えを絶対的真理として教えている排他的な教えだとして、激しく批判します。この世の人々は寛容な心を主張していますが、キリスト教に対してだけは寛容な心を持っていません。それは、寛容の時代・多様性の時代を主張する生き方こそ、サタンからの誘惑であり、人間の罪の特性そのものの生き方だからです。従って、私たちが、真剣に主イエスの弟子として生きようとすれば、この世の人々から、批判的な目で見られることを私たちは覚えておかなければなりません。

  • なぜ、迫害されることを喜ぶのか

 ただ、主イエスは11節、12節で「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。」と言われています。迫害されること、人々からののしられることは決して喜べることではありません。主イエスの言葉の意味は何でしょうか。まず、主イエスは「わたしのために」と言われました。10節でも「義のために迫害されている者」と言われています。ここでイエスが言われている幸いは、主イエスの弟子として神のみ心にかなった生き方を目指し、この世に神の義、神の正しさが少しでも広がるために積極的に生きている人々に与えられた約束だということを覚えておかなければなりません。私たちが自分勝手な生き方によってこの世の人々から反感を買った場合は、それは義のための迫害ではなく、イエスが言われた幸いには当てはまりません。私がクリスチャンになったばかりの頃、何かの集会で教えられたことがありました。ある教会の若い信徒が親から迫害されていると訴えたそうです。その教会の牧師がその信徒の親と話したところ、その信徒は日曜日の朝になると、教会学校の奉仕があって早く家を出なければならないのに、ぎりぎりまで寝ていて、布団も片付けず、ご飯も食べずに、慌てて家を出て行くので、そのことを親がちょっと注意すると、その信徒は親から迫害を受けたと言うということでした。これは迫害でも何でもなく、その人の生活態度が間違っていたのです。クリスチャンは一人一人、生活のあらゆる面でよい証しをしなければならないということを私は教えられました。私たちが周囲から何か言われた場合、それが義のための迫害なのか、それとも自分自身が改めることなのか、そこはきちんと区別することが必要です。

 12節で主イエスは義のゆえに迫害を受ける時に、「大いに喜びなさい」と言われました。「大いに喜ぶ」と訳されているギリシャ語はアガリアスサイという言葉ですが、これは「飛ぶ」という言葉と「大いに」という言葉からできています。つまり、「大いに喜ぶ」とは飛び上がって喜ぶほどの喜びです。なぜ、私たちは、迫害をこれほどに喜べるのでしょうか。主イエスは、「天においてわたしたちが受ける報いが大きい」と言われましたが、なぜ、私たちの報いが多いのでしょうか。一つは、迫害を受けるということは、私たちの信仰がイエスの忠実に仕える信仰であることを示すものだからです。最も偉大な殉教者の一人に、ポリュカルポスという人がいますが、彼が群衆によってローマ総督の前に引きずり出された時、彼は総督から「ローマ皇帝の像にいけにえをささげるか死ぬかを選べ」と迫られました。その時彼は次のように答えました。「これまで86年間、私はキリストに仕えましたが、キリストは一度も私を不当に取り扱われることはありませんでした。どうして、私は、わたしの罪を赦して下さった王の名を汚すことができましょうか。」と答えて、彼は死を選びました。処刑の時、彼は「全能の神、御子によって救いを与えてくださった神、この日この時、私をふさわしい者とみなしてくださったことを感謝します。」と祈ったそうです。

 また、私たちが試練や迫害を経験する時、私たちは、より一層、神様が私たちとともにおられることを経験することができます。私たちは、この世にあっては、物質的な損害を被ること、人間関係が壊れること、場合によってはいのちを失うことさえあるかも知れません。私たちは、困難を経験する時ほど、神様により頼むしかありませんから、それだけ、神様がともにおられることを強く感じます。私の母がクリスチャンになった時、私の父は非常に怒りました。その時から約5年間、父は母に対して迫害とは言えないですが、とても辛く当たるようになりました。私は父が母に対して怒鳴っているのを聞くたびに胸がどきどきしました。ある夏の日、いつものように父から罵られた母がはじめて耐えられなくなったのか、2階の私の部屋に入って来て私に「お祈りして」と頼みました。私も、動揺したのですが、とにかく、聖書の言葉を読もうと言って聖書を開きました。今、それがどの聖句だったのか覚えていないのですが、パッと聖書を開いたら詩篇が出てきて、二人で、その詩篇の言葉を読んで、そして、私が母のためにお祈りをしました。私の祈りが終わると、母も落ち着きを取り戻して、「もう大丈夫」と言って下に降りて行きました。5年間でそういうことはただ一度でしたが、その時に読んだ聖書の言葉が、その時の私たち親子にとっては、本当に、慰めになる言葉だったことを今でも覚えています。本当に、神様は生きておられると感じた時でした。父は、いろいろな出来事を通して、私たちが信じている神様の力を感じたのか、少しずつ心が開かれて行って、母の洗礼から5年後、教会で行われた特別伝道集会の中で、主イエスを信じる決心をしました。この5年間は、母にとっては少ししんどい時ではありましたが、同時に、神様を本当に近く感じる時でもありました。また、その経験によって、神様へ信仰が強められました。

 12節、主イエスは「あなたがたより前にいた預言者たちを人々は同じように迫害したのです。」と言われました。ユダヤ人にとって、旧約聖書の預言者たちは、ヒーローのような存在でした。ほとんどの預言者が迫害を経験し、殉教者もいることから、イスラエルの人々は預言者を非常に尊敬していました。ここで、主イエスが旧約聖書の預言者のことを言われたのは、キリストのしもべとして生きる者は、預言者であれ、ごく普通の信徒であれ、キリストの弟子であることに変わりはなく、すべてのクリスチャンには、神の栄光のために生きること、神様のことを宣べ伝えるという使命が与えられていることを教えるためでした。この働きは、ずっとこれからも受け継がれて行くべきものです。主イエスは、8つの幸いについて語られましたが、この最後の8番目のものだけ、3節に渡って、その教えについて詳しく語られました。それは、義のために迫害を受けることこそが、キリストのしもべとして生きていることの確かな証拠だからです。従って、主イエスは、そのことがただ幸いなことだと言われただけでなく、もっと積極的に、義のために迫害を受けることを「喜びなさい。大いに喜びなさい。」と、これから迫害を受けることになる人々に向かって励ましの言葉を残されました。今の日本では、主イエスを信じる信仰によって、殺されることはないと思います。私たちは、キリストのために死ぬ必要はありません。しかし、私たちは、キリストの弟子として、キリストの栄光を表す生き方をすることが求められています。その生き方をする者には、神様が天国で、私たちの想像を超える報いが約束されているのです。それは永遠に続く報いです。そのことを覚えつつ、天国のことを思いつつ日々歩んで行きましょう。神様が必ず勝利する時が来ます。

 ローマ帝国のキリスト教に対する迫害は約300年続きました。最後の大迫害はディオクレティアヌス皇帝の時、298年のことでした。皇帝はキリスト教を完全に地上から抹殺しようとして、クリスチャンを捕らえて残酷な方法で処刑し、また、聖書を集めて燃やしました。その結果多くのクリスチャンが地下に隠れました。彼が、地上からクリスチャンの姿が消えたのを見て、新しいコインを作り、そのコインに「キリスト教は滅んだ」と記しました。また、ローマの中心に塔を建てて、sこには、この世からクリスチャンは絶滅したと書きました。しかし、彼の死後、次のローマ皇帝をめぐって、コンスタンティヌスと言う人物がライバルとの戦いに勝利をして皇帝の地位を得ましたが、ライバルとの戦いの前に、彼は空に幻を見ました。それは十字架の幻で、その横に、この印のもとに勝利せよという言葉を彼は見ました。コンスタンティヌスは、これを神からの印と信じて、彼は、もしこの戦いに勝利したらこの神を信じると宣言しました。そして、彼はこの戦いに勝利し、それによって、300年続いたクリスチャンへの迫害は終わりました。そして、最終的に、ローマ帝国はキリスト教の国なりました。クリスチャンが地上から絶滅することはなかったのです。最後に勝利したのは聖書の神でした。私たちは、この世にあって、苦しい事、辛いことを経験することもあるでしょう。しかし、最後に勝利するのは、必ず、聖書の神であることを忘れてはなりません。

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